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『glad eye』
朝倉康介はひどく酔っていた。七杯目のロングカクテルを飲み干して意識を失いかけ、ゴンっと叩きつけるように置いたグラスが鈍くハイハットを遮る。
途端、カウンターでグラスを片付ける沙優の眉根がピクッとつり上がった。
「そのへんにしときなよ」
美人な顔からは予想もできないほどドスの効いた声に、反射的に謝ってしまう。どんなに酔いが回っていても、怒らせてはいけないひとは理解しているようだ。
「そんな事言ったって、飲まなきゃやってらんないっすよ…」
けれどもこちらも酔っている。なけなしの言い訳をぼやき、それでも今度はゆっくりと酒を煽る。
ライトグリーンの液体が火傷に似た冷たさを伴って、だらりと滑り落ちる。クセのある香りが鼻を満たし、ツンとした痛みが頭のギアを溶かしゆく。
そのまま衝動的に吐き出してしまおうかと考えたが、目前のバーテンダーを捉えた瞳が最後の理性を取り戻し、ごくりっと呑み込んだ。
「っ、……くそ」度数の高さを思い出しながら目元を強引に拭いさる。
遅れてやってきたミントの風味に乗せられて、溜めていた言葉が溢れた。
もう限界だといわんばかりに首がテーブルに突っ伏す。二、三度咳をして喉の痛みを覚えた。風邪でも引いたかもしれない。
「飲めないくせに」
片肘をのせて、ポニーテールを解いた沙優が苦笑う。いつのまにかカウンターは平らになっていた。
どうやら片付けは終わったらしい。片付かないのは、俺だけか。
睨みつけようと思ったが、酔いの回った目はたるんでいて覇気がない。
充血した目をすねた子供がそっぽを向くように隠して、グラスをピンっと指で跳ねる。苛立ちとは裏腹にからんっと、氷は軽快に破れた。
途端、自分がひどく惨めに思えて堪えきれず頭を抱えた。力ない嗚咽がテーブルに落ちる。
そんな康介を責めるわけでもなく、というよりも呆れたように見下ろしていた沙優はつまらなそうに息を吐くと、一転して、愉快そうに喉を鳴らした。
「……なに? 何人目だっけ?」
一番聞かれたくない箇所をピンポイントで話題にするこの人に、いったい幾度殺意を抱いただろう。
だがすでに気力もなければ、反論する手立てもない。カウンターに同化した頬をさらに歪めながら、疲れたように見つめかえす。
「………四人目」
ぽんっとシャンパンの蓋を開けたように、沙優が吹いた。
いや、そんなゲラゲラ笑うなよ。乙女だろ、一応。
……べつに、黙りを決め込んでもよかったに、それをやらないのは、逃げているようで…、なんだかムカムカする。うーん、頭が回らない。
ぐちゃぐちゃな気持ちごと吐き出す勢いだったのに、勢いだけ空回って、虚しさだけが残る。
「ほんっと、アンタって女運ないわ〜」
「この上まだオレのメンタルを削る気っすか……?」
もはや意気消沈。抜け殻となった康介に対して、沙優は腹を抱えている。本当に女っ気の少しもない、泣きたいくらいの笑顔だ。
「まぁでも……、顔だけはそれなりにいいんじゃない?」
それでも流石に悪いと感じたのか、柄にもなく世辞の一つでも寄こすのだから、危く卒倒しそうになる。
「褒めったって沙優さんはオレのタイプじゃないっすよ」
「あン? アタシだっててめぇは好みじゃねぇわ」
そんな気持ちの悪いこと言われたから、つい口が滑ってしまった。一瞬酔いが冷めかける。
彼女の反応が鈍くて助かった。
「……っていうかマスターは?」
話を逸らすように、ダメ押しのカクテルを頼む。
「買い出し。もう帰ってくるから、それまでに帰りなよ。あんたといるとあの人まで飲み出すから」
沙優さんはこの店のマスター、の嫁さんだ。普段なら恰幅の良さをポロシャツ一枚に押し込んだおっさんが、幅1メーターはあるカウンターをその巨体で埋め尽くしている。ここのマスターとは大学時代からの付き合いで、店を出す時には微力ながら手伝わせてもらった。その関係が今も続いて、こうして足繁く通っている。
大学時代ラグビーで培われた剛腕から振るわれる酒と料理は絶品で、初めてきた客にはよく驚かれるが繁盛はしている。
まぁ、そんな男が沙優ひとりの尻に敷かれてるわけだから、世の中ほんとにわからない。
まったくもってアンバランスなのになぜか帳尻が合っているというか…、とにかく仲の良い夫婦だ。
羨ましいと素直に思う。互いを支え合うというのは、ほんとうに難しい。
そういった他人の幸せに触れた時、どうしようもなく泣きそうになる。
だってそれは、オレには一生届かないものだから。
沙優さんはオレをフォローしようとしたのだろうが、そんなものは必要ない。
オレがダメな理由、そんなこと…最初からわかっている。
オレには——何もない。何もないんだ。
「優しすぎるのよねぇ、あんた」
「それは違います」
小さく、しかし明瞭な声で、康介は遮った。きょとんと首を傾ける沙優に、わずかな緊張が走る。
「オレは、優しくなんてないですよ」
二度、噛み締めるように吐いた。その声があまりにも弱々しかったので「そう…」とだけ言って、沙優もそれ以上踏み込まなかった。
こういった引きの良さが、彼女の利点であると康介は常々思った。
放り出されたグラスを傾けて、額に押し当てる。
オレがやさしい。そんな言葉、死んでもいわれたくない。
やるせなさはもういない。康介のなかの虚しさはただ明確な怒りを帯びていた。
酒を煽るのはその所為だ。けれどどれだけ潰れそうになっても、やはり意識はどこか鮮明で完全に酔い切れることはない。
むしろ酔いが回るほどに、思考はクリアになってあの時へとたどり着く。
どんなに意識を逸らしても、どんなに忘れようと思っても、けっして消えることのない傷口。
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