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通された巨木の中はこれでもかと言うほどの湿気で溢れ返っていた。
暗く狭い空間を照らす小さな行灯。それは私の手のひらとちょうど同じサイズで、この空間を照らすには少し心もとない。
その心もとない行灯の下にはこれまた小さなちゃぶ台が一つ。その両端には薄汚く汚れた座布団が二枚敷いてある。
「ほれ、座りなさい」
王様は若干キレイな方の座布団に座り、片方の薄汚い座布団を私には進めてきた。
王様なりに気を使ってくれてるんだ。私は仕方なく、残った座布団に腰を降ろした。尻と座布団が接する一瞬にカビくさい臭いがして、いい気分はしない。
「で、王様が死ぬってどういうことなんですか?」
もし王様が死んでもどうにも思わない。そんな感じで、私は軽くジャブのつもりで聞いた。
「死ぬんじゃ、わし」
軽く聞いた私とは対照的に、王様は重く口を開いてその言葉を言った。それから側にあった小さな引き出しから、一枚の紙を取り出す。
滑るようにちゃぶ台の上に差し出された紙に満面の笑みを浮かべる女性の姿が、白黒で写っていた。
パーマをかけられた艶のある短い髪に、整った顔。絵に描いたような美女だ。
「美しいだろ。私の妻。つまりこの国の王女じゃな」
ここにきて衝撃の告白に、私は目を見開きながら首を傾げた。
本当に夫婦だったのかなぁ。ボケて道端に落ちていた写真を拾って、勝手に妻だと思い込んでいるとか、そんな所じゃないのか?
そんな失礼な事をぼんやり考えていると、王様は諭すように話し始めた。
「別にボケてなんかいないぞ。その写真の女。里江は正真正銘わしの妻じゃ。三年前まではな」
王様が言った一番最後の言葉が、私の耳にへばりついた。三年前までは。その言葉通りなら、王様の奥さんはもうこの世にいない事になる
私と王様は口を噤んだ。二人の間に気まずい空気が流れる。こんな雰囲気は初めて会った以来だ。
汗が滲み出てきた手を丸め、私は息を吐いた。なんとかこの空気を打開しないと、話が進まない。
「あの、失礼ですが、奥さんの死因は?」
「癌じゃよ。病院に行った時はもう手遅れだった」
「助からなかったんですか?」
「あの時はわしも里江も生きるの必死じゃった。入院費だけでも手一杯じゃたわしたちに、手術の金なんか到底無かったわ」
「そうですか……」
「それから程なくして里江は死んだ。苦しかっただろうに。最期は声も上げず、静かに逝ったよ」
王様はそう言うと、今にも涙が溢れそうな目を擦り、寂しそうに今は亡き妻を撫でた。
「里江は雨が好きじゃった」
写真を撫でる手は止めずに、王様は言った。
「これは償いなんじゃ。金が無いからという理由で妻を見殺しにしたわしの償い。その為に、この雨の国はある」
この国がボケ老人の妄想で成り立っていると思っていた私は、文字通り震えた。まさか王様にそんな重い過去があったとは、思いもしなかった。
「この国ができた理由は分かりました。そんな重たい過去があったんですね」
「単なるボケ老人の遊びだと思っていたじゃろ」
「思っていました」
鬱蒼とした森の中、巨木の中で生活する老人を見たら、誰だってそう思うだろう。
「まぁ、お前さんが来てから毎日が楽しかったよ。ありがとな、こんな老人の最後の遊びに付き合ってくれて」
まるで今からこの世を去るような寂しい物言いに、私は食ってかかろうとしたが、王様と目が合い、やっぱりやめてしまった。王様の目は何かを察したように、遠くを見据えていた。
「止めても無駄なようですね」
「ああ、無駄じゃ。もう決めた事じゃからな」
「最後に教えてください。この国はどうやって雨をずっと降らしていたんですか?」
私の質問を聞いた王様はちゃぶ台の下から何か取り出し、私の前に差し出した。私が視線だけ動かすと、それは手の中に収まるほどの小さなリモコンだった。
「別に魔法なんかじゃないさ。お前さんには言って無かったが、この国の雨はスプリンクラーから出ていてな。これはそのリモコンじゃ」
そんな事分かり切っていた。分かり切っていたけど、いざ王様の口からその真実を聞くと、どこか寂しい。
きっと頭のどこかで、『あれは正真正銘の魔法じゃ!』と豪語する王様を期待してたかもしれない。
気がつくと、私の目蓋には大粒の涙が溜まっていた。別に悲しくなんて無い。けれど王様が居なくなるのはちょっぴり寂しい。
「奥さんのところに行きたいんですね」
私は涙を堪え、なるべく平常心を装って言った。王様をこれから死に行くとは思えないほど落ち着いている。この世に未練はない様子だ。
「そうじゃ、後継者が見つかった今、わしの願いはそれだけじゃ」
特に動揺する様子も見せずに、王様は言った。私もそれに倣い、ゆっくりと口を開く。
「別に止めませんよ」
「結構。じゃが最後に、一つ、いや、二つ頼まれてくれないか?」
王様は申し訳なさそうに、自身の指を二つ立てた。私は黙って目線だけを動かし、続きを促した。
「一つはここの手入れ。畑とそこの仏壇、頼んだぞ」
「分かりました。暇な時に来てやりますね。それで、二つ目は?」
「遺影じゃ」
「はい?」
思わず聞き返してしまったが、王様の言った言葉の意味はすぐに分かった。きっと自分自身の遺影がまだ撮れていないのだろう。
「わしの遺影じゃ。まだ撮っていないからな。お前さん、撮っておくれ」
予想通り。王様が手渡してきたのは随分と年季がこもったインスタントカメラだった。撮影可能回数を覗き込むと、後一回しか残っていない。
「生憎、カメラはそれしか無くてな。一回で決めておくれよ」
それだけ言うと、王様はくるりと踵を返し外に向かってしまった。私は強くカメラを握りながら、何度も頭の中でシュミレーショした。
外に出ると、空はこれ以上無いくらい晴れ渡っていた。差し込む光と降る小雨は、今から死ぬ雨の国の王様を祝福している様に見える。
「こっちじゃ、真ん中で撮っておくれ」
王様は丸い広場の中央。丁度私がここに初めてきた時に、自転車を停めた場所に立っていた。
「分かりました。思いっきりの笑顔を頼みますよ」
私はあえてその事には触れずに、王様の前でカメラを構えた。撮影可能範囲を示す枠内には、向日葵のような、眩しい笑顔を浮かべる王様の姿が映った。
「短い間でしたけど、ありがとうございました」
「こちらこそ、楽しい時間をありがとな。ツジモト」
「そんなかしこまらないで、どうせなら最後まで王様らしくしてくださいよ!」
私の言葉を聞いた王様が若干口元を緩めた。そして大声で私を指差す。
「ツジモト! 王からの命令じゃ! このワシの勇姿をそのカメラで写せ!」
「はい!」
私も王様に負けないくらい、顔にたくさんの笑顔を浮かべ、カメラのシャッターを押した。
乾いたシャッター音が、雨と一緒に流れていった。
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