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16
※
「早速になるが、済ませるぞ」
「もう出来るんですか?」
「出来る。準備は現場に着く前に終わらせるもんだ」
ほんの少し背の高い大ケ谷三月の正面に、ほんの少し背が低いマチが立った。マチが取り出したのは昨夜、と言ってもほぼ明け方調合を始めた薬の一部だった。種類に応じて必要になるものが違うと言って調合した薬の数は十を越えた頃にはカケルも確認を止めた。
小さな透明の袋に詰められた親指の爪程の大きさの、幾つもあるその中から、マチは一粒を大ケ谷三月の手のひらに乗せた。
「これも、夢を見ない薬ですか?」
「いや。これは分離する薬だ」
「分離?」
聞くに、どこか痛みを感じる言葉に大ケ谷三月は少し、身構えた。
「あんたに夢を見せてるものはあんたの中に棲み付いてる。それを追い出す薬だ」
「これを飲めば、もう終わるんですか?」
「あんたにとっては一瞬で終わる」
「私?」
「その後は、俺とソイツの番だ」
ここまで、ヒナキの言うことに間違いはなかった。薬を飲めば夢は見なかったし、先程のJR内でも何事もなく眠ることが出来た。そしてなにより、この事態を引き受け、こんな所にまで来てくれた。この場所にどんな意味があるのか、ソイツとはなんなのか、この夢も、この薬も、どれも本当の所はわからない。けれど確実な効果もあり、ヒナキはどれも知った様子で話す。自分がまるでわからず、考えるにもどの引き出しを開ければよいのかすらわからないものを、ヒナキは知っているようだった。
ここまで来て信じない選択があるだろうか。考えたが、考えてもやはり、それ自体どの引き出しで答えが出るのかもわからなかった。なによりもう、あんな夢を見たくも、見てしまうべきでもない。脳裏にあの母親の咆哮も、少年の表情さえも浮かんだ。自分の中に原因が在って、このままあの家に帰った所でまた違うものが起こってしまっては。
大ケ谷三月は意を決し、手のひらの薬を口に運ぼうとするとヒナキが止めた。そうして「池の水で」と促した。今や大ケ谷三月にそれを躊躇う余裕もない。手のひらを口に押し付け、薬を舌に乗せた。そのまま水面に屈む間に広がる苦味は舌先に刺さるような刺激だった。土に膝をつき、両手で手酌し池の水を救うと思った以上に生温い。けれど透き通る美しさに嫌悪はなく、大ケ谷三月は池の水を口に含んだ。いざ薬を飲み込もうと喉にかかったその瞬間、なんとも言えない苦味が食道に広がった。
そして、飲み下した、その瞬間。
急激に腹の中が膨らむような感覚と同時に異様な吐き気に襲われた。耐えられるかどうかという問題にもならない。あまりに強いその感覚はまるで体の内側からめくれ上がるかのようだった。
時間にしてものの数秒、えも言えぬ不快感は腹部から湧き上がるように大ケ谷三月の頭部に達し、喉から溢れ出すその間際、体が池の中に沈んだ。いや、大ケ谷三月が池に沈んだのではなかった。腹の中で膨れ上がるものを吐き出しかけた彼女が体をくの字に曲げた瞬間、周囲一帯が水に沈んだのだ。
地面から盛り上がるように水が沸きだし、ほんの一瞬にして森が水に浸った。その水はカケルの膝上にまで達し、マチの下半身が沈み、大ケ谷三月の体を飲み込んだ。不思議なことになんの音もない、これだけの事が起きて、草木が鳴る音すらも消えていた。
森を飲み込んでも濁りすらもない水の中、陽の光すらも飲み込んだ池の傍に沈む大ケ谷三月の姿が見える。傍らに立つマチは体の半分が水に浸っているが、未だ身動きする様子がない。
マチと共に場数を踏んだカケルは冷静に、水で濡れてしまわないよう荷物を抱きかかえ、じっとマチの動向を窺った。そうして十数秒が経った頃、消えていた音がこの場に戻った。消える前の音とは似ても似つかぬ、異様にうるさく、低い音に変わって。
全身が沈んだ大ケ谷三月は、水中で奇怪な体験をしていた。体が池に沈んだと感じた後、幾らかして喉からなにかが出て行った。まるで体内の空気だけをかき集めて、水に沈んだ所為でそれが出て行くような感覚だった。逆さにして水に沈めたコップから空気が水面に向かって出ていくような、何故かそれまでの不快感もない。寧ろ心地よい、水中に溜まる光が眩しい程に輝いて、水流で動く緑も湧き出る泡もあまりに美しい。悠久かのように、穏やかな気分になった。
見蕩れていた光景に現れたのは、恐らく大ケ谷三月の体から出て行ったものだった。美しい光溜まりが、なにかの動きに合わせて揺らいだ。その動きが生き物であろうことは疑わなかった。きっとそうであろうと感じたのは、姿がないそれと、目が合っている気がしていたからだった。
光溜まりの揺れだけで、それが徐々に近付いてくるのがわかる。生き物の動きは何故か、水流には変わらない。光の動きだけが、それに反応しているようだった。
距離は、一メートル少しまで来ただろうか。それは大ケ谷三月の目の前にいる。ずっと、正面の光溜まりが揺らいだまま、同じ動きを続けていた。「ああ」と、大ケ谷三月は思った。その光溜まりの揺れは、ずっと夢で見ていたものによく似ていた。
突然、違う水流で光が揺らいだかと思うと、正面にいる生き物が一瞬、その姿を現した。陰ったその体に墨を落としたように黒が刺し、丸みのある異様に大きな体と変わらず透明な目を、浮かび上がらせた。
音もなく、水中に誰かの手が差し込まれ、その生き物を捕まえた。同時に黒くなった生き物はそのまま持ち上げられ、唐突に水も引いた。水の引く音が耳障りに響き、体が水の外に出たのがわかった。
何故それまで平気だったのかわからないが、急に、久々に呼吸をした実感が大ケ谷三月の体を襲った。噎せ返る空気の濃さに何度も酷い咳を繰り返し、喉が嘔吐き、痛む。肺に酸素が行きわたらず、頭痛までもがした。
耐えきれず地面に崩れた大ケ谷三月の視界に空が見えた。そこには並んでヒナキの姿が見える。その手にはあの生き物が掴み上げられていて、大ケ谷三月の視界の中で彼等に体格差はない。大きなオタマジャクシにも見える、けれど長い尾のような部分が、大ケ谷三月の視界外にまであるようで全容は知れなかった。
それを、軽々と持ち上げるヒナキはなにかを言っているようだった。口元が動く様子が見えても声が聞こえない。
怒っているのか、怯えているのか、びりびりと振動し、あの生き物の体に刺す墨のような黒がその体の中でうねり、ぐるぐると回っているようだった。
一つの動揺も見せないヒナキは続けて、まだなにかを囁いている。けれど視界が白みがかった大ケ谷三月の耳には、最早自分自身の鼓動すらも聞こえていなかった。
途切れていく意識の中で、様々な水の音が聞こえた。ざあざあと流れ、落ち、雫に代わる音。その中であの、低く抑揚のない声がなにかを言っている。もう、理解出来ない。大ケ谷三月の視界が黒に変わった。
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