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※    これ程非現実的なものを目の前にしても、既に十年近くマチと過ごしているカケルにとっては驚く程のものでもなくなっていた。こういうものは、在る。ただ自分や関わらない人々も知らない分野であっただけで、ずっと在った。だからこうして自分の人生にもマチの人生にも、今この目の前でもおかしなことはなにもない。  マチが水中から取り出したものは大きなサンショウウオやカエルの幼体にも見えたが、持ち上げられても垂れ下がった体は全て現れず池に浸かったままで、もしかしたらウツボや蛇に似ていたのかもしれない。  体には水に落とされたばかりの墨がくゆっていた。けれどマチが何事かを話し始めると、威嚇を始めたのか、その体からびりびりと電気が走るような音が鳴った。離れた場所に待機していたカケルには確認出来ないその生き物の目が、怒りを帯びてマチを見据えているのがわかった。  その生き物が水中から出るなり水は引き、同時に森からごうごうと、海鳴りのような低い音が響き始めた。変わらず快晴の美しい空の下、あまりに不釣り合いなその様子は少々心を不安定にさせた。  海鳴りのような低い音に混じって、低く抑揚のない声がカケルの耳にも届いた。音と声が池を中心に回って運ばれているようだった。聞こえたものが遠ざかり、去って、また違うものが届く。  マチの声は、人の言葉ではないものだった。いや、カケルには理解出来なかっただけで、それは古い、古語のようなものであったのかもしれない。ひとつの言葉もわからなかったが、それにあの生き物は怒っていたようだった。ああ、きっと説教をしているんだろうな、カケルが腑に落ちた頃、生き物の体から墨が引き、下方に向かって渦を巻いた。それはまるで池に吸い込まれていくかのようで、墨の色を失った生き物の体は視認出来なくなった。  幾らかしてマチが腕を下ろし、そこに生き物がいなくなったことがわかった。  池は何事もなかったかのように小さな水撥ねの音を鳴らして、いつの間にか海鳴りのような低い音はなくなっていた。盛り上がった水も全て引いていたが、濡れた地面は緑を濡らし、降り注ぐ陽の光を反射して不規則に輝いた。まるで瞬くように、一面が光でいっぱいになった。  「無事か」振り返ったマチが唐突に言って、カケルは「お疲れ様」と応えた。それを確認してからマチは池に何かを落とした。カケルの目では確認出来ないなにかは、池が反射する光に波紋を作っていた。  歩み寄るカケルを待つ前に、マチは倒れた大ケ谷三月(おおがやみつき)を抱き上げた。ぐったりとする彼女を、殆ど変わらない背丈のマチが抱え上げ、そのままカケルと共に森を歩んだ。  カケルは今しがたの詳細に興味はなかったが、彼女の身に起きたことだけは気がかりだった。このまま、彼女はその記憶も体験も背負ったまま過ごすのかと。 「薬を飲ませてたろ」  カケルが問うと、先を歩くマチは振り返らずに言った。 「あれは〝夢を見ない〟薬だ。夢を見ないだけで、実際には夢は“起きていた”し、事は起きていた。依頼人が見る必要のないものは見せない為だ」  つまり、大ケ谷三月(おおがやみつき)が夢を見ていない間にもそれは起きていた。認識していないだけで、同様のことが起きていた。マチはそれを「自分には関係がないもの」とするべく、大ケ谷三月(おおがやみつき)に夢を見させなかったのだ。 「夢を見ないのと同時に、夢のことも忘れる。見ないということは、なくていいものだ。依頼人には薬を飲ませ続ける。その内薬を飲むことも忘れた頃には、この件の全てを忘れる」  カケルは胸を撫でおろした。だが、同時に痛むものも感じた。彼女は忘れる、自分に起きたことも、自分が見たものも。けれど、結果、起きてしまったことがある。 「……死んでしまった人達は、じゃあ、どこにもなにも向けられないんだね」 「それも、依頼人が背負うものじゃない」  どこか腑に落ちきれないのは自分自身の感情であるとわかってはいても、理不尽であるに変わりはない。事実、亡くなった人がいて、けれど彼女は忘れる。忘れるべきであるとはカケルも思うのだが、理不尽さが残る。  じくじくと、歩みにあわせて胸が痛んだ。無自覚に責任の置き所を考えている自分にも嫌気がさしてしまう。彼女は救われた、マチは解決した、しかし、それだけなのだろうか。  責任の置き所までをマチに求めるのは違う。わかっていても、痛み続けた。  会話が止まってから十数分、マチは一度も大ケ谷三月(おおがやみつき)を下ろすことなく進み続け、遂に森を抜ける所まで来た。視線の先には暫く前に見た未舗装の道に開けているのが見えた。行きと変わらない道がそこにあるのがやけに心に優しかった。 「また来るぞ」 「え?」  森を抜けて、下り道を前にしたマチが足を止めた。大ケ谷三月(おおがやみつき)を抱え直し、その様はまるで意を決したようだった。 「依頼人が目を覚ましたらまたここに戻る。罰を与えなきゃならない」  仕事の一部として組み込んだ言葉なのか、マチ自身の感情か、それともカケルの心を察したのか、マチがそう言って一歩踏み出した足は小石を踏んで右足が滑った。  舌打ちをするマチの背後で、カケルは嬉しそうに微笑んでいた。
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