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160.衝撃 1(2)
逃げた女の顔はつばの広い帽子のせいでほとんど分からなかったが、ほんの少し垣間見えた顔と顎のラインは間違いなく智に誰かを連想させていた。
あの人はきっと…
智はただ哀しい表情を浮かべて黙り込んでいた。
『智君っ。』
考えに耽っていた智に、翔が小さく悲鳴のような声を上げる。
すぐさま彼の腫れあがった頬をどうにかしようと、店の人間に何やらかけあっていた。
相変わらず行動的な翔の姿に、智は呆然としたまなざしを向けるだけだった。
翔はお店の人に厨房の裏を借りると、智を座らせタオルで頬を冷やしていた。
可哀想な姿…
智の姿にどうしようおなく胸が締め付けられていた。
そんな中、不意を突いて鳴り出した智の携帯に翔が代わりに出ていた。
<あちゃ~、まじかいな。>
携帯の向こうから、村井のすっとんきょんな声が聞こえる。
「とにかく、智くんは戻るの難しいかも…。」
<そんな腫れてんのか…?>
「…痛々しいね。他人が見たら間違いなく引くだろうね。」
さすがの村井も、電話の向こうで息を呑んでいた。
ここに連れてくるんじゃなかったと愚痴りだした翔に、村井が渋々だが事情を話し始めた。
<嫌な予感がしたんや。オーナーのお母さんに会ったの初めてやし、いきなり「秋山智」はどこにいるのかって……。>
翔は呆れながらも早々に会話を終えて携帯を切った。
智の方が気になるからだった。
俯いたまま頬を冷やしていた智だったが、翔に気付くとタオルを外した。
『引いた…?』
突き出された頬は、まだ真っ赤に腫れあがっていた。
それが容赦なく叩かれた…いや、殴られた証拠だった。
翔は女を警察に突き出したかったが、智の恋人の母親ならそうもいかない。
『翔くん仕事は…?』
「えっ? ああ…大丈夫だから。」
『そんなわけないでしょ。 俺はもう大丈夫だから戻ってよ。』
翔には智が自分に気を使って言ってくれてるのだとは分かったが、こんな状態の彼を放って会社になんか戻れるわけがなかった。
自宅に送っていった方がいい。
「帰るでしょ? 車、取ってくる。 送って行くよ。」
『だめだよ。』
「え…。」
智はそれを了承しなかった。
「心配だから」と翔が何度も言ったが、きっぱりと突っぱねる。
「じゃあ、歩きで駅まで送るだけ」と言っても、はっきりと『戻りなさい』と言われるだけだった。
らちのあかないやりとりに仕方なく別れを告げた翔だったが、彼には本当に智をそのまま放っておく気なそサラサラなかった。
駐車場から車を出すとカフェの近くまで戻ってくる。
車を持ってきてしまえば、流石に無下には断らないだろうと考えた。
段々と智の性格も心得てきていて、必死に頼まれると断れないだろうと想像がついていた。
素直で信じやすい。
だが、頑固で口が堅く、だから、心の中はなかなか明かしてくれない。
目の前に見えたのは黒い大型のセダン。
邪魔だな…
翔はぼんやりとそう考えていた。
それが去るのを待たないと…
それともこのまま呼びに行くか…?
そう考えていたところで、店の中から出てくる智の姿が見えた。
智の傍らには男性が……
「!」
あの時の…
驚く翔の目の前を、何も気づかない智が、寄り添っている優に促されるまま黒い車の後部座席に乗り込んでいった。
二人の姿があっという間に車の中に消える。
なんだ…
拍子抜けする。
彼氏、迎えに来たんだ。
翔の脳裏に、知らせを聞いた彼が慌ててここに駆け付ける姿が思い浮かんだ。
それはそうだ。
俺だってそうする。
自分の出る幕などないのだと痛感させられる。
翔は大きくため息をつくと車を発進させた。
車は流れるように走っていき、あっという間に翔の視界から姿を消していた。
彼は仕事中だったはずだ。
それなのに、この場にいたという事は、飛んで駆け付けたという事だった。
だから、俺が心配する必要なんてないんだ。
翔もそれは解っていた。
解ってはいたが、納得がいかないものは仕方がない。
くそっ、
何で…
当たり前に回された腕…
何で俺じゃないんだ…
何で俺じゃ…
ステアリングをきって車線を離れると、車を路肩に止める。
翔は大きくため息をついて突っ伏していた。
智くん…
傷付いた貴方の側に、居るべきは俺じゃないんだ。
俺じゃあ…
あの痛々しい頬を冷やすことも許されないんだと……
分かっていた事にもかかわらず、翔は改めてその事を痛感させられていた。
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