空と蝉

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しかし、なぜ今日に戻ったのだろう。 今日は神社でお参りをして、ランチをするだけで夕方前には解散した。以降も千夏とちょくちょく出かけることになる。 僕達の関係に進展があったとか、贈り物をあげたりもらったりとか、これといって特別な日ではない。 千夏がトイレに行っている間、僕は端末をいじって待っていた。あの時は、女の子のトイレは長いなぁなんてくだらないことを考えていたっけ。 「お待たせ」 千夏がピンクの花柄のハンカチで手を拭きながら出てくる。 「さ、行こうか。ちょっとあちこちの店をまわってもいいかな?」 「何か買うの?」 「見るは法楽ってことわざ知らない? 欲しいものがあったら買えばいいのよ」 女性の買い物に付き合うというのは、千夏以外にいなかった。下着や化粧品など男性が行きにくいコーナーにも強引に連れ回されたことが多くあった。 思い出したが、顔に出すことはできないので心の中でひっそりと笑う。 目的の神社へと向かう道の途中に小さな駄菓子屋があった。坂の上にぽつんと建ち、深緑色の木々に囲まれている。そこには子どもが群がっておもちゃで遊んでいた。 「わぁ、なんか懐かしい」 千夏は駆け足でその駄菓子屋に向かう。僕も後に続いて坂をのぼると、遠くに海が見えた。ほんのりと潮の香りが風に乗ってここまで届いてくる。住み慣れた街よりもずっと落ち着く場所だった。 「夏希、見て。やったことあるでしょ?」 千夏はいつの間にかこまを買っていて、えいと声をあげてから紐を引いて地面の上でこまを回した。 それを見た子ども達は大喜びで飛び跳ねる。 「お姉ちゃんうまいね! 僕もやりたい!」 「いいよ! やり方教えてあげるね」 こまを回しただけで人の心を掴めるなんて、誰にもできることじゃない。 千夏はいつも周囲の人間を安らげる才能があった。屈託のない笑顔、やわらかい声、口調、仕草。だから友達も多くいたし、好意を寄せる異性も多かった。 そう、僕はうまく笑えないし、声は細々として、面白いことが一つもできない。友達は少ないし、好意を寄せる異性もいない。 共通する点は多い、けど、人間性としてはまったく反対だ。 僕は千夏が羨ましかった。 将来は保育士になりたがっていた彼女。夢を持っていない僕の方が、死ねば良かった。 「大人になるっていうのは伝染病みたいだね」 再び神社に向かい始めると、千夏はさっきとは裏腹に陰鬱そうな顔をした。 「どうした、急に」 僕はあまり重く受け取らず鼻で笑う。 「例えばね、傍にいる誰かが彼氏を作るとするじゃない?」 あらかじめ言われることがわかっていると大丈夫だが、当時は内心どきりとした。 「すると自分も焦って彼氏を作るのよ。今度は誰かが結婚する、なら自分も。今度は子どもが生まれる、なら自分も」 「自分もって、千夏のこと?」 「違うよ、あくまで例えだよ」 僕はほっとした。 「確かに伝染してるかも。誰かが年老いて死んだ、なら自分も。…いずれは死に焦ることだけはしたくないな」 「だからね、さっきの子達も人に影響されて焦った生き方をしないでほしいなって」 いつになく感傷的な千夏に、何て言えばいいのかわからず黙っていた。 夏希も、そんな生き方はしないで。 今ならなんとなくわかる。 この言葉の続きはこうだろう。 鳥居をくぐり抜け、神社へと続く小道の階段途中で僕達は立ち止まった。びゅうと強い風が通り抜けて蝉の鳴き声が止み、一時の静寂が訪れた。 千夏は何か言いたげで僕を見つめている。 「…行こうか」 僕はその視線に気づかないふりをして階段を再びのぼりはじめた。 この時、千夏が僕に伝えたいことは永遠に知る由がない。 恐れていたのかもしれない。 いつか、千夏の口から僕を否定するような、傍を離れてしまうような言葉が放たれたら。 すでに自分の心は決まっていた。この先彼女なしで生きていけないということは。 この時、来年の今頃に大切な人がいなくなるなんて微塵も想像してなかった。 もっとちゃんと向き合っておくべきだった。 都合のいいことだけ耳を傾けて、悪いことは耳を塞ぐ僕の身勝手さが彼女の思いを殺してしまった。 「ほら、見えてきた」 千夏の指さす方に立派な神社があった。石張参道を歩いて本坪鈴の前に立った。付近にはたくさんの絵馬がかけられ、あらゆる願いが書かれている。 「お願いするか」 僕は賽銭箱に10円玉を投げ込んだ。すると千夏が「あー!」と声をあげた。 「な、何?」 「だめだよ、10円は遠縁なんだから」 「とおえん?」 「縁が遠のいていくの。115円が縁起いいんだよ」 そして千夏は僕に100円玉と5円玉渡してきた。 「ほら、もう一回やって」 言われたとおりしぶしぶ投げる。しかし、二つの小銭は当たりどころが悪くて賽銭箱に入らず四方に飛んでいった。それを見て千夏は腹を抱えて笑った。 「夏祭りの輪投げのこと思い出しちゃった。相変わらず下手だね」 「余計なお世話」 少し機嫌を悪くして僕は手を二回叩いた後目を閉じてお祈りする。 もし神様がいたなら、賽銭箱に10円玉を入れてしまったことで僕達を遠縁にしてしまったのだろうか。 並んで祈る僕達の距離はほんの数センチなのに、物凄く離れているように感じた。
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