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18
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大ケ谷三月が目を覚ましたのはそれから一時間近く経った頃だった。山を下り、最も近場にあったバス停のベンチに彼女を寝かせ、マチとカケルは陽射しを除けながら目覚めを待っていた。
虫の鳴き声がやけにうるさいと感じた。体を起こすと同時に大ケ谷三月は自身の衣服が濡れているのを見て、自分の身に起きた事が現実であったことを認識した。夢などではない、全て、この身に起きたことだ。
途端、大ケ谷三月の目から大きな涙が落ちた。もう、その感情はなんなのか、どれなのか、全くわからなかった。
虫の鳴き声が異様にうるさい。大ケ谷三月のすすり泣く声など、全てかき消してしまっていた。
大ケ谷三月の心が整って、泣き止んだ頃にヒナキと王子を前にして、彼等もまた衣服が湿っていた。「すみません、ありがとうございます」と繰り返す大ケ谷三月にカケルは大丈夫だからと宥めるが、暫くはそのまま続いた。それもひとしきり済んだ所でマチが、あの薬を取り出し、彼女に手渡した。「なくなるまで必ず飲め」と。大ケ谷三月は最早何故なのかを問うこともなく、すすり泣きながら頷いた。
ずぶ濡れになった三人の衣服が乾く頃、一行は大きな道に出るまで歩いた。
大ケ谷三月の祖母の家まで続く大きな道に出ると別れ、清々しく、けれどまだ泣きはらしたままの目は赤く痛々しい。大ケ谷三月は大きく手を振って、「また連絡します」とマチに向かって叫んだ。それを受けてから彼女に背を向けたマチは、濡れないようカケルに預けていた煙草を受け取り、すぐさま先端に火をつけた。
体中に満たして溜まったものを吐き出すように、吸い込んで、すぐに大きく息を吐いた。
※
「三月さんはどれくらいで忘れるの?」
大ケ谷三月と別れた後、その足で山へと戻った二人はまた、池に訪れていた。
マチはカケルに持たせていた荷物の中から、これもまたよくわからないものを幾つも取り出し、先程から池の周りをぐるぐると、何事かを行っている。カケルはまたマチの作業の邪魔にならぬよう、離れた場所にある岩に腰かけていた。降り注ぐ陽の光は濡れた衣服を乾かす所か、今は肌を焼くようでじりじりと痛い。
「変化が出るのは四、五日頃だ。そこから徐々に忘れる」
「完璧に?」
「完全に」
「なんか、さみしいね」
「こんなことなんて覚えてる必要ねえんだよ」
「そうじゃなくて、だって僕達は三月さんを忘れないから」
マチが大きなはてなマークを頭上に浮かべて、怪訝そうな顔をカケルに向けたが、既にカケルはマチを見てはいなかった。池が飲み込み、溜め込む光が揺れる様を眺めていた。
何をしているのかはわからずとも、それがあの生き物への罰だということは知っている。きっと、あの生き物はもう、生涯この池から出られないのではないかと、カケルは思う。在るべき場所に在るのが良い、数日前にマチから聞いた言葉は、確かにその通りであると思った。
在るべき場所に。思うと、カケルはなんだかむず痒い。
マチに出会うまで在るべき場所などはなかった。いや、反対なのかもしれない。やっと、戻った気がしていたのかもしれない。昔からあった自分自身の違和感や覚えのない焦燥も、その他も、やっと意味がわかった気がした。マチに出会ったあの日に、腑に落ちた。
けれど同時にわからないことも増えた。あちこちで急激に自分の中に満ちる感情は経験がないはずだった。記憶にはない、だが、知っていた。この現象がなんなのか、未だにわからない。感情だけがデジャブする、そしてその感情は、あまりに大きかった。
「ねえマチ君」
「なんだよ」
せっせと、一人池の周りで作業を進めるマチは顔も上げない。
「ねえ、僕ここに来たことあるかなあ。似た所に行ったことがあるのかもしれないけど、ないよね」
答えずに顔を上げたマチは、池が溜め込む光を受けて、少し、人間離れした姿に見えた。
それはカケルが幼い頃から見ていた「かみさま」によく似ている、気がしていた。
輝く中にいる「かみさま」は、いつもカケルを救う、姿なく、声もなく。
マチは辟易した様子で「しらねえよ」とため息と共に吐き出した。やがて作業が終わる頃、池は小さく水撥ね音を鳴らし、光の波紋を揺らしていた。
20200609
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