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雨の国
「ああ、もう最悪!」
雨が降り頻る鬱蒼とした森の中に、私、辻本亜由美の怒声が響いた。
いつもの登下校に使っている自転車の車輪も、ぬかるんだ土の上で苦しそうに轍を作っている。
近いからという安直な理由で適当に高校を選んだのに、毎朝ギリギリまで寝て、最短距離の山の道を毎朝爆走していたらせっかく選んだ高校の意味もない。
私は軽く舌打ちをし、下っていく坂に自転車を預けた。視線を右手首に移し、腕時計を見る。
「やば! あと五分しかないじゃん!」
始業の時間まであと五分。もし一秒でも過ぎたら、チャイムが鳴り響いて、あの谷口とか言った鬼担任に私の遅刻を知らしめることになる。それだけは避けなくてはならない。
谷口は加減と言う言葉を知らない。あいつは例え相手がか弱い女子高生でも、もし問題を起こしたら喜んで罵声を飛ばすだろう。
実際、前の学校ではその指導方針が前時代的だと保護者から強く指摘され、それで仕方なくうちの高校に異動してきたらしい。
そんな問題教師に何回も怒鳴られるのは御免だ。
ましてや私はもう高校三年生。進路をそろそろ決めるこの重要な時期での遅刻は結構な痛手になる。
私は大きく息を吐いた。こうなったら全力で漕ぐしかない。それしか私が助かる道はない。目を見開き、私はサドルから腰を浮かした。下り坂と立ち漕ぎのコンボ。こうでもしないと私の自転車は最高速度を出してくれない。
自転車はさっきよりも苦しそうに轍を作っている。思い返せば、こいつにも三年間、色々と無理をさせてきてしまった。
どうせ直線距離が長いだけの緩い坂だ。三年間、こいつと一緒に登校した私の運転技術は疑う隙もないはず。
私はゆっくりとハンドルから片手を離し、自分の頬を拭った。雨に混じった汗は独特な臭いがする。そのあまりにも醜悪な臭いに私が顔を歪めていると。
「あ、やば!」
片手だけで支えていた影響で、自転車は大きく右に傾いた。さっき拭ったところから嫌な汗が滲み出る。
私は慌てて自転車にハンドルを戻したが、時すでに遅し。自転車はまるで森に吸い込まれるように、その舵を切って行った。
「ちょ! 本当にまずいから」
渾身の力でブレーキを握っても、自転車は何故か止まらない。それどころかどんどん加速し、森の奥を目指している気がする。
止まらない自転車は理性を失った猪のように森の中に突進して行く。私の体は、木から生える枝たちの殴打を耐えるのに精一杯だった。
しばらく走っていると、自転車はブレーキを思い出したのか、突然ピタッと自転車は止まった。
私の体を殴打する枝が無くなったの見るあたり、どうやら広い空間に出たらしい。私はゆっくりと目を開けた。
「どこよ、ここ」
眼前に広がる光景に、そう思わず呟いた。
中心にはもの凄く太い巨木。それを中心にした半径二十メートルの中には、木はもちろん、草の一本も生えていない。
その円の中には、巨木と緑にベタ塗りされたような苔しか生えていない。
そんな浮世離れした空間を見回し、私は再度呟いた。
「本当になんなのよ」
私はしばらくその場で唸った。さっきの枝の殴打でカッパはボロボロ。多分自転車もパンクしている。おまけに私の体はひどく泥で汚れている。
少しここで休んでから、学校に行ってもいいかな。
そう考えた私は早速、巨木に向かって足を進めた。柔らかそうな緑の苔は踏み心地が予想以上にいい。
真ん中の巨木は近づけ近くほど、遠目で見るより大きく見えた。木の真ん中には渦巻のような大きな穴が一つ空いていた。
私が近づくだけ近づくと、巨木の大きく広がった葉は、雨を凌ぐ傘の代わりとなった。
私がレインコートを脱ぐと、中の蒸れていた空気が外に出て行った。代わりに心地良い澄んだ空気が、私の体を撫でた。
私は乾いている巨木の出っ張りに腰とレインコートを掛けた。
澄んだ空気と葉から滴り落ちる雨の音。思い返してみれば、三年生になってからは進路とかで忙しくてこんなにゆっくりとした時間は、無かったかもしれない。
私は無意識のうちに瞼を閉じて、静かに流れゆく雨の音に耳を貸していた。
「なんじゃ、久しぶりの人間か?」
流れ行くそよ風や滴り落ちる雨とは明らかに違う擦れた男性の声。私は驚き、声にならない声を上げてしまった。
「ひ! 誰ですか!?」
「誰って、失礼な小娘じゃな」
目を見開き、体を翻しながら声のした方を見ると初老の目が垂れた、いかにも仙人らしい老人が、珍しい動物でも見るような目で私を見ていた。
「誰ですか、あなた」
体が所々黒ずんでいるのを見ると、老人はそこの巨木の穴から這い出てきたのは明らかだ。
「ワシか? ワシはこの国の王じゃ」
「は? オウ? それって王様のことですか?」
一体全体、この老人は何を言っているのだろう。ここが国で、自分は王様? 言っていることが完全にボケている老人のそれではないか。
私はあまり老人を刺激しないよう、なるべく慇懃に話しかけた。
「あの、初対面の人にこんな事言うのもあれなんですけど」
「なんじゃ、小娘」
「頭、大丈夫ですか?」
煽り抜きの、本気の心配で言ったつもりだが、それが老人の琴線を刺激してしまったらしい。老人は手足をバタつかせて声を荒げた。
「なんじゃと!? 雨の国の王であるワシに向かってそんな失礼な物言い! 衛兵! こやつを捕らえよ!」
あ、だめだ。衛兵とか雨の国とか、完全に自分の世界に入り込んじゃってる。
雨の国とか言う変な妄言は置いといて、衛兵は聞き捨てならない。またあの穴からボケ老人でも出てくるのだろうか。
しかしその心配はあっけなく杞憂に終わる。巨木の穴からは衛兵らしきもの疎か、虫の一匹も出て来なかった。どうやらこの国には死にかけの、自称王様しか居ないようだ。
それを察した私は黙りこくった。筋金入りのボケ老人を前にして、どう受け答えしていいのか分からなかったからだ。
さっきまで声を荒げていた老人も空気を察したのか、私に倣って沈黙を貫いている。
何とかこの雰囲気を打開しなくては。私は固唾を飲み込み、今度はさらに物腰低く、何も知らない感じで聞いてみる事にした。
「あの、先程ここは雨の国だと言っていましたけど、どういうことですか?」
私の問いを聞いた老人は、さっきの寡黙な雰囲気とは一転して、急に狂気じみている笑みをその顔に浮かべた。
「ここは雨の国。お前たちの住んでいるニホンとか言う国とは違う、ずっと雨が降り続ける国じゃよ」
ニホンの発音が全然違う事にはツッコまず、私は質問した。正直に言って、老人が何を言っているのか全然分かんない。
なんとか老人が言っていることを頭の中で整理し、私は口を開いた。
「まとめますと、ここは日本とは違う雨の国で、この国の雨は止むことが無いって事ですか?」
「そうじゃ、ここはいつ来ても雨が降ってある。だからほれ」
老人はそう言うと、苔しか生えていない広場の端っこを指さした。よく見るとそこだけは周りとは違う高い草で、小さく四角に囲っているのが分かる。囲っている草の間から、耕したような土が見えた。
「あれって、畑ですかね?」
「そうじゃ、あんな風に高く囲えばよく目立ってすぐ分かるからな」
「動物を避けるためじゃないんですか? あんなので役に立つかは分かりませんけど」
思わず飛び出してしまった言葉に、私は口を塞いだ。今度こそ老人を怒らしてしまったはずだ。私の背中に、嫌な悪寒が走る。
ところが、老人は怒るどころか笑顔すら浮かべた。さっきのあの怖くて厄介そうな老人とは違う。近所の優しいおじいちゃんみたいな柔らかい表情。
「いいんじゃ、あれで。動物たちが食べるんだったらそれでいい。しかも我が国は一年中雨季じゃ。少し食べられても、またすぐ育つ」
「そんなもんですか」
「そんなものじゃ」
せっかく育てて野菜を動物に食べられても怒らない。その器の大きさ。確かに一国の長を務めるだけはある。
「おじいさん。私からご提案があります」
私はこれ幸いと身を翻し、老人と向き合った。一瞬だけ腕時計を見ると、すでに始業時間を三十分も超えていた。もう余り長居はできない。
「なんじゃ、小娘。まだ何か用か? ここは見ての通りワシとこの木しか無いぞ」
老人は淡白にそう言い残し、私に背を向けた。シワがよって黒ずんでいる小さな背中は、今まで老人が歩んできた人生を物語っている気がする。
「ちょっと待ってください!」
私が静止を呼びかけると、案外老人はすんなりとその場に止まってくれた。口調と違って、案外素直な人なのかもしれない。
「なんじゃ、ワシはこう見えて国家の運営で忙しいんじゃ。手短に済ましておくれ」
それならお望み通り単刀直入に聞いてやろう。私は大きく息を吸い込んだ。
「私をこの国の国民にさせてください!」
私の提案を聞いた老人は困惑したようすでこちらに向き直った。
「なんじゃ小娘、お前この国の国民になりたいのか?」
顔は驚いていても、声は依然として落ち着いている。私はそんな王様をさらに揺さぶるように、
「はい、なりたいです!」
大きく手を挙げながら、満面の笑みで言ってやった。
「理由は何じゃ」
老人が王様らしい威厳のある声で聞いてきたのは、この国の国民になりたい理由。
てっきり快諾してくれると思っていた私は、思わず唸った。
正直、理由なんていう大層なものは無い。ていうか木と苔しかない国の国民になりたい理由なんて、いくら考えても思いつかない。強いて言えば好奇心だろうか。
「……」
私が黙って頭を抱えていると。
「まぁ、理由なんて必要ない。ここはずっと雨が降る国。そんな国の国民になってくれるのは、わしとしても大歓迎じゃ」
いろいろ察してくれたのか。老人もとい雨の国の王様は私に開いた手を伸ばしてきた。
「良いんですか。私、理由とか思いつかなかったですよ?」
「別に良い。さっきも言ったが、どんな人間であれ、ここの国民になってくれるの人間は大歓迎じゃ」
王様がいいって言うのなら、良いのか。私は何とか自分を納得させ、王様の手に腕を伸ばした。
「お主。名を何と言う」
「辻本。辻本亜由美です」
「ツジモトか。これからよろしく頼むぞ」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。王様」
そう言い私と王様は硬い握手を交わし、私は晴れて雨の国の第一国民となった。
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