2・熱血老人と熱血女子高生

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2・熱血老人と熱血女子高生

 ゲンさんは九十二歳だそうで、老衰で亡くなったらしい。  乗ってきた駅は僕の家の隣町。と言っても、十分も歩けば辿り着くくらいの驚きの近さだ。  奥さんを二十年前に亡くしてからは大きな家で一人、暮らしていたという。  僕は昔に読んだ、「銀河鉄道の夜」を思い出した。  あれは確か――親友と一緒に銀河の旅をする話だったか。一方、こちらはただの地下鉄。しかも、ゲンさんとは初めて会った赤の他人だ。  繋がりなんてどこにもないのに、どうして急に思い出したんだろう。  ぼんやりと考えていると、話が先へと進んでいた。 「あの辺は、昔は子供が多くてな。面白い子がたっくさんいたんだ。勉強出来ないくせに妙なことはよく知ってたり。まったく、なんでそんなこと知ってるんだーってこっちがびっくりさせられる。まぁ、子供ってのは知らない間に成長してしまうもんでなぁ。そうそう、俺はよく子供らに遊びを教えてたんだ」 「へぇ~……」  ゲンさんは、自分の孫や故郷、近所に住んでいた子供たちの話をしてくれた。実に楽しそうに。  でも僕は、それにはあまり興味がなかった。なんとなく相槌を打ったり、頷いたりを繰り返しておく。  会話が続かないことに罪悪感を抱き始めていた僕だが、ゲンさんは気にする素振りもなく、延々と話し続けていた。  どのくらい時間が経ったのだろう。ふと、電車が停まる。  窓を覗くと、駅名が見えた。「広見駅」と書いてある。  僕が乗ったのは隣駅の甥浜だ。この近辺は隣町までの距離が短い。故に、電車では一分も満たないほど近いはずだ。それなのに、何故か随分と揺られていた気がする。  自転車がパンクしたような、空気の抜ける音と共にドアが開く。すると、僕たちのいる車両に数名の人が乗り込んできた。  なるほど。確かに死んだ人間しかいない。 「おっはよー、ゲンさん」  入ってきた幽霊の中に、手足が片方ずつ見えない女子高生が。彼女は元気よくこちらに向かって挨拶してきた。見覚えのある近所の県立高校の制服で、これまた活発そうに髪型はツインテールにしてある。  手の代わりに笑顔を振りまく彼女に、ゲンさんも笑顔で返した。 「おう、ハナコちゃん。おはよう」  ハナコ、という少女はそれから僕へと目線を向ける。あたかも、今気がついたかのように。 「あれ? 何? 新入り?」  ――新入り……  僕はその言葉に引っかかったが、何も言わずにいた。女の子と話すのは難解な数式を解くよりも難しい。ましてや年下の女子高生。無理。大嫌いな玉ねぎを生で食べる方がまだマシだ。  そうやって脳内で唸っている間に、ゲンさんが答えてくれる。 「違う違う。ちゃんと生きとるよ」  そのざっくりとした説明に、ハナコさんは「あら、そうなの」とつまらなさそうに呟く。 「でも、どうせ私たちのことは視えないんでしょ?」  彼女は軽やかに飛ぶと、からかうように僕の前までやって来た。そして、いきなり僕の頬に手を伸ばす。咄嗟のことで躱そうにも動けなかったので、その指はいとも簡単に触れてきた。  氷のように冷たい、でも柔らかな感触が伝わり、背筋に寒気が走った。 「ちょっと! 何、急に……!」  僕は持っていたリュックで顔の半分を隠しながら、ハナコさんをじっと睨む。  そんな反応に、彼女はピタリと制止していた。時が止まってしまったかのよう。やがて「きゃっ」と短い悲鳴を上げた。 「ご、ごごごごごめんなさいっ!」  素直に謝られる。 「まさか、視えてるとは思わなくて……」  しかし、こちらとしては幽霊に驚かれる方がショックだ。  まぁ、多くの霊は人の目に映らないのをいいことに、平気で触れたり近づいたりするもの。何度か経験はあるけれど、この反応は稀だ。  彼女は戸惑った様子で、僕とゲンさんを交互に見ていた。 「……えっと、なんで?」  ハナコさんの声には躊躇いがあった。この状況の意味が分からないのだろう。しかし、僕も説明出来るほど詳しくはないので首を捻る。  すると、ゲンさんがサラリと言った。 「に迷っとるんだろう」 「え?」  僕とハナコさんが同時に声を上げる。  それから、彼女はゲンさんの隣に腰を下ろして、老爺を真剣に見つめた。話の続きをせがむ子供のように。僕もその続きは聞いておきたいところ。  老爺の口が開くのをじっと黙って待つ。ゲンさんは柔らかい笑みを浮かべた。 「迷っとるから、こんなヘンテコな所でも迷ってしまう。俺も、昔に同じことがあったよ」 「え? 嘘、ゲンさんが?」 「おう。若い時になぁ。まだ七十の時か……」 「それ若いって言う?」  ハナコさんの冷やかしに、ゲンさんは眉を下げた。 「充分、若いぞ。まだ腰も曲がっとらんかったし。あの時の俺は、妻に先立たれてしまってな」  ゆっくりと言いながら、ふにゃりと顔の皺を緩ませて笑う。そして、その表情のままサラリと続けた。 「死のうと思った」  僕の胸の奥どこかで、チクチクと針で突き刺されるような痛みが走る。  なんだろう。  僕は別に、死のうと思ってここに来たわけじゃない……のに。 「そんな時に、この電車に乗ったんだよ」 「……そうだったの」  先ほどまでの元気さがすっかり吹き飛んだハナコさん。溌剌とはしていたが、彼女もやはり霊。その瞳はどこか虚ろだ。優しく笑うゲンさんだって同じ。 「死」という言葉の重さのせいで、彼らの姿がやはり僕とは別の何かなのだということが分かってしまう。  元は同じなのに、生きているか死んでいるかでこうも遠くの存在に思えてしまうのか。 「でもな、その時に妻に会ったんだ。そして言われた。『あんたには、まだまだやることがあるでしょう。まだ死んだら駄目。私が許しません』とな」  その言葉に、ハナコさんが小さく笑った。 「厳しい人だったんだ」 「そうさ。あれは昔から俺にああしろ、こうしろ、それはするな、これにしなさい、と口うるさくてな。よく怒られたもんだ」 「ゲンさん、子供みたい」  彼女の笑いがどんどん大きくなる。でも、この車両には僕達しかいないので、誰も咎めることはなかった。  ゲンさんも面白そうに懐かしむように笑うので、僕もつられて口元を緩めてしまう。 「男は歳がいくつだろうと子供のようなもんだよ。世話を焼かれて、怒られて、時にはぶつかり、その度に俺は疑問に思う。何故、(あいつ)と一緒になったのかと。その答えに気がついた頃には、あいつはもういなかった」 「その、答えって……」  思わず訊いていた。ハナコさんに目を向けられ、すぐさま逸らす。  ゲンさんは一息ついてから、また口を開いた。 「後悔がうんと教えてくれたよ。幸せってやつをな」  すると、その横でハナコさんが「あー」と何か思い当たるように天井を見上げた。 「妻を追いかけてしまうくらい、俺は後悔をしていたんだ。あぁ、自分はなんて幸せだったのだろう、と。ああやって喧嘩することすらも愛おしいのだと。それが分かると、また……甘えたくなる」 「ふうん?」  ハナコさんは何故か僕を見た。目が合ってしまい、すぐに逸らす。僕は話を戻そうと咳払いした。 「ええっと、それじゃあ、僕は何かに迷っているって言うんですか?」 「うん。じゃないの?」  またもや軽い返し。じゃないの、って……。  それからは、やはりゆっくりと二駅が過ぎた。何故かは分からないけれどこの電車、この空間だけは時間がスローに流れている気がする。  そのおかげか、僕もようやく二人に慣れてきていた。幽霊と会話しているなんて、とても不思議な気分だったが彼らの話は面白くて、気にする暇もなかった。 「君はもう少し、自分に自信を持ったらいいのに。俺なんか、そりゃあもう、自信に満ち溢れとったぞ」 「ゲンさんの場合、溢れすぎて周りに呆れられていたんじゃない?」 「そんなわけない。妻のことだって、俺の自信なけりゃゲット出来なかったんだぞ」 「あー、だろうね、分かる〜」  ハナコさんがケラケラ笑う。  二人の間に言葉を挟むくらいには、今の僕には遠慮がなくなっていたので、ボソボソと言った。 「自信なんて、今更出てきませんよ」  この諦め具合にすら溜息が出てくる。  今まで、散々周囲には陰口を叩かれ、除け者にされ、挙句、いない者扱いされてきたのだ。  そんな僕が、今更何を頑張れと言うのだ。変わるなんて不可能。簡単に出来るくらいなら、僕だけでなく世の中も全て上手くいっているはず。  すると、ゲンさんが僕の背中を思いっきり叩いた。とても九十歳を超えた老爺の出る力じゃない。  僕は「うわっ!」とここ一番の大きな悲鳴を上げた。冷たいのと痛いので、二度驚かされる。 「情けない! まだ若いし、生きとるんだから、自分が楽しいと思える人生を作るのが一番いいに決まっとるだろう?」  仰る通り。しかし、分かっていても実行できないのが人間だ。  それに、まだ色々と捨てきれない。抱えては拾ってしまうのが僕だ。 「うじうじするな! ほら、笑え!」 「えぇ?」  思わぬ助言に拍子抜けする。  顔を隠すように持っていたリュックが、いつの間にか膝の上で寝ていることも気づかずに。 「笑ったほうがいい。笑わんなら……」  そう怪しげな言葉を口走って、ゲンさんが僕の脇腹をつついた。  不意を突かれた僕は、寝かせていたリュックで抵抗を試みる。 「なんじゃ、笑かそうと思ったのにぃ……よし、ハナコちゃんもやれい」 「合点承知!」 「いや、待って! ちょっと、ストップ!」  僕は席を離れ、彼らの魔の手から逃れた。言いたいことは山ほどある。  今時の女子高生が「合点承知!」なんて言うか……違う、そっちじゃない。なんとも慣れない展開に、僕の脳内もどうやら混乱しているらしい。 「おいおい。逃げるなよ、山田くん」 「いや、あなたたち、体温低いし、地味に体すり抜けるし、かと思ったら普通に突ついてくるし……」  至極もっともな反論をすると、彼らは顔を見合わせて不思議そうな顔をした。  いや、その反応は絶対におかしいから。 「うーん。でもな、笑かそうとしただけじゃよ」 「余計なお世話です」  ふくれっ面のゲンさんに僕は素っ気なく返した。 「でも、私もゲンさんに賛成よ。山田さん、笑った方がいいのに」  ハナコさんまでがそう言い出す。もう、僕は何も言うことがないのでだんまりを決めた。 『――大川公園前、大川公園前、降り口は左側です』 「おや、そろそろお開きか。山田くん、着いたぞ」  アナウンスの放送で、真っ先にゲンさんが反応した。気の抜けた音を立ててドアが開いていく。  外は、無人ってだけで、景色に変わりはなかった。それでも、この空間に短時間でも触れていたわけで、この向こう側に元の場所があるのかと疑わしくなる。  足が躊躇った。 「大丈夫。戻れるさ。ほれ、扉が閉まるぞ」  僕の様子に、ゲンさんが追い立てるように言う。慌ててホームに飛び込み、電車の外へと踏み出す。振り向きざま、一瞬だけ、二人が笑顔で手を振っているのがチラリと見えた。  電車がゆっくりと動き出す。そして、そのスピードは徐々に増していき、あっという間に僕の視界から消えてしまった。  呆気ない別れで戸惑いは大きいのだが、辺りを見回してしばらく瞬きをするだけで、夢から覚めた気分になった。  辛そうな顔のサラリーマン、口を真一文に結んでいる年配の女性、スマホの画面ばかり見る高校生、大学生……そんな面々が目に映り、やはり僕の世界はここなんだと気づかされた。  狭いホームを、生きた人間が群がるように我先にと地上を目指している。  僕はしばらく立ち尽くしていた。  そして、戻って来れたことを実感すると、急に安堵が押し寄せ、そうだと思えば不安が追いかけてきて、僕の足首を掴んでいた。
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