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※  大ケ谷三月(おおがやみつき)が目を覚ましたのはそれから一時間近く経った頃だった。山を下り、最も近場にあったバス停のベンチに彼女を寝かせ、マチとカケルは陽射しを除けながら目覚めを待っていた。  虫の鳴き声がやけにうるさいと感じた。体を起こすと同時に大ケ谷三月(おおがやみつき)は自身の衣服が濡れているのを見て、自分の身に起きた事が現実であったことを認識した。夢などではない、全て、この身に起きたことだ。  途端、大ケ谷三月(おおがやみつき)の目から大きな涙が落ちた。もう、その感情はなんなのか、どれなのか、全くわからなかった。  虫の鳴き声が異様にうるさい。大ケ谷三月(おおがやみつき)のすすり泣く声など、全てかき消してしまっていた。  大ケ谷三月(おおがやみつき)の心が整って、泣き止んだ頃にヒナキと王子を前にして、彼等もまた衣服が湿っていた。「すみません、ありがとうございます」と繰り返す大ケ谷三月(おおがやみつき)にカケルは大丈夫だからと宥めるが、暫くはそのまま続いた。それもひとしきり済んだ所でマチが、あの薬を取り出し、彼女に手渡した。「なくなるまで必ず飲め」と。大ケ谷三月(おおがやみつき)は最早何故なのかを問うこともなく、すすり泣きながら頷いた。  ずぶ濡れになった三人の衣服が乾く頃、一行は大きな道に出るまで歩いた。  大ケ谷三月(おおがやみつき)の祖母の家まで続く大きな道に出ると別れ、清々しく、けれどまだ泣きはらしたままの目は赤く痛々しい。大ケ谷三月(おおがやみつき)は大きく手を振って、「また連絡します」とマチに向かって叫んだ。それを受けてから彼女に背を向けたマチは、濡れないようカケルに預けていた煙草を受け取り、すぐさま先端に火をつけた。  体中に満たして溜まったものを吐き出すように、吸い込んで、すぐに大きく息を吐いた。 ※ 「三月(みつき)さんはどれくらいで忘れるの?」  大ケ谷三月(おおがやみつき)と別れた後、その足で山へと戻った二人はまた、池に訪れていた。  マチはカケルに持たせていた荷物の中から、これもまたよくわからないものを幾つも取り出し、先程から池の周りをぐるぐると、何事かを行っている。カケルはまたマチの作業の邪魔にならぬよう、離れた場所にある岩に腰かけていた。降り注ぐ陽の光は濡れた衣服を乾かす所か、今は肌を焼くようでじりじりと痛い。 「変化が出るのは四、五日頃だ。そこから徐々に忘れる」 「完璧に?」 「完全に」 「なんか、さみしいね」 「こんなことなんて覚えてる必要ねえんだよ」 「そうじゃなくて、だって僕達は三月(みつき)さんを忘れないから」  マチが大きなはてなマークを頭上に浮かべて、怪訝そうな顔をカケルに向けたが、既にカケルはマチを見てはいなかった。池が飲み込み、溜め込む光が揺れる様を眺めていた。  何をしているのかはわからずとも、それがあの生き物への罰だということは知っている。きっと、あの生き物はもう、生涯この池から出られないのではないかと、カケルは思う。在るべき場所に在るのが良い、数日前にマチから聞いた言葉は、確かにその通りであると思った。  在るべき場所に。思うと、カケルはなんだかむず痒い。  マチに出会うまで在るべき場所などはなかった。いや、反対なのかもしれない。やっと、戻った気がしていたのかもしれない。昔からあった自分自身の違和感や覚えのない焦燥も、その他も、やっと意味がわかった気がした。マチに出会ったあの日に、腑に落ちた。  けれど同時にわからないことも増えた。あちこちで急激に自分の中に満ちる感情は経験がないはずだった。記憶にはない、だが、知っていた。この現象がなんなのか、未だにわからない。感情だけがデジャブする、そしてその感情は、あまりに大きかった。 「ねえマチ君」 「なんだよ」  せっせと、一人池の周りで作業を進めるマチは顔も上げない。 「ねえ、僕ここに来たことあるかなあ。似た所に行ったことがあるのかもしれないけど、ないよね」  答えずに顔を上げたマチは、池が溜め込む光を受けて、少し、人間離れした姿に見えた。  それはカケルが幼い頃から見ていた「かみさま」によく似ている、気がしていた。  輝く中にいる「かみさま」は、いつもカケルを救う、姿なく、声もなく。  マチは辟易した様子で「しらねえよ」とため息と共に吐き出した。やがて作業が終わる頃、池は小さく水撥ね音を鳴らし、光の波紋を揺らしていた。 20200609
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