第4話 「傘をさす母の背中が濡れている」(重森恒雄)

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第4話 「傘をさす母の背中が濡れている」(重森恒雄)

4-1  幼稚園時代の伊藤隼人は、いわゆる大人しい子だったようだ。口数が少なく、あまり活発ではなく、一人で家の中で遊ぶ子だったらしい。次第に友達もできたようだが、どちらかと言えば、男の子よりも女の子の友達が多かったという。  そんな隼人も、次第に明るく活発で、みんなとよく遊ぶ、いわゆる子供らしい子供になったという。よく言えば純粋、悪く言えば単純。男の子なんてみんなそんなものだろう。  習字とピアノを習っていたが、特にピアノに関心を示していたという。だけど、どう考えても、自分とピアノというのが結びつかない。いったい誰の勧めかと不思議に思う。  当然と言えば当然なのであるが、父親よりも母親のことが好きで、どこへ行くのも母親と一緒だったという。毎日夕方に母親に手を繋がれて買い物に行く姿が微笑ましいと近所の主婦たちに言われていたという。  ずべて後に父親から聞かされたエピソードである。本人にはほとんど記憶がない。  このように、世間的に見れば、ごく普通の家庭に育った隼人は、ずっと『普通』の子だったのだ。そのまま、まっすぐ素直な子として成長することを両親は期待したし、恐らく本人もその予定だった、はずだが…。  母と父はともに大手製造業の会社で働いていた。母は品質管理部で、父は人事部の勤務。母の仕事は現場の品質データを分析する仕事だったようだから、几帳面な性格の母にあっていたように思う。真面目だけど、人当たりがのいい父親の人事部というのも頷けるところ。  そんな二人は職場の誰にも悟られずに、静かに着実に愛を育み、付き合って3年後に晴れて結婚した。父は母のしっかりと地に根付いた考え方が結婚の決め手になったと話して、いた。一方の母も、地味だけど誠実でコツコツと仕事をするタイプの父に惹かれたというのだから、まさしくぴったりのカップルだったのかもしれない。いわゆる職場結婚。結婚と同時に母は仕事を辞め、専業主婦となった。そして、すぐに産まれたのが長男の自分で、それから2年後に妹の明美が産まれた。  父の給料は割と高かったようで、ちょっと無理をして父が38歳の時に、ここ埼玉の春日部に30年ローンでマイホームを買って現在に至っている。  家のローンのこともあったが、母は貧しい家庭に生まれたせいか、無駄な出費は極力避け、贅沢をすることもなく、質素な生活を送くることをポリシーにしていたようだ。しかし、子供が産まれてからは、子供にだけは不自由な思いをさせたくないと、出来得る限り子供の要望に応えていた。その分、母は自分の買い物はしないように努めていたようだった。  そんな家族の中で平凡に暮らしていた隼人が小学校6年生になった時、ある『出来事』に遭遇することになる。それは隼人にとっては、後々の人生を左右するほどの『衝撃的な事件』となるのであった。  今になって隼人は思う。  人生なんて、案外他人から放たれた何気ない(その言葉を放った本人からすれば深い意味を込めていないような)言葉で決まってしまうことがあるものだと。  自分の場合がまさしくそうだったのだ。    その子はキラキラと輝いていた。  名前は富永美月  きれいで可愛くて、頭もよく、性格も明るく、運動神経も抜群で、常にクラスの中心にいた。  ただ、ズバズバとした物言いをすることがあるので、一部の女子生徒には嫌煙されていたようだけど。  隼人は、そんな彼女に以前から思いを寄せていた。しかし、臆病で、自分に自信の無い、そのくせプライドの高い隼人は遠くからそっと眺めているだけだった。それで満足していた。  だからといっては相手に失礼だが、隼人はクラスの男子生徒に相手にされないような地味であまり可愛くない子にアプローチをしていた。その分成功率は高い、すぐにつき合えることが多いのだけど飽きるのも早く、いつも自然消滅していた。 「お前、本当は富永美月が好きなんだろう」  いつも途中まで一緒に帰る友人の吉田春馬にズバリ言われる。 「えっ、そう見える?」 「見え見えだよ。お前わかりやすいし。で、そうなんだろう?」 「実はな。でも、高嶺の花だから」 「何言ってるんだよ。アイツだって同じ人間だよ。万が一フラれたって別にどうって言うことないさ。次に乗り換えればいいだけだろう」 「お前はモテるからそんなこと言えるんだよ」  実際春馬はモテ男だ。今も隣のクラスに彼女がいる。 「違うって。気持ちの問題だよ」 「気持ち?」 「そう。お前、真面目だからか、重いんだよな、気持ちが。それは相手にも伝わっちゃうだろ」 「なるほど」 「もっと、軽い雰囲気が必要なんだよ。とはいっても、お前には無理か。何なら俺が仲介してやろうか」  春馬の提案に隼人の心が動く。自分で直接アプローチするのは躊躇するが、春馬が声をかけてくれるのなら…。 「んー」 「その声はしてほしいってことだな。わかった、俺に任せろ。うまくやるから」  こんなチャンスは二度となさそうだったので、お願いすることにする。 「じぁあ、頼む」  頼んだけれど、どうせ断られるものと思っていたが、なんとOKとなった。 「吉田君から聞いたんだけど、私と付き合いたいんだって?」 「うん」 「10年早いけど、まあいや。その度胸に免じて付き合ってあげる」  上から目線で言われたが、この程度は覚悟していたので驚かない。それに付き合える喜びのほうが勝っていた。本当のところ、天にも昇るような幸せだ。 「お願いします」  こうして始まった付き合いだったが、終始美月の都合、ペースで進められた。ワガママな美月に合わせるのは大変だったが、あの『富永美月』と付き合えているという満足感で幸せだった。しかし、わずか1カ月半で美月によって終止符が打たれた。 「私、伊藤君と付き合うのやめるから」  抑揚のない声で言われ、隼人の心の中が粟立つ。 「なんで?」  憧れの存在に過ぎなかった美月だが、実際に付き合うことができたら、その幸せを失いたくなかった。 「伊藤君と一緒にいても何もトキメかない」  反発したかったけどできず、美月の肩越しに見える空を睨みつけた。 「そう…」 「伊藤君って、つまんないよね」  美月の声がぴしゃりと教室の壁や床に響いた。  隼人は一瞬鼻白んだ。  生々しい悲しみに襲われる。  恐らく当時の美月はこの言葉に深い意味なんか持たせたつもりはないと思う。しかし、、美月の言った『つまんない』という一言は、後々の隼人の人生を変える働きをしてしまった。 「俺って、つまんない?」  自分でも情けないくらい、懇願口調で訊いていた。 「つまんないね。平凡で、普通で、退屈で、ただのいい人って感じ」  ずいぶんと傷つく言葉を平気で並べてくれたと、冷静に思った。 「「どうしたらいいと思う?」  ここは謙虚になって訊いてみた。実際にわからなかったし。 「どうしたらいい? あんたバッカじゃないの。そんなこと自分で考えなよ。じゃあね。さようなら」  呆然自失の隼人をその場に置いて、美月は颯爽と風を切って去って行った。悔しいけれど、その姿はカッコよかった。  フラれたことは悲しかったけれど、でもそれよりも、美月の放った言葉が隼人の胸の奥に重く沈み込んでいた。美月はあっけないほど簡単に隼人のすべてを否定した。時間が経てば経つほど、美月の言葉は隼人の胸の内側に目の粗いやすりで撫でられたような痛みを植えつけた。、  釈然としないまま何日か過ごした後、隼人は美月に言われたことを母に話して見ることにした。 「ねえ、お母さん」 「何?」  夕食の準備をしていた母の背中に声をかける。 「あのさあ、こないだ、女の子に隼人ってつまんないって言われちゃったんだけどさあ」 「えっ、女の子にそんなこと言われたの」  振り向いた母にいかにもおかしそうに言われムッとする。 「なんで笑いながら言うんだよ」 「だって…」 「ついでに、ただのいい人っていう感じって言われたんだけど…」 「あらそう。でも、その子案外人を見る目があるのかもね」 「俺、ただのいい人なんかじゃないと思うんだけど」  『ただのいい人』という言葉は未だに淡い苛立ちを生む。 「いい人って素晴らしいことだと、お母さんは思うけどな」 「そんなことないし、だいいち、それでフラれちゃったんだぜ」 「その子はね、隼人と合わなかっただけ」 「そうかなあ」 「全然心配することないわよ。隼人はそのままでいいの。そんな隼人にぴったりの子が現れるから」 「何かお母さんまで俺の事バカにしてない?」 「そんなことあるわけないでしょう」  結局、中途半端な答えに留まり、うっぷんは残ったままだった。 4-2   木々の合間からわきあがるように蝉の声が響いてくる。  目の前の景色がふくれあがり、水底のようにゆらゆらと揺れた。  中学生になった隼人は、自分自身が見えなくなっていた。自分自身の架空の姿に怯えもしていた。大事なことが何もわかっていないまま目先のことをとりあえずやり過ごそうとしている。すべて美月のあの言葉のせいだ。美月の言葉に翻弄され、こじらせた。  美月の言葉に対する母の答えにはまったく納得していなかった。以来ずっと美月の言葉が隼人の中に残っていた。しかし、中学生になって、つまらない自分を生み出しているのは自分の家庭環境、家族にあると気づいた。美月の言った『平凡で』『普通で』『退屈で』『ただのいい人』の集まった、『つまらない』家族が自分の家族だった。そんな家族の送る日々は、まるでいつも同じ味のカップ麺のように無為に過ぎていく。それでいて、そこには疎ましいほどに濃密な関係が構築されている。自分もその一員だったからこそ、今は家族に、自分自身に嫌悪感しか湧かない。  これからは、こんな家族とは精神的に決別して自分は別の生き方をすると決意した。以来、隼人は家庭内で浮き始めていた。家族と距離を置くことに伴うストレスもあったが、もはやいつもの自分を演じる疲れからは逃れることができた。それに、何の根拠もなかったけれど、自分の家族とは違う何か特別なものを持っているような気までしていた。  つまらない人間は学校にもたくさんいることに気づくようになった。いじめに明け暮れる陰湿な考え方のやつら。遊ぶことしか考えていない不良グループ。えこひいきだらけの教師…。人間って、なんてくだらない生き物なんだろう。そう思うと、学校に行くのが憂鬱になる。  とはいえ、元来生真面目な隼人は学校を休むという発想には至らない。がらんどうの心に生の痕跡を埋め込んで、昨日とさして違わない今日をスタートさせる。    つい1週間前まで畑中光一がいじめにあっていたかと思ったら、今度は武田美奈子に移ったらしい。グループでつくるSNSで昨日情報が入った。教室内では、それぞれのグループが塊りを作って雑談している。一見いつもと変わらぬ光景だけど、どこかにいじめが潜んでいるのかもしれない。今時は、小学生でも中学生でも表の顔と裏の顔があったりするので恐ろしい。  その時、ドアを開ける音がして、担任の稲垣が入ってきて、教壇に向かう。それを見ながら、それまで雑談していた生徒たちがそれぞれ自分の席に着く。 「起立」 「礼」 「おはようございます」 「着席」  学級委員の乙坂寛太のきびきびとした声が教室内に響く。  一連の儀式が終わったところで、ホームルームが始まる。 「今日はみんなに話があります」  稲垣が何を話し出すのかとみんなの視線が教壇に向かう。 「実は田辺俊君が急に引っ越すことになって、今日からお休みしています」  みんなが田辺の机を見る。昨日まで普通に学校に来ていたのに『どうして』という疑問が浮かんでいる。稲垣がその理由を言わなかったことが想像を刺激してしまう。  ホームルームが終わって休み時間になると、さっそくいろんな噂話が生徒間を駆け巡っていた。父親が借金取りに終われ引っ越したのではないか。母親が男を作って家を出て行ったせいだ。隣近所ともめ事を起こして住んでいられなくなった、などなど。みんな興奮気味に、頬を紅潮させながら話に興じている。そのどれもが単なる噂なのかもしれないけれど、田辺がいつも暗い顔をして一人で教室の隅にいたことから、どれかが当たっているのではないか思わせてしまう。  しかし、昼休みの時間になると、田辺のことはすでにみんなの関心から外れていて、まったく違う話題で盛り上がっていた。もはや、田辺は過去の人となっていた。  いじめを除けば、学校生活なんて、きっとどこも大差ない。なので、いじめにだけはあわないよう、うまく立ち回ることができれば平穏に過ごせる。幸い隼人にはそういう才能に長けていたから、クラスの毒にも薬にもならないようなグループ内で『平凡』に学校生活を楽しんでいた。悲しいかな、大手企業の中で、出世からは取り残されているものの、専門職としてそれなりの位置でうまいこと自分の居場所を作っている父親のDNAを受け継いでいるせいなのではないかと自己分析している。 「伊藤君って、つまんないよね」  眠っていても構わない授業だったり、自習の時間にぼおっとしていると、フラッシュバックのように突然美月の言葉が頭の中に蘇える。まるで呪いのようだ。  最近、隼人は再び美月の言葉の意味を考えている。  つまらない人間にならないようにする方法はわかったような気がする。でも、それだけでは半歩前進に過ぎない。では、美月のような女性がおもしろい、あるいは一緒にいて楽しいと思ってくれる人って、どんな人だろうと考える。  美月の言葉から逆に類推するならば、それはきっと、普通の人にはない鋭い感覚の持ち主であったり、個性の強い人であったり、人とは違う角度で物事を見ることができたり、考えもつかない意見を言える人ということになるのだろう。  そういう人って、どこか変わっていたり、性格がひねくれていたりするものだけど、そのくらいのほうが美月のような人には魅力的に映るのだろう。自分もそんな人間になりたいと思っていたら、知らず知らずのうちに、屈折した、たたのひねくれ者になっていた。  4-3  高校生になり、自我に目覚めた隼人はさらに尖っていた。成績も常に上位に入るようになっていて、自分は父親とは違い優秀なんだという実感が芽生えていた。高校生になってからは、自分と同じ男性である父親を強く意識するようになっていた。それは父親の姿に、将来の自分を重ねてみてしまうからだろう。  人にもよるだろうけど、この頃の隼人は読書に精を出していて、哲学の本から文化人類学、地政学、AI等ジャンルを問わずとにかく本を読み漁っていた。おかげですっかり頭でっかちになっていて、自分の周りの人間がみなバカに見えた。特に、日曜日にソファーで横になりながらテレビを見て笑っている父親は、何も考えていない、頭がすっからかんの人間ようで軽蔑すら覚えた。そんな父親を怒るでもなく見守っているだけの母親にも嫌悪感を抱いている。 「隼人ちゃん、お母さん買い物に行ってくるから」  階下から母の声が聞こえる。もうずっと前から『ちゃん』づけは止めてくれと言っているのに一向に直らない母に殺意すら覚える。思わず壁を蹴飛ばす。 「何よ。やめてよね」  隣の妹の部屋から声がする。 「うるさい」  どいつもこいつもイライラさせるだけだ。  隼人は先日クラスメイトの立花譲治の家に遊びに行った時のことを思い出していた。  隼人にとって譲治は子分のような存在で、金魚のフンのようにいつも隼人について回っている。譲治は名前はカッコイイのに、成績も隼人よりすっと下だし、どんくさい性格でよくドジを踏んでいる。しかし、明るくおちやめなところのある譲治は、いわゆる『明るいバカ』でいじめの対象にはなってない。隼人からすれば、可愛い『子分』なのだ。  そんな譲治から家に遊びに来てほしいと言われ断ることなどできなかった。子分の家に行くという気楽な気持ちで出かけて行ったのだが、家の前にたどり着いた隼人は早くも後悔していた。その家は想像を超える豪邸だった。できれば引き返したいと思ったが、それもカッコ悪いと思い直して大きな門のブザーを押した。 「はい」  中年と思われる女性の声がする。お手伝いさんかお母さんか。 「あのー、今日2時に譲治君と約束している伊藤隼人といいます」 「はい、はい。お坊ちゃまからお聞きしております」 『お坊ちゃま?』  そうか。譲治はこの豪邸の主のお坊ちゃまなんだと愕然とした。同時に今話しているのはお手伝いさんとわかる。 「今、門を開けますのでお待ちください」  そう言われ、隼人は門の前で立っていた。すると、突然ゴーッという音がして重厚な門が二つに割れた。隼人はお手伝いさんが開けにくると思っていたので、びっくりした。 「ウォー」  隼人は思うわず後ずさってしまった。 「どうぞ、お入りください」  インターホン越しにそう言われ、ぽっかりと空いた空間に、おそるおそる足を踏み入れると、手入れの行き届いた庭木の間に飛び石の置かれた通路があった。飛び石に沿って歩き始めると、再びゴーッという音がして隼人の後ろで門が閉まった。どこかの要塞にでも閉じ込められて、もう二度と帰れなくなるのではなどと思ってしまった自分が腑抜けで情けない。しばらく進むと、向こうからお手伝いさんらしき女性が笑顔で近づいてきた。お手伝いさんといっても、品のあるきれいな人だった。 「ようこそお越しいただきました。どうぞこちらです」  お手伝いさんの後についてしばらく歩き、ようやく玄関にたどり着く。しかし、そこにも譲治はいなかった。去年家族で箱根で泊まった旅館の入口のような広い玄関をあがり、長い長い廊下を歩いて、これまただだ広いリビングに通される。 「ここで少々お待ちください」  そう言ってお手伝いさんはどこかへ消えてしまった。一人残された隼人は改めてリビングを見渡す。いかにも豪華なシャンデリア、映画でしか見たことのない暖炉、壁にかかった大きな絵画はきっと有名画家が描いたものだろう。それに、家具の一つ一つがすごく重厚なものだった。わが家のリビングを思い浮かべ、それがいかに粗末で薄っぺらいものかを思い知らされる。それからどれくらい待たされただろうか。恐らく10分程度だったのだろうが、隼人にはえらく長い時間のように感じられた。それと同時に自分でも次第に緊張してくるのがわかった。 「ごめん、待った」  ようやく譲治が顔を出した時、隼人は思わず立ち上がって迎えてしまった。子分なのに。 「いやいや。そうでもないよ」  改めて譲治を見ると、着ているものや雰囲気が、この豪華なリビングにマッチしていた。 「良かった。今日はゆっくりしていけるよね」 「まあね」  先ほどから落ち着かない気持ちの隼人は、できれば早く帰りたいと思っていた。その意思を譲治に伝えようとした矢先、リビングのドアが開き、美しい女性が入ってきた。同時に華やかな風まで運んできた。その姿を見た瞬間、譲治の母親であるとわかった。明らかに先ほどのお手伝いさんとはレベルが違ったからだ。その美しさと品の高さはまだ女の何たるかを知らない隼人でも心を奪われた。 「こんにちわ」  隼人に向けた笑顔が眩し過ぎて見とれてしまった。卵型の小さな顔に、ふっくらとした唇。鼻はすっと伸びている。一人の女性として惹かれてしまっているのを悟られないようにするのに苦労した。 「譲治の母親の立花美嘉です」  うっとりするほど優しく、それでいて艶めかしい声だった。  まさか譲治の母親に、自分が男であることを意識させられるとは思ってもいなかった。それほどの魅力を母親は持っていた。こんな人が母親だなんて驚きだ。いつも新聞に挟まっているスーパーのチラシを見比べて、少しでも安い店を探している自分の母親の姿と比較してしまう。 「あっ、どうも」 『あっ、どうも』などと間抜けな挨拶をしてしまった自分が嫌になる。 「譲治といつも仲良くしていただけて嬉しいわ」 「こちらこそ」  慣れない言葉遣いをしている自分がむず痒い。すっかり母親のオーラに気圧されていた。 「隼人君のおうちはどちらなんですか?」  笑みを口元に湛えながら言われた。しかし、そんなこと答えられるわけがないと思う。場所を言っただけでだいたいの暮らしぶりがわかってしまう。ひょっとしてこの母親はその地域を訊くことで、隼人が自分の息子の友達として相応しいのか判断しようと思っているのではないか。なので、どう答えようか少し戸惑っていると、 「確か、〇だったよね」  隼人が答える前に譲治が言っていた。あまり言われたくない、その場所の名を。  その瞬間、母親の目の中にかすかな酷薄さが浮かんだように見えた。だが、すぐに顔を元に戻して言った。 「あら、そうなんですね」  口元には予め用意されていたような完璧な微笑みがあった。だが、隼人はひどく動揺し、胸のあたりが重くなるのを感じた。 「今日はゆっくりしてってくださいね」 「はい。ありがとうございます」 「譲治さん、じゃあママはこれからお出かけしますから、何か用があったら花江さんに話してね」  お手伝いさんが花江さんという名だとわかる。この家ではお手伝いさんでも、わが家のレベルを超えている。  母親が出て行ったドアのほうを呆然と見ていた隼人に譲治が言った。 「じゃあ、僕の部屋に行こうか」 「ああ」  譲治の部屋は自分の家のリビングぐらいはあるのではないかと思うほど広かった。 「この部屋、お前ひとりで使ってるのか?」 「そうだけど」  平然と言われ、愕然とする。 「お前んちって、とんでもない金持ちなんだな」 「そんなことないよ。このへんではごく当たり前だから」  譲治の何気ない一言が、隼人に圧倒的な敗北感を与えた。 4-4  新興住宅地が灰色の波のように坂を埋め尽くしている。その中の一つがわが家だ。  譲治の家からの帰り道、隼人は自分の身体の表面の感覚が鈍って軽く浮き上がるように感じた。  自分でも理由がよくわからないけど隼人の目からは涙が零れていた。譲治の家が羨ましかったから? というより悔しかった? 自分が、自分の家族が惨めに思えてしまったから? そのすべてであるような気がした。  譲治も、譲治の母親も決して隼人のことを蔑んだり、バカにしたり、憐れんだりといった態度をあからさまに示したわけではない。むしろ、譲治の友達として十分にもてなしてくれたと思う。でも、譲治の母親はわざとらしく距離を撮り続けたし、柔らかい言葉の中に無数のトゲをちりばめていたし、隼人の着ていた洋服を一瞥して痛々しい視線を送ってきた。ほんの一瞬だったため見過ごしてしまいそうだったが、その時の母親の目を隼人は見逃さなかった。そんな目で見られたことが死ぬほど悔しかった。 「ただいま」  玄関ドアを開け、中に入る。 「おかえり」  いつもの母親の平板な声が台所から聞こえる。夕飯の支度をしている後ろ姿が見える。虫唾が走るほど汚らしく感じた。  無言で居間に入ると、そこにあるのは見慣れた生活感満載の風景だった。  ソファーの上に積み重ねてある洗濯物。居間と和室の仕切りのところには紐で束ねた新聞紙が無造作に置かれている。古いタイプの液晶テレビが、たいして広くない居間を我が物顔に占領している。そんな一つ一つがひどくみすぼらしく思えてしまう。 「洗濯物があったら、さっさと洗濯機に入れて置いてね」  台所から居間に現れた母親が隼人に声をかけた。 「わかってるよ、うるさいな」  つい苛立ち、声が尖った。 「何を怒ってるの」  そう言う母の化粧けのない顔を見て、さらにイライラが募る。 「何だ、この家は。親父もあんたも明美もみすぼらしいかっこしやがって」  そう言って、持っていた鞄を床に投げつけた。すると、それまで普通にしていた母親が近づいてきて、隼人の右頬を叩いた。 「何があったか知らないけど、家族のことを悪く言うのは許さない」  今まで見たこともない母親の剣幕に一瞬怯んだが、その時の自分は得体の知れない感情に突き動かされていて、自分を抑えることができなかった。 「いいからそこどけよ」  目の前に立つ母親を押した。よろけた母親が膝から崩れ落ちるのが見えたが、見なかったふりをして二階の自室まで駆け上がった。生まれて初めて母親に叩かれた右頬に触れる。痛いというよりは熱を持っているように感じる。だが、それよりも思わず母親を押し倒すことになってしまったことに、心が乱れていた。 4-5  母親との確執のようなものが生まれて以来、隼人は受験勉強のことだけを考えて過ごすことにした。家の中でも、目立たないよう、目立たないよう、ひっそりと呼吸していた。そうすることで幸い余計な摩擦は起きなかった。結果、幸いにも第一希望の大学へ入学できた。  大学に入れば自分の人生も変わるのではと思ったが、いざキャンパスに通って見ると、そこには退屈な生活が待っているだけだった。心に溜め込んだものが腐りだすような虚無感に時々襲われる。ただ、大学へ入った頃から、母親との関係は修復していて、そのことは心を楽にしていた。  大学のキャンパスはなだらかな坂を登ったところにある。最寄り駅を降り、ゆっくり歩き出す。  見上げると、向こう側の青さを透かす淡い雲が掃くように高い空を流れている。  そこから目線を下に下げると、少し前に前川ひなのの後ろ姿が見えた。  まっ白く透き通るような肌、きらきらと潤んで輝く二つの瞳、小さなあご、くるくる変わる豊かな表情。そのどれもが隼人の理想であった。ひなのは、譲治の母親にそっくりだった。最初、ひなののを見た時、ある種の苦い悲しみに似た感情が湧いたのは、ひなのがあまりに譲治の母親に似ていたせいだ。  ひなのに歩調に合わせながらも、一定の距離を置いて自分もキャンパスを目指す。歩道沿いに植えられた街路樹は青々と陽を反射させている。  隼人はこの先の自分の人生について考える。穏やかに安定した日常を享受しながらも、相変らず負の感情だけは膨らませ続けている。自分でもさっぱりつかみきれない自分の心の中の何かひとつを模索しながら、結局、自分の中で軸が固まることがないのではないかという焦りがある。他人が聞いたら、何青臭いことを言ってと思われるかもしれないのだが、隼人はずっと頭でっかちのままなのだ。  2時限目の授業が終わり、学食へ行くと大瀧慎吾の姿が見えた。 「おう、隼人」 「おう」 「何食べる?」  慎吾はカレーライス、隼人は生姜焼き定食を選んだ。 「何か退屈だよな」  先に食べ終わった大瀧慎吾が窓の外を見ながら言う。昔から食べるのが遅い隼人はまだ生姜焼き定食と格闘中である。  3時限目の民法が休講になり、急に暇になった。先輩からの言い伝えに添って、一、二年でしっかり単位をとったため、3年生になった今は結構時間的余裕がある。お互いバイトもしているが、バイトは夜なのだ。なので、昼間はこうして時間を持て余し気味になる。 「本当だよな。何かおもしろいことないかな」  昔のように学生運動が起きているわけでもない今の大学のキャンパスは平和そのものである。かといって、勉強に真剣に取り組んでいるわけでもない慎吾や隼人のような学生にとっては、その暇な時間を有効に使おうという発想すら思い浮かばない。ただただ暇なのだ。後々振り返ってみて、人生でこの時期ほど退屈という言葉を乱発したことはないと言える。 「しかし、お前って本当に食うの遅いなあ」 「ちゃんと噛めって親に教育を受けているもんで」 「それにしても、おっそい」  痛いところを突かれ、残りを急いで食べる。 「この後どうする?」  食べながら隼人が慎吾に言う。その時だった、前川ひなのが食堂に入って来た。 「来たぜ、お前をフッたテニス部のマドンナが」  どうしても思いが伝えたくて、数か月前に思い切って告白したが、予想通りというか案の定、見事に撃沈した。でも、隼人は告白できただけで満足だった。ただ見とれるだけで何も言えなかった譲治の母親に、一人の男としての自分の思いを告げられた、みたいな感覚だった。 「もう関係ないよ」 「何言ってるんだよ。一度フラれたぐらいで引き下がってどうするんだよ。本当に好きなら、何度でもアタックしろよ」 「そんな勇気はないよ」 「そうか。つまんない奴だな」  慎吾は軽く言ったつもりだっただろうけど、『つまんない奴』という言葉は、中学時代に女の子に言われて以来トラウマになっている。 「そんなことで、つまんない奴なんて言うなよ」  つい口調がきつくなった。 「何だよ。そんなに怒るなよ」 「確かに俺は恋愛には臆病なところがあるのは認めるけど、だからといって人間的につまんないわけじゃないんだ」 「ごめんよ。俺はそんなに深い意味で言ったんじゃないんだ。お前って、へんなところに拘るよな」 「そうかもな。すまん、ちょっとおかしかったかもしれない」 「俺が言いたかったのは、お前は真面目過ぎるっていうことさ。そのくせ、劇的な人生に憧れているみたいなところがあるけど、そんなのしんどいだけだし、お前には似合わないぞ」 「そうかなあ。人生って一回きりだから、できれば劇的な人生を送りたいって思わないか?」 「価値観だから、そういう考え方を否定しないけど、俺はやだな」 「そうか…」 「なぜかって言うと、うちの親戚の人で、まさに劇的な人生を送った人がいるんだけど、周りの人も巻き込んで悲惨な最期をとげている」 「劇的って言うと、そういう悲惨な話に結び付けられることが多いけど、逆のパターンだってあるじゃないか」 「まあ、そうだけど。とにかく俺は、そんな山や谷の大きな人生なんてごめんだな。できるだけ波風のたたない普通の生活をしたいと思うよ」  それは、わが家のような生活だ。 「ふ~ん、お前がそんなこと言うなんて意外だな」 「意外でもなんでもいいさ。俺の人生は俺が決める」 「それはそうだけどさあ」  これ以上話し合っても平行線だと思ったので終わりにする。 「ところで、そろそろ就職先のことも考えなくちゃいけないんじゃないか?」 「そうだよな」  そうは言いながらも、隼人はあんまり現実感がない。 「お前はどうするつもりだ?」  慎吾に振ってみる。 「俺は、そうだな。できれば公務員かな」 「ええー」  心底驚いた。いつも過激なことを言って周りをけむに巻いている慎吾からそんな発言があるなんて思いもよらなかったからだ。 「何だよ。俺が公務員目指しちゃ悪いか」 「そんなことはないけど、日ごろの言動と違うなと思って」 「バカだな、お前。大学生の戯言なんか世間に通用しないことぐらい百も承知さ」  慎吾は自分が思っているよりもはるかに現実的な男だった。 「そうかあ。俺は正直まだ迷ってる」 「迷ってるって、何に?」 「う~ん。これは今まで誰にも言ったことがないんだけど…」 「なんだ、なんだ」 「うちの親父は典型的なサラリーマンなんだ。しかも、出世するでもしないでもなく、可でも不可でもないという感じの」 「何、それ」 「まあ、なんとも平凡な…」 「それがどうした」 「俺、親父のような人生を歩みたくないんだ」 「さっきから聞いていれば、お前なんかへんだぞ。可もなく不可もなくって、恵まれていることの証拠だぞ。それに、お前は典型的なサラリーマンが一番似合ってるぜ、いい意味で。だから、これは俺からのアドバイスだけど、余計なことは考えないほうがいい」 「そうかなあ」 4-6  社会人になって8年。隼人は中小建設会社の営業課長になっていた。『課長』というと聞こえがいいが、大企業でもないこの会社での『課長』は対外的に見れば主任レベルだと思う。  隼人は別にこの会社に入りたくて入ったわけではない。本当はマスコミ関係志望で、就職試験ではテレビ局や雑誌社などを受けた。だがことごとく不合格だった。もちろん、それなりの勉強をしたつもりだったが、所詮力不足だったのだろう。致し方なく路線を変えようと思った時には、すでに就職戦線の後半に入っていて、企業を選ぶ余裕などなかった。結果、やっとのことで今の会社に入社したのだ。路線変更をもっと早めにやっていればと悔やんだ。 「加藤君、もう遅いから帰っていいよ」  午後8時を過ぎたのにまだ残業をしている直属の部下の加藤久美に言った。一見久美のことを案じて言ったように聞こえるが、本音は残業している久美のせいで自分が帰れなくなっていたから、我慢できずに言ったのである。  隼人は今日の午後10時から放映されるテレビドラマの第3話が見たいのだ。今日は遅くなる予定がなかったから録画予約してこなかったのだ。 「でも、あと少しですから」  そう言われてしまったらやめろとは言えない。 「あっ、そう」  今久美がやっているのは明日の午後に開かれる会議資料の作成なのだから、明日の午前中に続きをやれば十分間に合うはずだ。それなのに…。それに、すでに他の社員は全員帰宅していて、久美と二人きりなのも気づまりだった。もともと久美には真面目過ぎるところがある。違う言い方をすれば、融通がきかない。  時計を見ると、もう今日のテレビドラマには間に合いそうにないことが分かり諦めた。 「すみません課長、終わりました」  顔を上げると隼人の前には久美の笑顔と、久美が作成し終えた資料があった。 「やあ、お疲れさん」  資料を受け取りながら言い、いい上司を演じた。 「私、仕事を持ち越すの嫌いなんですよね」 「いや、助かるよ。ところで、もうこんな時間だし、どこかで食事でもして帰らないか」  どうせこのまま帰ったところで独り身の隼人は、コンビニで弁当を買って帰るくらいしかできない。だから、軽い気持ちで言ってみたが、久美は怪訝な顔をした。 「あっ、ごめん。決して無理にじゃないから」  パワハラなどと言われても困るので、慌てて訂正する。 「課長、ひょっとしてパワハラとか気にしました」 「うん、実は」 「大丈夫ですよ。喜んでお供します」 「そうか。良かった」  会社の近くにある洋風居酒屋に入る。 「こういうところで良かったかな?」 「全然OKです。というか、私、おしゃれなところって苦手なんですよね」 「へえー、そうなんだ」  久美と一緒に食事をするのはこの日が初めてだったが、気取らない性格の久美には好感が持てた。 「課長、この際だから言っていいですか?」  お互いだいぶ酔いがまわり、二人の精神的距離もかなり縮まった頃、久美が隼人に挑戦的な目を向けて言った。 「何? その顔怖いなあ」  ほんとうに怖い顔をしていたので、久美の気持ちを和ませるつもりで若干ふざけた感じで言った。 「いいですか?」  久美はそんな隼人に切れたかのように、真剣な目をしてもう一度言った。 「いいよ」  久美に気圧され、やや引き気味に答えた。 「課長って、今の仕事に誇りを持ってますか?」  さっきまでの楽しい飲み会的な感じが一気に消えた。それにしても、部下に『仕事に誇りを持ってますか』など言うわれて、ちょっと腹が立った。裏を返せば、痛いところを突かれたせいだ。隼人は心のどこかに未だに入りたくて入った会社じゃないという思いが残っている。 「誇りねえ。まあ、俺なりに一生懸命やってるつもりだけど」 「それって答えになっていないと思いますけど。私は今の仕事にすごく誇りに思っています」 「偉いねえ」  本気半分、冗談半分。 「課長、私のことバカにしてますか?」 「そんなことないよ。そうとれたとしたらごめん」 「課長は自分の会社のことを卑下しているんじゃないですか。中小企業だし、業績だって業界の下のほうだしって」  ズバリ言い当てられたが、ここは課長として認めるわけにはいかない。 「そんなことないさ」 「そうですか…。でも、課長の傍でいつも一緒に仕事している私の目にはそう見えてるんです」  なんだか面倒くさいことになってきた。隼人はこういう男の弱みを突いてくるような女性は苦手だった。軽蔑されてもいいという思いで最低な言葉を口走った。 「そう思うんならそうなんじゃない」  ただ呆れられるか、『最低』と言われ、その場を去るかと思ったが、久美はハッとするほど凛とした目を向けてきた。そのいちず過ぎる視線に隼人はたじろいだ。 「何ですか、その言い方。私は真剣に言ってるんですから、ちゃんと答えてください。そうじゃないと、私悲しくなります」  隼人の胸にグサッと刺さった。それもかなり深く。自分でもわかっている自分の一番駄目な部分が白日のもとに晒された。 「すまない。君の言うとおりだ」  自分の愚かさを他人の前で初めて認めた時だった。ふと久美の目を見ると、涙が頬を伝っていた。 「何も君が泣くことはないじゃないか」 「だって、だって、私、課長のことが好きだから…」  あまりに突然で意外な言葉に、隼人は心の均衡を失った。 「そんな…」 「ずっと好きでした。だからこそ、あんなこと言ったんです。課長は本来そんな人じゃないと信じているから」  久美の顔には限りなく美しい素朴な微笑みがあった。心の奥底に電流が走った。会社に入社してから今までの時間の流れが特殊な道筋を持ったように思える。久美の言葉で隼人はもう一度、自分の人生にちゃんと向き合おうと決心した。 「加藤君。こんな俺のことを理解しようとしてくれた女性は君が初めてだよ。素直に嬉しい。ありがとう」 「私って、こういう女ですけど、嫌じゃなかったら付き合ってくれませんか」 「もちろん、OKだよ」  その日を境に二人は真剣な付き合いを始め、関係は深くなった。自然な流れとして結婚の意思を固め、後は双方の両親に報告するだけとなった。 4-7   結婚報告はまずは久美の両親が先だった。特に父親への挨拶が男として一番緊張する場面なのだが、実は付き合っている頃から頻繁に妻の実家である加藤家には遊びに行っていて、父親とも酒を酌み交わすほどの関係になっていたので、隼人にはさしたる緊張感はなかった。すでに久美から結婚の意思が伝わっていて、両親ともに喜んでいるとも聞かされていた。なので、儀式としての場が用意されたということである。  当日、緊張していたのはなぜか父親のほうで、いっもより硬い顔をしていた。 「もう。お父さんが一番緊張しているんだから」  二人を迎えに出てきた父親の顔を見て久美が言う。 「そうなのよ。今日も朝早くからそわそわしちやって大変」  と母親が茶化しぎみに言う。 「うるさい。隼人君、ともかくあがって」  いつものようにリビングに通されて待っていると、改めて両親が現れた。お茶を飲みながらしばらくは雑談をしていたが、久美に横腹をつかれて挨拶に入る。 「おとうさん」 「何?」  ここで『何』はないでしょうと隼人は心の中で父親にツッコミを入れる。 「私と久美さんを結婚させてください」 「……」  この期に及んで返事がない。父親は目を瞑り、腕組みをしたまま動かない。みんなの目が父親に釘付けになる。 「隼人君」  ここでようやく目を開けた。 「はい」 「私はずっと君のことを見てきた」  えっ、どういうこと。まさか反対ということ? 「最初は久美の彼氏と聞いてとにかく気に入らなかった。でも、それはどの父親も同じだと思う。でも君はデートの帰りにはどんなに遅くなっても必ず久美をここへ送り届けてくれたな。野球のことでは揉めたこともあった…」  久美の父親は巨人ファン、隼人は阪神ファンだからこればかりはどうしようもない。 「だけど、君が心底いいヤツだとわかった。だから、どうか娘の久美を一生幸せにしてやってくれ」  最後は涙声になっていた。 「はい、全力で」  父親の言葉に感動し、自分もそう言うのがやっとだった。 「それにしても長すぎ」  冷静にツッコんだのは母親だった。こんな温かい家庭に育った久美を大事にしなければと改めて思った。  その翌週に、今度は自分の両親に報告することになっていた。二人が付き合っていること、結婚の意思があることは母親に伝えてあり、父親にも母から伝わっていると聞かされている。こちらのほうは、単に久美を紹介すればいいだけのことだったので気楽だった。とはいえ、久美のほうは緊張しているようだったが。 「ご両親って、どんな方?」 「う~ん。ごく普通の人たち。親父は絵にかいたようなサラリーマン。母親のほうは父親の陰で地味に家事だけをしているっていう感じかなあ」  子供の頃から隼人が両親に抱いている感想だった。 「わかったようでわかんないわね」 「まあ、会えばわかるさ。とにかく気を遣う必要はないよ」 「そう…」  家に到着してブザーを押す。 「はーい」  母がドアを開け、久美の顔を見てにこやかに言った。 「お待ちしておりました。さあどうぞお入りください」  玄関をあがりリビングに向かうと、そこには父親と妹が立って待っていた。母が父の横に並んだところで久美が3人に向かって挨拶した。 「初めまして、私、加藤久美と言います」 「よくお出でくださいましたね。まずは私から家族を紹介しますね」  母が前に出て進める。 「私の隣にいるのが父親の伊藤幸作。その隣にいるのが隼人の妹の明美。そして私が母親の好子です」  それぞれが軽く会釈を交わしたところで着席する。 「じゃあ、何か飲み物を持ってきましょうね」  そう言って母親が立ち上がろうとしたのを隼人が制止した。 「母さん待って。その前にみんなに報告があるので聞いてもらいたい」 「あっ、そう」  母が座り直した。 「母さんにはすでに伝えてあるんだけど、俺、お隣にいる加藤久美さんと結婚することにしたからよろしくお願いします」 「おめでとう。ねえ、あなた」  母が父のほうを見て言った。 「いや、めでたい。こんなきれいな人を射止めたなんてすごい」  久美が小さくかぶりを振った。 「へー、お兄ちゃんって、こういう人が好きなんだ」  妹の明美が、久美を無視したように隼人のほうを見て言った。その顔には、好奇心半分、敵意半分といった思いが伺えた。そんな物おじしない明美を久美は、なんだか嬉しそうな顔をして見ている。 「何を言うんだ。失礼な」  父親が明美を諫める。 「ただ、感想を言っただけ」 「もう。すみませんね。この子ちょっと変わってるのよ。さて、挨拶はそのへんでいいわね。じゃあ、ビールにしましょうか」  フォローした母親が持ってきたビールで乾杯する。 「おめでとう」  料理が運ばれ、お酒も進む中で場はなごやかなものになっていた。しかし、そんな中で一番張り切っていたのが妹で、まるで小姑のように久美を質問攻めにしていた。 『アプローチしたのはどっちからか?』 『いったい兄のどんなところに魅力を感じたのか?』 『デートはいつもどこでしていたか?』 『ファーストキスはいつ、どこで?』 『兄との結婚の決め手は?』 『兄を変人だと思ったことはないか』 『私みたいな小姑がいたら嫌か?』  等々。中には答えにくいものもあって久美はちょっと困った顔をしていた。  そんな妹の質問にも丁寧に答えていた久美が、少し疲れを見せたタイミングで母がお開きにしてくれた。 「どうだった?」  隼人が久美を駅まで送っていく途中で訊いてみた。 「楽しかったわ」 「ほんと?」 「うん。妹さんにはちょっと参ったけどね」 「ごめんね。ああいう子なんだよ」 「ううん。実は私、ああいう直球タイプ好きなのよね。面白かった。なんか仲良くなれそう」 「えー、そうなんだ。意外。で、両親はどう?」 「お父様はあなたから事前に教えてもらった情報に近い人だったけど、お母様は少し想像と違ったかも」 「へえー、どういうところが?」 「あなたはお母様のことを父親の陰で地味に家事をしている人って言ってたわよね」 「うん」 「私はお母様ってすごく頭の回転の早い人だと思う。ご家族のすべてをわかっていて、常に見守っているんだと思う。私のちょっとした仕草にも気を配ってくださっていて、たくさんフォローしていただいたもの」  久美がどの場面のことを言っているのか、隼人にはわからなかったが、確かに母はその場の空気をつかむのが早い。 「きっと、ご家族に対する愛情が深いんだと思う」 「ふ~ん」 「一度、お母様と私と隼人の3人で会う機会を作ってくれない。結婚する前にね」 「わかった」  久美を駅まで送り届け実家に戻ると、明美が待ち構えていた。 「お兄ちゃん、こっち、こっち」  明美に手を引っ張られるようにして部屋に入る。妹の部屋に入るのなんて小学校の時以来ではないか。物珍しくて、思わず見渡してしまう。 「何をキョロキョロ見てるよの」 「いやー、久しぶりだからね」 「気持ち悪いから女の子の部屋の中をじろじろ見ないで」 「だって、お前が呼んだんじゃないか」 「だからって、じろじろ見ていいなんて言ってないでしょう」  昔から口では負ける。 「で、何なんだよ」 「久美さんってさあ、お母さんに似てるよね」 「えっ、そうか。俺は今までそう思ったことないけどなあ」 「いやあ、似てるよ。顔とかじゃなくて醸し出す雰囲気とかね。それに、感情を表に出さないところも似てるな。私の攻撃にもまったく動じなかったしね」 「あれは攻めすぎだぞ」 「小姑としては最初にガツンとやっておかないとね」 「まあ、お前みたいなタイプ嫌いじゃないって言ってたからいいけど」 「久美さんが?」 「そう」 「ふ~ん。なかなか手強いなあ。そういうところもお母さん似だ」 「それはそうかもな」 「そうよ。だからお兄ちゃん、気をつけないと尻に敷かれるよ。お父さんみたいに」 「やめてくれ」 「ひょっとしたら、もう敷かれちゃってるんじゃないの」 「うるさい」  そうは言ったものの、明美の話は案外当たっているような気もする。女性が女性を見る目は厳しいと言うけれど、同性だとわかることもあるのかもしれない。  それから一週間後に私と久美は母と会うことになった。久美のたっての希望だったが、私には一抹の不安があった。その場で母が何を話すか想像がつかなかったからだ。 「お母様、今日はありがとうございます」 「いえいえ、こちらこそお誘いいただいてありがとうございます」  ざっくばらんに話し合えるようにと、居酒屋を選んだ。母の対面に久美が座り、その横に私が座った。とりあえずビールで乾杯した後、先日の挨拶の時の話になる。 「先日はお世話になりました。でも、楽しかったです」 「そう。それなら良かったわ。でも、明美がうるさかったでしょう」 「いえ。私、明美ちゃんみたいな人大好きですよ」 「そうかもね。案外波長が合いそうよね」  自分はそう思わないのだけど…。女同士の相性は男にはわからないものなのだろうか。だとすると、母と久美の相性はどうなのだろう。ひょっとして今お互いそれを探り合っているのか? 「そう言えば、今日母に訊きたいことがあるんじゃなかったっけ」  久美が事前にそう言っていたことを思い出して、私が口をはさんだ。 「あっ、実はそうなんです」 「どうぞ、なんなりと」 「ありがとうございます。実はお訊きしたかったのは、隼人さんは小さい頃どんなお子さんだったかということなんです」 「ああ。とってもいい質問ね。大人になるといい意味でも悪い意味でも表面を取り繕う術を覚えてしまうから、その人の本質が見えにくくなっているのよね。その点子供の頃はその子のまんまが出ているからね」 「確かにそうかもしれませんね」 「この人は、そうねえ、幼い頃は大人しくて育てやすい子でしたよ。一人で静かに遊んでいたりしましたから。ただ。幼稚園に入ってからは他の子と比べて幼さが目立ってたし、集団での遊びは苦手でしたね。それに、一方的な会話が多かったりで、一時は発達障害じゃないかと心配して何か所も相談に行ったんですよ」  そんなことがあったなんて初めて知った。 「そうですか」 「結局は問題ないとうことで安心したんですけどね」 「良かったです」 「それがそうでもないんですよ。小学校高学年になった頃から、今度は人の言うことは聞かず、自分の思うがままに行動するようになりました」 「いわゆる反抗期ですか?」 「まあそうなんでしょうけど、この人の場合、ちょっとひどいところがあって、家庭内暴力とかに発展するのではないかと心配しました」 「それはどうなったのですか?」 「幸い、そっちには向かいませんでした。単なるワガママだったんですね」 「ふふふ」  久美がおかしそうに笑う。 「ちょっと、勘弁してよ」  私は思わずそう言った。 「今日は洗いざらい久美さんに話す約束なんだから、我慢しなさい」 「もう」 「それと、ちょっと困ったのは、何が原因だかわからないんですけど、ある時からひどくひねくれてしまったんですよ。考え方が歪んでいるというか」  それを聞いた久美が何度も頷いた後、言った。 「わかります」 「でしょう。困ったことに今でもそうなのよね」 「はい」  思い当たる節はあるので言い返せない。 「ごめんなさいね。嫌なところが残っていて」 「いえ、大丈夫です。ひょっとして勉強ができたんじゃないですか?」 「そうね。わりとできたほうですね」 「そうですよね。私のクラスにもいましたよ。頭のいい子の中にそういう子が」  二人で自分のことを分析されているのは居心地が良くない。 「二人で勝手に決めつけないでほしいんだけど」 「いいじゃないの。久美さんにあなたのすべてを知ってもらったほうが長い夫婦生活を送るのにいいでしょう」 「まあ、そうだけど…」 「ということで、この人は子供の頃、家族には生意気ぶっていたひねくれ者というわけ」 「なんかひどいなあ」  母親の言ったことはほぼ当たっている。それだけに、久美に会わせたことを後悔し始めていた。 「お母様っておもしろいですね。普通、これから嫁になる人間に自分の息子さんの欠点は言わないと思いますけど」 「いいんですよ。頭のいい久美さんのことだから、今私が言ったことなんかはとっくにお見通しのはずだから」 「いえいえ、そんな」 「でもね。この人、ほんとうは優しいんですよ」 「わかります」 「この人が確か中学二年生の時だったんですけど、雨の日に貧乏性の私が安いことで知られる家から遠いスーパーまで買い物に行って、たくさんの荷物を持って家に向かって歩いていたら、後ろからこの人が走って来て荷物を持ってくれたんですよ。あの時は嬉しかったですね」  その時のことは自分も明確に覚えている。当時の自分は反抗期真っ盛りの頃で、母親のことが大嫌いだったのだけど、冬のかなり寒い雨の中、スーパーのビニール袋にめいっぱい買い物の品物を入れ、それを持つ母の手が赤くなっているのを見た時にたまらなくなって、気づいたら走り寄っていた。  もちろん、自分にとっては母と心を合わせた数少ない思い出なので忘れられなかったが、、母親も明確に覚えてくれていたことが、素直に嬉しい。 「そんなことがあったんですね。優しいですね」 「ええ。この人はとんでもなく優しい人です」 『とんでもなく』という表現が隼人の心を射抜き、うろたえた。 「すごくわかります。で、お母様、最後に教えてください」 「はい。何を?」 「自分の子供をこういう優しい人に育てるために何が必要なのか」 「ああ、そういうことね。最後だからすごく真面目な話をしますね。久美さんはどうなのかわからないんだけど、わたし、独身時代は愛されたいというタイプだったの。人によっては、自分が好きになった人とじゃないと恋愛できないっていう人もいるでしょう。でも私は愛されることに幸せを感じるタイプだったの」  そこまで言って母親はちらっと私のほうを見た。 「こんな話、息子の前でするの恥ずかしいわね」 「聞いているこっちのほうが恥ずかしい」  私はたまらず言った。 「じゃあ耳でも塞いでて」  私はふざけて耳を塞ぐふりをするが、久美は真剣な顔のままだ。 「お母様、続けてください」 「そうね。まあ、そういうタイプだったんだけど、いざ私も結婚することになって、いろいろ考えたのね。結婚すれば、やがて子供も生まれる。つまり家族を持つことになった時、愛されることを願うより先に愛さなくちゃいけないって気づいたのね。気づくのが遅いって言われそうだけど。でも、そう考えた時に愛するってどういうことなんだろうって悩んじゃったわけ。さっぱりわからないわけよ、そんな時、偶然本屋で見つけた本の中に答えが書いてあったの。もう著者の名前も忘れちゃったんだけど、日本の大学で教えている外国人の人が書いたものだったの。その人は、愛するとは『止まれ、観よ、聴け』だって言うのよ」 「とまれ、みよ、きけ、ですか?」 「そう。止まれって言うのは、相手のために時間を止めるって言うこと。要するに、相手のためにどれだけ時間を使うかということ」 「ああ。なるほど。どのくらい愛しているかは、その人のために使う時間に比例するっていうことですね」 「ということになるわね。二番目の観るは、見学という字の見るではなくて、観察という字の観る。つまり、どれだけ相手のことに注意を払って観察しているかということ。母親が子供のちょっとした変化に気づくのは、その子のことを日頃から注意深く観察しているからだって言うの」 「ほんと、そうですね」 「そして最後が耳篇の聴く。英語で言うリスニングのことで、日本語で書けば傾聴という意味。同じきくでも門構えの聞くというのは、自分の都合のいいことだけを聞くという意味らしいの。それに対して耳篇の聴く、傾聴は、文字通り、相手に身体を傾けて、耳を十四にして心から聞くということ。そのぐらいしない相手の言っている本当のことはわからないって言うのね。ということで、止まって、観て、聴くことを実践して始めて相手を愛していると言えるというの」 「なんかすごいですね」 「そうね。でも、こう言ってくれるとわかりやすくて、自分でもできそうだって思ったわ。自分は結婚したらこれを実践しようと思えたのよ。そう思って今まで生きてきたわ」  母親の生き方の根本にそんな思考があったとは知らなかった。 「お母様、それが答えだったのですね。私もこれから隼人さんと結婚して家族を持ちます。お母様と同様に今教えていただいたことを実践していきたいと思います。ありがとうございます」 「感謝は私じゃなくてその先生に言ってほしいんだけどね」 「でも、どこの誰だかわからないんだろう」  大事なことを忘れてしまうところは母親らしい。私が茶々を入れたのが気に入らなかった母親は悪態をついた。 「失敗すると、こういう子が誕生するから気をつけてね、久美さん」 「お母様ったら」 4-8  結婚して10年。子供も二人できた。しかも、上が男で下が女。つまり、自分が育った伊藤家と同じ家族構成となっている。角のとれた幸せがひたひたと静かに溢れていた。毎日がゆっくりと過ぎて行く。すでに幸福とか不幸とかいった名前はもうどうでもよくなっていた。  今年小学5年生になる息子の佑人は、似てほしくないのに、自分にそっくりだ。顔はもちろん、そのひねくれた性格まで似ている。息子より3歳年下の娘の由佳のほうは妻に似て素直な子だった。  そんな子供達に妻は母から聞いた『止まれ、観よ、聴け』を実践しているようだった。だが、私によく似た息子はその愛情をちゃんと受け止めていない。まるで当時の自分を見ているようだ。  結婚生活が長くなるに従い、かつて自分の妹の明美が言っていた通り、妻は私の母親によく似てきたように思う。それは外見とか性格ではなく、生活の仕方が似ているのだ。つまり、物の考え方が似ているのだ。たとえば、肌が弱い娘の物の洗濯をする時には柔軟剤ではなく、お酢を使ったり、オリジナルの石鹸を作ったりというように、日々の生活をより便利に、より楽しくするために工夫している。自分にとっての母は、すでに『おばあちゃん』になっていて、妻を通じてしか母を感じなくなっていた。だが、思わぬところで、再び母の凄さを知ることになる。  息子が中学2年生になり、より扱いづらくなってきた頃、私の勤務する会社の経営状態が急激に悪化した。『今』の延長線上に見ていた未来図が突然意味を持たなくなってしまう。昇給は停止になり、ボーナスも無しということになった。その事実を妻に告げた時の、妻の反応が怖かった。だが、妻はあっけらかんとしていた。 「そう。でもそれはあなたの責任じゃないから、あなたがそんな申し訳なさそうな顔をする必要は全然ないわよ」  むしろ慰めてくれた妻に感謝だ。古来より、男より女のほうが度胸が据わっている。 「そうは言っても、これからしばらくは苦しい生活を強いることになってしまう」 「そうね。でも、できることはあるわ。私が働きに出ます」 「久美が?」 「もちろん、子供たちが学校に行っている間だけにするわ。あなたにも一切迷惑をかけないようにする」  強い決意のようなものが感じられる言い方で、とてもやめろとは言えなかった。 「大丈夫か?」  いろんな意味で言った。 「大丈夫よ。心配しないで」 「わかった」  翌日から妻は求職活動を始めた。しかし、仕事を離れてからかなりの時間が経っていることもあり苦戦しているようだったが、一週間後にブティックのパートの仕事を見つけてきた。 「明日から働けることになったから」 「そう。良かった。でも、あんまり無理はしないように」  自分にそんなことを言える資格があるとも思えなかったが、がんばり屋の妻の負担が大きくなることを心配した。 「あなたって、心配性ね。大丈夫、無理しない程度に頑張るから」 「了解」  後で知ったことだったが、子供にはそれ以前と変わらぬ『普通』『平凡』の生活を送らせたかったらしい。もちろん、パートの仕事の収入がそれほど多いわけでもなく、妻は支出を抑えるために自分の物は何一つ買わず、その分はすべて子供の分に回していたのだ。その上で、でき得る限りの節約を心掛けていた。しかし、一方でそのことが『惨め』に感じられないように創意工夫をしていたのだ。そんな妻の並々ならぬ努力を見て、『普通』『平凡』であるということがどれだけ尊いか教えられた。自分が子供の頃に母が賢明に節約してる姿を見て、みすぼらしいとか、惨めとか、恥ずかしいと思ったことが間違っていたことにようやく気づいた時だった。でも、母は特別なこととしてではなく、ごくごく当たり前にやっていた。そのことが母のすごさであった。 4-9  その日は朝から冷たい雨がしとしとと降っていた。  一時は倒産の危機にあった会社だったが、みんなの努力もあって、徐々にではあったが回復基調になっていた。  得意先を回る中で、大事な資料を自宅に置き忘れてきたことに気づき、仕事の合間を見て戻ることにした。  駅を降りた時には雨、風ともに強くなっていた。  近づいてくるバスが雨のせいでゆらゆら揺れて見える。  鞄から折り畳みの傘を取り出して広げるが、傘が小さいせいか横から雨が吹き込んでくる。自宅まで15分ほどの距離を早足で進んで行くと、自分の前に傘を差した親子の姿が目に入った。  妻と息子であった。  恐らく傘を持たずに出かけた息子を、パート帰りの妻が迎えに行ったのであろう。中学2年の息子はすでに十分大きくなっていたが、その息子に傘をさしかけている分、妻の身体は傘から半分以上外に出ていて冷たい雨に濡れてしまっている。  しなやかな髪が頬に張りついている。妻は自分が後ろにいることをわかっているかのように、その濡れた背中ですべてを語っていた。  状況は違うが、同じく自分が中学生の頃、偶然見つけた買い物帰りの母の背中と今自分の少し前にいる妻の背中が重なって見えた。息苦しいほど懐かしく、切なく、それでいて深くて温かな無償の愛に心が揺さぶられる。ふいに感情が波のようにやってきて、私は静まり返った路地で涙を流したまま立ち尽くしていた。
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