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『羊羹よりも甘い愛のカタチ』 春日すもも
龍崎慎也は役員応接室で、顧問弁護士である朝比奈と打ち合わせしていた。
「こちらが月次報告書になります」
龍崎は、朝比奈から差し出されたバインダーを受け取り、中身を開いて報告書をざっと一読する。バインダーの中には過去一ヶ月の取引先からのクレーム対応などが詳細に書かれたレポートとその資料が綴じられていた。
「営業部のアフターフォローも万全のようですし、特に問題はないと思われます」
「こういうことはちゃんとするように、厳しく言ってあるからな」
「それが一番だと思います」
朝比奈は、龍崎が認めている数少ない敏腕弁護士のうちの一人で、最近、龍崎コーポレーションの顧問弁護士として契約をした。ブランドのオーダメードスーツに、派手すぎないが品のいい高級ブランドの時計、目ざとい龍崎がそれに気づかないわけがないことも計算した上で、整えられた外見を持ち、頭がキレる割に、ユーモアがあり真面目すぎない性格で、何より、龍崎に対しても物怖じせず、はっきりと意見を言うところが気に入っている。
あと龍崎の意図も、ちゃんと汲み取ってくれる数少ない相手なので、新規の取引会社の周辺調査や法律に関する質問なども気軽に応じてくれる。ビジネスパートナーとしてはとても仕事がしやすい。学生の頃から知っているが一緒に仕事をする間柄になるなんて世の中、わからないものだ。
「あとこれは、いつもの報告書です」
「ん、サンキュ」
追加で差し出された茶封筒を龍崎は黙って受け取る。これは別件で、龍崎が朝比奈に依頼しているものなので会社では開けずに持ち帰る。
「失礼します」
扉がノックされ、総務の浜村が入ってきた。いつもここで朝比奈と会っているときは機密情報を扱うときもあるので一時間後に来客用の茶を持ってくるように、と指示している。
きっちりしている浜村らしく、今日も時間通りだ。
「お、寅山の新作ですか?」
浜村がテーブルに置いた羊羹を見て、朝比奈が身を乗り出す。
「はい。6月の新作です。朝比奈さんも寅山の羊羹、お好きですか?」
「ええ、以前から存じ上げてましたが、最近、社長とお近づきになる機会がありまして」
朝比奈がちらりとこちらを見る。
「浜村。朝比奈も俺の高校の同級生だ」
「え、そうだったんですか」
そういえば、浜村には朝比奈と顧問弁護士契約を結ぶ経緯について詳しく伝えてはいなかったことを思い出す。
「そうなんです。社長とは中学の頃から知り合いで、黒川とは委員会が同じだったので面識があるんですが、寅山とは学生時代、話したことがなくて、よく話すようになったのは最近ですね。羊羹のことも教えてもらったりして」
「そうでしたか。こちら、数量限定で諦めていた新作だったんですが、寅山社長が弊社用に、と用意してくださって、ご相伴にあずかることができました」
「弊社用に、ですか。それはそれは」
再び朝比奈が満面の笑みで龍崎の目を見る。いちいち、うるさいやつだ。
「それでは失礼します」
浜村が部屋を出ていくと、目の前の朝比奈は笑顔のまま龍崎を見つめている。だいたい何が言いたいのかわかるだけに、すでに面倒くさい。
「ちょっと、社長。恋人特権の乱用じゃないですか?」
「あいつが勝手に持ってきたんだ。俺が依頼したわけじゃない」
「旦那を立てる堅実な女房って感じじゃない。ごちそうさま」
「さっさと羊羹食って帰れ」
はいはい、と肩をすくめた朝比奈は添えてあった黒文字で朱みのかかった漆黒色の羊羹を切り分ける。期待に満ちた表情でそれを口に運び、んー、と称賛の声をあげた。寅山の羊羹は、うまいに決まってるだろうが。何を今さら。
龍崎が、老舗羊羹屋の御曹司である寅山と恋人という関係になって半年が過ぎた。高校から腐れ縁が続いていたが、寅山のお家騒動に乗じて一気に二人の距離が縮まった。決して、寅山のことは昔から好きだった、という美談ではない。それは寅山も同じだ。
「それにしても寅山の気遣いは行き届いているよねぇ。季節の折には新作のお知らせが届くし、このあいだもお中元で事務所宛に水羊羹が届いていたなぁ」
「それがあいつの戦略だ。好々爺みたいにヘラヘラして、一度自分の羊羹を食べたら客になると思ってるフシがあるんだよ」
「ええっ、寅山はそんなにギラギラしてなくない?」
「おまえはあいつのおそろしいほど貪欲な商売魂に気づいてないだけだ」
寅山喜之助と言えば、いつも着物姿で、穏やかな笑みを絶やさない、優しそうな外見を持った羊羹屋の三代目社長で名が通っているが、実はゴリゴリな商人魂全開のやり手社長だ。龍崎は出会ったときから寅山喜之助という人間に興味を持っていた。
初めて寅山と出会ったのは小学校のときだった。当時習っていた空手の地方大会で初めて試合に負けた。その対戦相手が寅山だった。初めての敗北に悔しくてたまらなかった龍崎に比べ、勝者の寅山は喜ぶ顔ひとつも見せず、とにかく表情がなく、世の中のすべてのことに興味を持たないような不思議な子供だった。それ以来、なんとなく友達になって、中学の時には誕生日プレゼントに子供らしくないブランド財布を贈りつけてきたり、高校を選ぶときも自分の意思はなく龍崎が選んだからという理由で同じ高校に進学したり、それからお互いが大人になってからも、細く長く付き合いが続き、今では龍崎が起業した広告代理店『龍崎コーポレーション』で寅山羊羹の広告を受け持っているのだから、なんだかんだと付き合いが長い。
昔から寅山は、龍崎が考えも及ばないことを思いつき、そのため行動が予想できず、そうかと思うと、純真無垢な子供のように世間知らずだったりする。そんな寅山に、時には呆れ、時には驚かされる。それがいつしか一緒にいることが当然になっていて、最終的に恋人同士になったのだから、おかしなものだ。
「でもうまくやってるみたいで安心したよ」
「何を持って『うまくやってる』んだか」
付き合ってるといっても恋人と呼ぶには足らず、愛し合っているという甘さも圧倒的に足らない。龍崎に恋人という存在がいたことも当然あるのだが、しばらく間があったせいか、恋愛感情というものを忘れてしまった。まして腐れ縁に近い寅山に対して愛の言葉などを囁くなんてありえないし、必要にも迫られていない。
「まぁ、お前もなんだかんだと人の子だよ。ちゃんと恋人には甘いんだからな」
「は? どこが?」
寅山に対して多少、過保護気味なのは認める。ただ、それはどうにも世間知らずなお坊ちゃんである寅山の世話を焼いているだけで、恋人だから、という意識はまったくない。
朝比奈はスーツの内側のポケットから煙草を取り出す。商談や仕事の最中に喫煙することはないので、ここからは同級生同士の雑談といったところだろう。
「黒川経由でも聞いてるぞ、ちゃっかり寅山の羊羹を会社の贈答品として取引先にも配ってるし、寅山羊羹の工場の改装工事も担当してるらしいじゃないか」
「それは、たまたま馴染みのデザイン会社と内装業者を黒川に探させて、こっちで引き受けることにしたってだけだろ」
「よそに任せたくないって素直に言えよ」
「どうしてそうなるんだ、アホが」
龍崎も同じように煙草を取り出し、自前のジッポで火をつけ、ふー、と息を吐いた。白い煙が細く長く、朝比奈の手元にまで届く。
「そもそもあいつは俺くらいしか頼れる相手がいないんだ」
「なんだよ、惚気か」
「それ以上言うと、契約切るぞ」
「出たよ、職権乱用」
まるで鬼の首をとったかのような朝比奈の表情に、おとなげなく苛立ってしまう。
「そもそも恋人って言っても、俺たちにとっては今までの延長線上の関係みたいなもんだし、あいつは俺に恩を感じてる。だからこれからも自分から俺から離れることはない。それだけだ」
「ふぅん。寅山はおまえに弱みを握られてる、みたいなこと?」
高校の頃、誘拐され数人の男にレイプされた経験を持つ寅山は、性に対して貪欲になった裏の顔と寅山羊羹という老舗メーカーの御曹司であり社長という表の顔を、不特定多数の男とのセックスでバランスを取っていた時期があった。それを知ってから、寅山とは友人関係でありながら、体の関係も持っていた。セックスの相性が悪くなかったというのが一番の理由だが、マンションの一室に金で男を呼んで、性欲処理をするなんて趣味は、いつか破綻すると予想できたからだ。案の定、龍崎は寅山のお家騒動に巻き込まれ、どんどん壊れていく寅山をそばで支えた。そんな龍崎に寅山が恩を感じないはずはない。
「平たくいえばそういうことだ。だから甘いとかそういうのは無縁だ」
「それだけじゃないと思うけどなぁ」
朝比奈は目の前に置かれたコーヒーをぐいっと飲み干した。
自分たちは、朝比奈の思っている『恋人』の付き合いとは少し違う。
今でも時々思うことがある。寅山が自分のそばにいるのは義理とか恩義だとするなら、寅山が龍崎に抱いているのは恋愛感情じゃないかもしれない。それなら自分たちは、友達のままでもよかったんじゃないだろうか。
ふと左の薬指につけた指輪を見る。
――あいつは俺のものだ。俺のものになったはず、なのに。
◆◆◆
午後九時過ぎ、龍崎は寅山羊羹社屋の前に愛車のレクサスを停車し、社内でカーラジオを聞いていた。昼のニュース、夕方のニュース、そして夜のニュースの内容に特に代わり映えがない。おおむね今日の日本は平和な一日だったのだろう。
「ごめん、待った?」
「いや」
助手席のドアを開けたのは、どうやらここまで走ってきて息の荒い寅山だった。いつもどおりの和装に手提げの紙袋を持っていた。紙袋は龍崎の会社でデザインしたものだが、茶色と紫のモチーフが、寅山の深緑の着物によく合っている。
「慌てて来ることないだろーが」
「だって慎也、着いたって連絡してこないから、時間よりも早く着いて待ってるだろうなと思ってさ」
座ってシートベルトを装着した早々に、何やらガサガサと紙袋の中を漁っているが、構わず車を走らせる。寅山の服からか、スン、と甘い小豆の匂いが漂う。
「夏の新作か?」
「え、すごい。よくわかったね。今年はゼリーも作ってみたんだ」
信号待ちのタイミングで助手席を見ると、寅山が当然のように持っていたものを見せてきた。透明容器には涼しげな水色のゼリーに小豆が沈められている。いかにも夏らしい商品だ。
「以前、黒川がパッケージデザインしてたやつだよな」
「うん、あのときはまだ試作品で、ようやく中身が間に合ったんだ。慎也に感想聞かせてもらおうと思って、試作品を持ち帰ってきた」
御曹司でありながら、羊羹職人としての修行も積んだ経験もあり、新商品開発には深く関わっているので、こうした発売前の商品の話を聞くこともある。
「わかったからしまっとけ。俺のレクサスが小豆臭くなるだろが」
「車の中では開けないからいいじゃない」
「おまえの着物から匂ってんだよ」
「あー、そっか。今日、着替えないで、開発部に長居しちゃったからなぁ」
別に、匂いが迷惑というわけじゃない。こういうちょっとした変化に気づいてしまう自分の方が普通じゃないのだと思う。こんな自分の性分についていけないという女性も過去にいた。しかし寅山はこうした指摘にも馴れているのか、嫌な顔ひとつしない。付き合いが長いっていうのは気兼ねしなくていい分、楽でいい。
「そういえば、今日、増田部長がね」
その名前に、運転しながらまっすぐ前を向いたままの龍崎は眉をひそめた。
――またそいつの話かよ。
増田というのは寅山羊羹の商品開発部の部長で、寅山にとっては入社してからの初めての上司であり、社長になった今でも絶大の信頼を置いている存在だ。年齢は、おそらく自分たちの親くらいの年齢だと思う。
なぜそんなことを龍崎が知っているのかというと、とにかく寅山が饒舌になる話題は、羊羹の話と、この増田に関する話なのだ。
「でさ、そういうのって普通、測らないとわからないじゃない? でも増田部長は目でわかるっていうんだよ。すごいよね。師匠も糖度計なんて使わないっていうんだけど、それでもちゃんと同じ甘さにできるんだ」
「ふーん」
「あとから工場用にレシピに起こすのに、数値化するのが大変なんだよねぇ」
ちっとも大変そうに聞こえないし、こうして嬉々として語る寅山の表情を見ていると、本当にこいつは羊羹バカなんだと思う。そしてひたすら羊羹トークを聞いているうちに、車は龍崎のマンションに着いた。
「今夜は泊まってくんだろ」
「うん。明日は休みにしたから大丈夫」
へへへ、と嬉しそうに笑う寅山を見て、すぐに目を逸らす。毎週末、家に来てるくせに、毎回嬉しそうな顔するな。
龍崎はそのまま駐車場に向かって、車を進めた。
「飯はどうした?」
「あー、食べそこねちゃったからおなかすいてる」
「何か作るか?」
「こないだ、慎也が作ったカレーうどんの汁、冷凍してたよね。あれがいい」
「ん、確かうどんの玉もあったはず」
「やった」
料理は普通にひととおり出来る程度だが、寅山は自分の手料理が好きらしく、自炊をしたと聞くと、冷凍して残しておいてくれと言う。普段は家政婦の食事だし、それなりにいいもの食べているはずなのに、一体、こんな男の雑な料理のどこかいいのだか。
「なんだよ」
エレベーターの中で、寅山が龍崎の腹回りをじっと見つめている。
「少し痩せた?」
「あー、決算でバタバタしてて、食いっぱぐれたりしたからな」
「そっか。大丈夫だったの?」
「おまえ、誰に向かって言ってんの。おかげさまで前年度200%超だ」
「そっちじゃないよ。慎也の体調のほうだよ」
どうやら体を気遣ってくれていたらしい。まぁ確かに書類を確認するのに徹夜続きで、若いときのようには無理できないな、と実感したところだったが、昨日もそれなりに睡眠をとっていて、今日の体調は良好だ。
「俺より、おまえの下半身が我慢できないだろ。万年発情期が」
「ちょっとぉ! どうせ、僕はあさましいですよーだ」
寅山はぷぅ、と頬を膨らませる。
『都合のいいセックスの相手』として都合よく呼ばれたとしても、それでいいと思ってた。たとえ守秘義務があるとはいえ、金を出してヤッてくれるプロを呼ぶよりも、自分なら身内のようなものだからその点は安心だろう。
本当は乱暴な愛撫をされたい寅山にとって、龍崎のセックスが実は物足らなくて、そのあと、別の男を呼んでいたとわかったときは複雑な気持ちにはなったが、今ではどうやら男を呼ぶことはしてないらしい。
「不思議なものでさ、今、あんまりセックスには興味ないんだよね」
「おまえが?」
かつて自称『肉便器』だった男がずいぶんと丸くなってしまったものだ。
「あんなにしたかったのにねぇ。年かなぁ」
セックスに興味がなくなったというのは初耳だった。先週も寝室に入って当たり前のように、どちらからともなくキスをして、セックスをした。
「だから、慎也の体調が本調子じゃないときは無理に相手してくれなくていいんだよ」
無理じゃない。でも返事はしなかった。
いつからか、自分以外の男を寅山が身体をつなげることをよく思わなくなった。心のどこかで、寅山は自分のものにしたかったのだと思う。
そばにいる理由のひとつにセックスがあった。もしそれがなくなったら、自分と寅山の間に残るのは、本当に『義理』だけになってしまう。
『それだけじゃないと思うけどな』という朝比奈の言葉がよぎる。世話をやいて、甘やかして、自分がいなければ何もできない人間にする。それは恋人に対しての甘さではなく、逃げられないようにするための足枷のようなものかもしれない。体の相手もそんな足枷のひとつだ。
「なぁ、おまえの好きなタイプってどんな?」
「突然、どうしたの」
部屋に入るなり尋ねたせいか、寅山は目を丸くした。
「いいから答えろ」
「うーん、年上?」
適当に答えながら、寅山は持っていた紙袋をキッチンに置き、中身を大事そうに皿にうつしている。
「増田部長、とか」
「えっ、部長?」
「おまえから部長の話を毎回聞かされてるけど、内容はほぼ恋人のノロケに近いって気づいてるか」
「いやいや、だって部長は僕達の父親の年齢に近いよ? それはないでしょ」
「想像したことないのか、増田部長のセックス」
「やめてよ。今度、どんな顔して会えばいいか、わかんないよ」
「なんで顔赤くなってんだよ」
「いたっ!」
ほんのり頬を赤く染めた寅山の額に、デコピンをくれてやる。なんかムカついた。だいたいこいつは自分よりも年上、特に父親くらいの相手に対してのガードが緩すぎる気がする、ヘラヘラしやがって。
「まぁ……以前、夜のオーダーしてたときは、できればおじさんくらいの年齢で、とはお願いしたけど、常識あるおじさんはそんな仕事しないよね」
「がっかりした顔をするな。つーか、タイプっていうのは年齢みたいな確定情報じゃなくて、性格とかそういうのだろ、普通」
「じゃあ、優しくて、甘やかしてくれる人」
「まぁ、世間知らずの甘ちゃんだからな」
「ええ、そうですよー。だから慎也はもう少し僕に優しくしてね!」
「してるだろうが」
「まぁ確かに、僕には甘いか」
朝比奈と同じようなことを言う。甘いと、世話をしてやるとは違う。自分が寅山にしていることはいわゆる囲い込みであって甘さとは無縁だと思うのだが。
「要するに、おまえは年上で優しくて甘やかしてくれる相手が現れたら、そっちにいっちゃうってことか」
その言葉に、お茶を入れようと湯呑を出していた寅山の手が止まった。
「慎也。頭でも打ったの?」
「どういう意味だ」
「何、これ、ドッキリ? カメラとか仕掛けられてんの?」
周囲をキョロキョロする。アホか。なんで自宅にカメラを仕掛けるんだ。
「おまえ、俺をなんだと思ってんだよ」
「だって、いつもの慎也なら『俺みたいな完璧な男は他にいない』っていうじゃない」
確かにそれは常々思っている。
「僕の理想のタイプが現れたら、慎也を捨ててそっちにいっちゃうかもしれないって思ってるの?」
「言っておくが、俺は去る者は追わない主義だから、そういうときがきても、おまえは好きにすればいいぞ」
「誰かに、何か言われたの?」
「別に」
朝比奈に何か言われたわけじゃない。以前から思っていて、今日、朝比奈と話して、なんとなく確信しただけだ。
「へー! 慎也でも弱音を吐くときがあるんだねぇ」
「おまえ、俺の話を聞いてたか?」
「僕が慎也のことを好きじゃないと思ってる?」
「いや……」
自分が言葉を濁すなんてらしくないと思う。でも言葉が出なかった。まるで寅山に、微笑まれながら、心の奥の、誰からも触れられない一番やわらかいところをいきなり鷲掴みにされた、そんな気分だ。
「慎也は見た目もいいし、頭の回転も早いし、まぁ、そのかわり、人の話は聞かないし、プライドが高くて傲慢な性格は時々うっとおしいけど」
「俺をディスってんのか?」
「まぁそれはもう治らないから、仕方ないよ」
「病気みたいに言うな」
「でも僕の自慢の恋人なのは間違いないよ」
「言っておくが、おまえと別れても、おまえの家のことはちゃんと守ってやるから心配するな。だから――」
「だから?」
ちゃんと守ってやる、という自分の言葉に自分の中で矛盾が生じた。そもそも世話を焼く、面倒を見る、ということで恋人という関係を繋ぎ止めているはずなのに、まるで、それは気持ちとは別の問題のように言っている。
「ねぇ、慎也」
茶を用意する手を止めて、寅山は龍崎の目の前に歩いてきた。
「なんだ」
「僕はちゃんとわかってるよ。慎也は僕のことが好きだから、甘やかすし、世話をやくし、ほっておけないんだ。僕も君には世話になってる。でも、僕が慎也を好きなのは、それが理由じゃない」
「じゃあ、なんだ」
「僕は君の性格を知った上で、その男らしいところに惹かれてる。君以上の男なんて世の中にいないと思ってる。ついでに言うと、顔も好き。そのやや釣り上がった目も、骨ばった高い鼻も、キスするときに実感する厚めの唇も、全部好き。あとたくましい二の腕も、胸板も、どれも愛しいよ」
寅山の両手が顔を背けようとした龍崎の頬を包む。その熱を帯びたまっすぐな視線から逃げることができない。
「足らない? もっと聞く? まだあるよ、僕が好きな慎也のいいところ」
「もういい」
「慎也だって僕がかわいいくせに。こんなに手のかかる恋人がいて、幸せでしょう。だって君の愛情表現はおせっかいだからね」
「やめろ」
「僕は愛されてるよ。多少、過保護すぎる彼氏だけど」
「うるさい……」
おかしい、こんな話になるはずじゃなかったのに。
「ねぇ、慎也さぁ、朝比奈くんに、昔、僕に嫌がらせをしてた元役員の身辺調査も頼んでるよね?」
「おまえ、なんでそれを!」
もう四十近い男が、まるで小悪魔のような笑顔を見せる。
あの口軽弁護士、絶対許さない。クライアントの秘密を守れないような弁護士は契約破棄だ。
「違うよ。朝比奈くんは秘密を守ってるよ。こっちが気づいちゃったってだけ。ありがとう、慎也はいつだって僕を守ってくれるね」
顔に熱が集まってきて熱い。それなのに目の前の優男は逃してくれない。目を泳がせていると、ふいに顔が近づいてキスをされ、ようやく体が解放された。
「それにしても慎也、本当に疲れてたんだね。そんなことで不安になるなんて」
「おい」
「疲れたときには甘いものだよ。羊羹ゼリー、ちょうどよかったね。すぐお茶淹れるから」
「喜之助」
それは初めてのことだった。今まで、寅山を一度も下の名前で呼んだことはない。
案の定、驚いた寅山は慌てて振り返った。
「なに……?」
「おまえ、随分言いたい放題言ってくれたな。人のことわかった気になりやがって」
「そりゃあ、どれだけ付き合い長いと思ってんの?」
「それでも俺はおまえのことがわからない。おまえは本当に俺の想像を超えてる」
「それ、褒めてないよね?」
バカ、絶賛してるって気づけよ。
「今は、羊羹は片付けておけ」
「え、なんで?」
「今から、する」
それだけ告げて、龍崎は寝室に向かう。
「するって何?」
その後ろを、寅山がついてくる。
「セックスに決まってるだろうが」
「は? なんでその流れになるの?」
「いいから、黙れ」
「あのさ、もうちょっと情緒とかあるよねぇ?」
そんな余裕、あるか。今すぐ抱きたいんだよ。
「ねぇ、ちょっと聞いて……わっ」
寝室に入るなり、その体を抱きしめる。甘い羊羹の香りに混ざって、着物に馴染んだ、白檀の香りに、ああ、寅山を腕の中に抱いていると実感する。
自分で会社を企業して、社長という立場になって、大変なことはあるが会社経営というゲームを楽しんでいる感覚だ。すべての事柄は、事前知識と経験があれば最適な答えを導き出せる。けれど、この男、寅山喜之助だけは思い通りにならない。
だから、手に入れたくなったのだ。どんな手を使っても自分のものにしたかった。
こうして恋人になっても、まだ龍崎の心をかき乱してくる。
――おまえ以上に惹かれる人間なんていない。
顔を近づけると引かれるように二人の唇が重なった。キスをするタイミングまでぴったりだ。
寅山の首すじには着物には似合わないネックレスチェーンが見える。かつて送った愛の証の指輪をこうしていつも、肌身放さずつけてくれている。喜んで自分のものになってくれたこの恋人を、今夜は特別に甘やかそう。
いや、そうじゃない。きっと甘やかしたいのは自分なのだ。それが恋愛に不器用な自分の精一杯の愛情表現なのだから。
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