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ハベナリア・ラジアータ 幸原果名
「真実……」
薄暗い寝室の中は濃密な甘い空気に溢れていた。
あの鉄壁のクールビューティーと呼ばれている片岡真実(かたおかまさみ)が跪いて自分の股間に顔を埋めている。それを上から見下ろして大森詔太(おおもりしょうた)は激しく昂っていた。
根元を長く細い指で扱きながら喉の奥までペニスを呑み込み、上目遣いでこちらを見ている。少し赤く染まった目元が淫靡で詔太は手をやった。
「真実、綺麗だよ」
「……ん」
ふるふると首を振るとその振動で自分のものが更に大きくなるのがわかる。真実は懸命にそれを丁寧に愛撫し続けた。
そう。こんなことができる人だとは思わなかった。あの日までは。
大手広告代理店の営業企画で働く詔太は多忙な日々を送っていた。仕事は乗りに乗っていたし、恋人がいなくても不自由を感じることはなかった。若くても仕事で成果を出せば昇進できるこの世界を気に入っていたし、天職だと思っていた。
そんなある日、部下の桂木からの企画書を受け取っていた時、昼食に行く女性達の華やかな笑い声にふと気を引かれた。
「あれ、またあのカフェに行く気ですね」
「あのカフェ?」
「すっごく綺麗なウェイターがいるんですって! ウチの社長秘書の菜穂子ちゃんいるじゃないですか。告ったみたいなんですけどフラれたみたいでちょっと噂になってるんですよね」
社長秘書の菜穂子ちゃんとは誰もが認めるかわい子ちゃんだ。それはゲイである詔太でも感心するほどのものなのに。そんな彼女をフッたという事実にほんの少し興味が湧いて昼食の後、桂木とカフェに行った。
表参道でも有名なそのオープンカフェは外人も多い。よく雑誌の撮影にも使われているようで多少敷居の高い感じだが、雰囲気はよい。そんなことを考えながら手元のメニューを眺めていた時だ。
「お決まりになりましたか?」
その透明感のある声に顔を上げるとそこには美しい青年がいた。白いシャツにギャルソンエプロンがよく似合っている。漆黒の髪と瞳が白い肌を際立たせている。小顔で身体は細く硬い感じだが抱いてみたらきっとしなやかに反るのだろう。
「……ブレンド二つで」
「かしこまりました」
一瞬、見惚れて返事が遅れたが、彼は精巧なドールのような表情で頭を下げるとカウンターの向こうに消えた。
「ほらほら! 部長も見惚れたっしょ!」
「……いや、まぁ、綺麗だな」
「年は二十八って聞いたっす!」
「え、俺よりひとつ、年上か」
「それでね、彼、片岡真実さんって言うんすよ」
それからの話はよく覚えていない。ドストライクな青年の登場に詔太の転機が訪れた。
毎日昼食の後にカフェに寄る。三十分だけの楽しみ。小難しい戦略書を片手に彼の顔を盗み見る。ますますタイプだ。だがあのクールビューティーはちらりとも笑顔を見せはしない。けれど無愛想に見えないのは気性がきっとよいのだろう。彼目当てに通ってきている客も多いようだ。
通い始めて一か月の頃だった。
「いつものでよろしいですね」
「……ああ」
本をわざと落とした。彼はエプロンの裾をすっと捌いて床に片膝を突いた。顔が近づいた瞬間。
「これ、俺の名刺だけど。いる?」
彼の表情が見たかった。一瞬でも顔色が変わればいいと思った。だがしかし彼は本をテーブルに置くとその名刺をそっと受け取り、テーブルに戻した。とても残念に思っていると彼は胸のポケットからボールペンを取り出し素早くその名刺の裏に数字を書いていった。
「これが僕の番号です」
「え……」
これは。確定したと思っていいのだろうか。立ち上がって何事もなく去ろうとしたその後ろ姿に少し慌てて声を掛ける。
「今日は何時に上がれる?」
「……八時には」
「迎えに来る」
「……はい」
その日、詔太は片岡真実の細い腕を強引に引き、近くのホテルに駆け込んだのだった。
抱き合うと真実はとても情熱的で詔太の要求をなんでも大胆に受け入れた。昼間の顔とのギャップが詔太を熱く燃えさせ、あっという間に真実に夢中になった。セックスが終わった後、二人でまどろんでいると場に似合わないブザー音が響いた。
「真実、さんのじゃないかな」
「……放っといていいから」
「こんな時間に鳴るなんて、何かあったんじゃ」
「じゃ見て……」
暗に真実は自分はフリーだと伝えたかったのかもしれない。詔太もそれを確かめたかったのかもしれない。散らばった服の合間に落ちて光っている画面を見つめる。
「……店長、って書いてある」
「それで?」
「明日、店には行けないから代理を頼む、と」
「……了解しました」
真実の甘い声が暗闇に響く。ほっとした詔太はテーブルにそれを置こうとし、画面が切り替わったのをまた見た。そこには白い小さな鳥が羽ばたいているような珍しい花があった。
「変わってるね」
「何?」
「これ、花、だよね」
シーツの擦れる音がして、真実がこちらに寝返りを打った。
「ハベナリア・ラジアータっていうの。蘭の一種だよ。僕、その花、好きなんです」
「ハベナリア・ラジアータ」
「花言葉はね……」
「……え?」
「……いいから、ねぇ、もう一度……」
その花のような白い手が浮き上がって詔太を招く。それを強く握り締めながら二人はまたベッドに沈んだ。
「……何を考えてるの?」
その真実が今ここにいる。笑ってしまうほどに彼にのめり込んでいる。詔太は柔らかな髪に指を入れるとそっと乱した。
「いや。俺はおまえに一目惚れだったんだが。おまえはいつから?」
口を放して真実は少し考えた。
「最初に会った時から」
「考えることか?」
「それに、名刺いる? って。……傲慢な人だなって」
「嫌いか?」
「好き……」
真実の本当の姿を見るたびにかわいく思う。出会って半年。もう同棲しているくらいに真実に溺れている自分に苦笑する。
「ん……」
真実がまた口の中に詔太を呑み込み、頭を上下させる。髪をきつく掴んで無言で飲むように指示する。真実は嫌がらない。ますます熱心に詔太を愛撫した。
「出すぞ」
「ん、ん……」
喉が何度も動く。唇の端から飲みこめないものが少し溢れたが真実は指でそれを絡め取ると口の中に押し込む。その仕種がとても淫らで詔太は真実を起こすとベッドに押し倒した。
「詔太」
「入れるぞ」
「うん……」
首に長い腕が巻き付く。いきなりの挿入でも真実は柔らかく詔太を受け入れる。時々胸が痛みながらもそれを隠し、身体を押し上げる。真実の額に細かな汗の粒が浮かんで眉根が寄せられるのが見えたが構わず唇を奪う。舌を絡めながらペニスを緩く扱いてやると真実は泣くように啜り上げた。
「……しょ……た、もう、……ダメ」
「ああ、俺もだ」
激しい動きを止めて中に熱いものを撒き散らせば、真実は背をしならせてそれを受け入れる。快楽に歪むその顔は何度見ても飽きない。荒い息を吐きながら二人抱き合って眠れば、それだけで世界の色が変わる。少なくとも詔太はそう思っていた。
「おはよう」
「……もう朝か」
「遅れるよ。早く起きて」
詔太の頬にキスをする。それだけでは足りなくて真実の頭を強引に引き寄せて口付ける。真実の震える指が頬に掛かる。いちいちかわいい反応をする真実はクールビューティーとは程遠く、あれは作っている姿なのだろうと思う。そのままでいい。詔太の前以外ではずっとそうしていればいいと思う。真実は顔を放すと詔太の手を取った。
「ご飯作ったから。食べていって」
「おまえの飯はうまいんだよな」
朝から一汁三菜を絵に描いたような食事を作ってくれる。夜も何の予定も入れず、早く部屋に帰ってきてまた食事を作って風呂を沸かし、家事をしながら詔太の帰りを待っている。そんな真実が愛しくてもう一度キスをする。
「詔太」
「おまえ、ホントに俺に甘々だな。ずっと」
──ずっと、そうしてきたのか。前の男にも。
そう言いそうになり詔太は黙り込む。わかっている。今、真実は詔太に一途に尽くしている。それだけを信じていればいいのに、たまにどす黒く湧き上がる感情が抑えられない。それほどに真実を愛してしまっているということなのだが、詔太は少し気になっていることがあった。
「真実、おまえ、よく眠れたか?」
「……なんで?」
「……いや、いい」
椅子に座ると真実が茶碗を差し出してきた。今日の天気とニュースを観るためにテレビを点け、詔太のスーツにアイロンを掛け、慌ただしく動いている真実を見て、その疑問を胸の奥に押し留める。
「真実。今日は遅くなるから先に寝ていていいぞ」
靴を履きながら詔太は差し出される鞄を持った。
「……待っていちゃダメ?」
「接待だから、本当に遅くなるぞ」
「いいよ。待ってる。……詔太」
真実が少し背伸びしてキスをねだってくる。それに真剣に応えていると離れられなくなりそうで、詔太は軽くキスをするとドアを開けた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
真実がかわいらしく手を振っている姿が閉まっていく玄関のドアから少し見えた。
「あーもー。一時ですよ。疲れたなぁ」
桂木はネクタイを緩めながら、ふう、と大きなため息をついた。早く帰ってやらないと真実は眠らないで待っているだろう。詔太は時計に目をやる。
「先輩、ちょっと待って、俺、喉渇いたぁ!」
「ああ? 俺は早く帰りたいんだよ」
「……? 先輩、もしかしてと思ったけど」
「なんだ」
「彼女ができたんじゃないですか?」
ニヤニヤと笑う桂木の頭を軽く小突く。
「だったらなんだよ」
「えー! 本当だったんだ。うちの部署の女子達が話してたんですよねぇ。大森部長、最近優しくなった、あれは絶対に彼女ができた! って」
彼女ではないが……。この場合、なんと言ったらいいかわからず、詔太は言葉を呑み込んだ。自分はまだいい。もしゲイだとバレてもそれを跳ね除けてこの社会を渡っていける度胸は持ち合わせている。だがあの繊細な真実はそれに耐えられないような気がした。余計なことを言って真実の立場を危うくしたくない。そんなことを考えていると桂木が近くの自販機でペットボトルを二つ買ってきて詔太に声を掛けた。
「ちょっと、そこの公園、付き合いませんか?」
初夏の夜風が頬に心地よい。ベンチに二人で座って水を飲んでいると桂木がいきなり切り込んできた。
「先輩、まさか、相手はあの片岡さんじゃないですよね?」
「…………!」
何をバカな、と切り返せばいいものを一瞬、押し黙ってしまう。
「ほら、この業界、珍しくないですし! ちょっとした、噂もあって」
「噂?」
「先輩と片岡さんがカフェで親しく話してたって。いや、それだけなら全然おかしくない話なんですけど、片岡さんの顔が……」
「顔が?」
「すごく優しくて。先輩のオーダーを取った時だけ、とても嬉しそうにしていたって」
毎日カフェに通っているのを部署の女性達に見られていたとは自分も相当バカだな、と思う。真実に夢中になるあまり、他のことが見えなくなっている。互いに好き合っていればその雰囲気が外に伝わってしまうことくらいわかっている。
「あ、でも、ほとんどは彼女。片岡さんとって勘ぐるのはホントに一部で。……すみません」
部下にまで気を遣わせている。困った自分に苦笑して打ち明ける。
「そうだよ。相手はあの片岡真実だ」
桂木は頭を掻いて水を何度も飲んだ。
「一緒に住んでるんですよね? 先輩引っ越ししたって言ってたし」
「ああ、そうだ」
「先輩のスーツ、いつも綺麗だし、食事もきちんと摂ってるようで最近すごく肌艶いいし」
「おまえ、何を見てるんだ」
「先輩のこと、尊敬してるっすよ。だからそれくらいわかります」
「尊敬できないところがあってすまないな」
「いや、あのクールビューティーを射止めたんですから。尊敬してるっすよ」
桂木はどこか嬉しそうに笑うと空になったペットボトルでぽんぽんと膝を叩いた。
「でも、先輩、気になることがあるんじゃないですか?」
「なんでそんなことわかる」
「時々、仕事の合間とかに何か物思いに耽ってるっす。あれは恋する乙女の悩みって感じで」
「気持ち悪いな」
「いや、何もないんだったらいいんですけど。先輩、気になることがあったら本人に直接ちゃんと聞くほうがいいっすよ。拗れる前に」
桂木にゲイであることがバレたということより、悩みを見抜かれたことがショックだった。そうだ。本人に直接聞くのが一番だ。いろいろ考え込んでいても仕方がないし、建設的ではない。
部屋に着いたのは三時頃だった。こんなに遅くなるのは初めてだった。さすがに真実は寝ているだろうと思ったが玄関を開けるとすぐに足音がパタパタと近づいてきた。
「詔太、おかえりなさい!」
「真実、なんで寝てないんだ。もう三時だぞ?」
「……待っていたくて。ダメだった?」
「そんなことはないが……んっ」
急に真実に抱き付かれて唇を奪われた。黙っていると段々と口付けが濃厚になってくる。
「真実、……これからだと朝になっちまう」
「お願い、抱いて」
必死にしがみ付かれて詔太は困ったように背をぽんぽんと軽く叩いた。
「わかった。わかったよ。風呂に入ってくるから」
「いいから。早く抱いてよ」
「真実」
声の調子に気付いたのか真実は驚いて身体を離した。
「ごめん。ごめん、嫌いになった?」
「まさか。ただ、待ってくれってだけだ」
「……わかった。待ってる」
こんなに余裕のない真実を見たのは初めてだった。帰りが遅くなったことで心配してしまったのだろうか。悪いことをしたな、と思いシャワーを急いで浴びると寝室に向かう。
「詔太!」
思い切り抱き付かれて、詔太は笑った。
「こんなに甘えん坊とは知らなかったな」
「……店にいる時みたいな仏頂面がいいの?」
「どっちも好きだよ。おまえだから」
「……詔太」
真実に全体重を掛けられ、ベッドに背中から落ちる。激しい口付けを続ける真実に詔太はどこか釈然としない気持ちを抱いていた。
ぐっと眠り込んだらしい。目が覚めるとまだカーテンの向こうは暗くてナイトテーブルの時計に目をやる。四時半。隣を見ると眠っているはずの真実がいない。まただ。詔太は身体を起こして立ち上がる。
詔太の心配事はこれだった。真実が寝ていないことだ。同居を始めて三か月。真実が眠っているのをほとんど見ていない。そして大体ダイニングにいて、ぼんやりしている真実を見るのだ。その顔は空虚に満ちていてとても声を掛けられない。そんな夜が何度もあった。
詔太は今日こそ真実に聞こうと思った。ダイニングに行くとやはりそこにいて、真実は何かの缶をこんこんと指で叩いていた。電気を点けて、声を掛ける。
「真実」
「詔太」
真実は慌ててその缶を後ろに隠した。詔太は大股で歩くとその背にあるものを取ろうとした。
「真実、それ出せ」
「なんでもないから」
「なんでもないなら出せるだろ? それ、なんだ」
「痛っ……!」
むりやり取り上げる。蓋を開けるとそこには錠剤のシートが入っている。
「これはなんだ?」
「…………」
無言を貫きそうな真実を前に詔太は机の上のスマートフォンに手を伸ばす。
「やめてよ!」
「黙れ」
びくんとして真実が身体の動きを止める。詔太はシートの裏に書いてあった名前を画面に打ち込む。そこに映し出されたのは、睡眠薬の詳細だった。
「真実、おまえ」
「知らない、もう寝るね」
立ち上がろうとした真実の肩を押してそこにもう一度座らせる。拳を膝で震わせているのを見て、詔太は向かいの席に座った。
「おまえ、ずっと眠れなかったのか」
「…………」
「真実」
「…………」
「おまえがほとんど眠っていないのは知っていたよ。ごめんな」
「詔太」
「辛かったろう?」
「……別に」
「真実、なんで眠れなくなったんだ?」
「それを聞いてどうするの?」
「どうするって……」
「それを聞いたら、詔太は僕と別れたくなるよ」
「なぜ?」
「だから、聞かないで。僕のことが好きなら」
「眠れないなんて尋常じゃない。眠れるためには原因を知る必要があるだろ?」
「……僕は詔太と別れたくない。絶対に別れない」
詔太は困って黙った。突然の拒絶。これは真実の一番の急所だ。むりやり言わせて追い詰めたくない。だが根本を知らなければ真実が眠れることは一生ないだろう。そのままでいいと思っているようだが、いつまでもあんな空虚な表情をさせたくない。
「……真実。おまえを愛してるから、知りたい」
「そんなことを言うのは簡単だよ。絶対に僕を嫌いにならないって保障あるの? 僕は絶対に言わない」
「俺を愛してるなら、話せ」
真剣な表情の詔太を見た真実は俯いて、静かに涙を零した。
「ずるいよ……。そう言われたら、話すしかないじゃない……」
「僕の前の職場……N書店って言うんだけど」
「あの大手の」
「うん。そこの編集部で働いてて。……水田さん、って知ってる?」
「水田一郎か? 作家の」
「……その担当をしていたんだ」
「新卒でそんな大物を? 随分とやり手だったんだな」
「違う。……おまえならできるって。信頼して僕を抜擢してくれたのが編集長で。僕、その編集長が好きだったの。でも……」
話はこうだった。真実は必死にその小説家を担当していたが締切が近くなり書けなくなるとヒステリーに陥って誰もが近づけなくなるくらい険悪になるらしかった。そこで真実は自分の身体を差し出すことで原稿をうまく貰えるようになった。これではいけない、と思いながらも水田の過激な要求を呑むしかなくなっていった。ある日、朝までセックスをし、原稿を手に会社に向かい、そこで倒れた。目が覚めた時、そこにいたのは──。
「編集長が、僕の身体についた痕を見て……。すぐにその意味に気付いたよ。汚らわしいって。これは仕事じゃないって、そう言って僕を詰った。こんなに大切にして、こんなに好きだったのに、って抱きしめられた時にすべてはもう終わっていた」
「真実」
「僕は会社を辞めた。彼から逃げた。それからだよ、眠れなくなって、病院に通うようになったのは。ね? おぞましい話でしょ。編集長じゃなくたって、こんな僕を誰も好きになるはずがない」
「少し、待ってくれ、真実……」
「ほら! 詔太だって呆れてる。僕のこと軽蔑してる。わかってるんだよ! だから言いたくなかった。眠れないことがわかったら絶対にこのことを話さなければならなくなる。そうしたら」
真実は立ち上がって机を叩いた。
「詔太と別れなきゃならなくなる……」
なんと言えばいいのか悩む。口先だけの言葉だと真実はもっと傷つく。だが真実の自己完結は早く、詔太は付いていけなくて口を噤んだ。それを別れだと勘違いした真実は両手で顔を覆った。
「前に言ったよね。……ハベナリア・ラジアータの花言葉。「夢でもあなたを想う」って。夢の中でも詔太を想っていたい。それくらい愛してるのに……」
「真実」
「──ううん。詔太に尽くし続けたのも嫌われたくない心の裏返しだったんだ。今、わかった」
「少し待てって」
「……これで終わり。僕、寝るね」
眠れもしないのに真実は寝室へ走っていった。なんと言えばよいのか。どう言えば彼の心に響くのか。その答えを今すぐ見つけられず、詔太はそのまま椅子に座り込んでいた。
朝になっても真実は詔太に背を向けたまま、起きる気配は無かった。いや、起きているけれど今は一言も話したくないのだろう。詔太は黙って寝室を後にした。何も食べる気にならず部屋を出る。
──行ってらっしゃい!
いつもの真実の笑顔を思い出す。あれは嘘なんかじゃない。嫌われたくなくて必死になっていたと彼は言うけれど、それだけで今までの二人の生活を嘘になんてできない。
自分の気持ちは? と改めて問う。真実の過去を知った今、どうだ? と。
「……真実」
詔太は鞄を握り締めて、駅へと向かった。
仕事に出掛ける前に家事を済ませた。詔太は何も言ってくれなかった。自業自得だ、と真実は自嘲する。あれだけのことを聞かされて許せる男はどこに行ってもいないだろう。
「……早くここを出ないと」
ぽつりと言ってぎゅっと手を握り締める。どこに行けばいい? 詔太を愛する気持ちがまだ残ったままなのに。編集長から逃げたように、また自分は逃げるしかないのか? そう思って立ち竦んでいると──。
「真実!」
仕事中のはずの詔太がいきなり玄関を開けてリビングへとやってきた。片手に大きな蘭の花を抱えて。怯んだ真実は顔を背けてその場を去ろうとした。
「待て、真実!」
「……詔太」
「おまえに、話がある」
「僕は話なんてない」
詔太は空いた片手で真実の細い手首を握り締めた。
「そりゃびっくりしたさ。でも、おまえは編集長に認めてもらいたくて必死だったんだろう? 好きな人のためにそこまでできるおまえを嫌いになんてなるわけない。でも、もうその手は使わないでくれ」
「……詔太」
「俺は何があっても、おまえを愛し続ける。おまえが甘えん坊だろうが、クールビューティーだろうが、どっちでもいいって前に言っただろう。嘘じゃない。あれが俺の嘘偽りのない気持ちだよ」
握った手に鉢植えの洋蘭を渡す。ピンク色に染まって可憐に咲き誇っているそれを見て、真実は涙を流した。
「あの蘭じゃなくてごめん。これは店員さんに聞いたことなんだけど。蘭は手入れが難しくて、翌年に咲かせるのが大変らしいんだ。でもちゃんと手入れをすれば咲いてくれる。真実、一緒にこれを毎年見ないか?」
「……詔太」
その蘭をローテーブルに置かせて、詔太はポケットの中から何かを取り出し、真実の手のひらにそれを握らせた。
「それから、これ」
「…………?」
「受け取ってほしい。俺とずっと一緒にいてくれ、真実」
「詔太」
手を開くと輝くプラチナのエンゲージリングが置かれていた。真実は胸に片手を当てると湧き上がる涙を堪え切れずに頬を派手に濡らした。
「……返事は?」
「……蘭の花より、これを差し出すのが、先じゃないの?」
口を尖らせた真実に詔太は頭を掻いて苦笑する。
「一生に一度のことだからな。緊張したら、こうなった。俺だって傲慢なだけじゃない」
「詔太……」
いきなり抱き付かれて詔太は必死に、泣いている真実を抱き締め、慰める。どうやっても泣きやみそうにない。真実の本当の顔はたくさんあるに違いない。それをひとつひとつ確かめて、認めてやっていきたい。それを大事にしていきたい。急に眠れることはなくとも、そういった日々の積み重ねが真実の心の傷を癒し、眠りへと誘うに違いない。
「一生側にいてくれ、真実」
「……はい」
そしていつかハベナリア・ラジアータの花を一緒に手に入れにいこう。真実が大好きだと言った花。小さな白鷺が精一杯羽ばたくようなその愛らしい姿は真実にとてもよく似ている。それを一緒に育てながら一生を共に歩いていくのだ。
「愛してる、詔太──」
「俺もずっとおまえを愛してる」
顔を見合わせて笑う。夢でも互いを想い合う日は案外そう遠くはないかもしれなかった。
了
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