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例えば、誰もが100個の愛を持っていたとして。
その100個を1人へ全部渡してしまったら。
僕はこの先その1人しか愛せなくなるんじゃないだろうか。
顔中が涙でびっしょりと濡れていた。僕は現実と夢との境界線が曖昧なまま目を覚ました。
「千夏」
さっきまで目の前にいたはずの姿がどこにもない。
僕は屋内にいて、座布団を枕に板の間で横になっていた。
囲炉裏の向こうに、胡座をかいている祖父がいた。僕はゆっくり起き上がり辺りを見た。
「おじいちゃん、千夏は…」
「そうか、お前の大切な人は千夏というのか。良い名前だな」
祖父は切なそうな顔をして頷いた。僕は悟った。やっぱり、夢だったのか。
風に揺れた髪、長いまつ毛、やわらかい声、眩しいくらいの笑顔。彼女の全てが鮮明に蘇る。
視界が滲み出して、次々と涙が落ちていく。
「いつの間にか、寝ていたみたいです。夢に千夏っていう僕の大切な人が出てきました。ごめん、おじいちゃん。久しぶりに会ったのに、泣いてしまって」
祖父は首を横に振る。
「夢じゃない、お前は本当に過去に行ったんだ」
そう言って祖父は数珠を見せてくれた。数珠は先程よりも黒みが増し、輝きが一切なくなっていた。
「これは代々伝わってきた代物でな、念じて擦り鳴らすと過去へ行ける。ただ、100年に1度しかできない。また過去へ行きたかったら100年後」
祖父は曲がった腰をぐっと伸ばしながら立ち上がり、数珠をそっとタンスの引き出しへしまった。
「死んだ人がどうしても伝えたいことを伝え損なった時へ戻るんだよ。千夏って子は、お前に何か言ってなかったか?」
もし私が突然いなくなっても、焦らず生きてね。夏希。
千夏の声が耳の奥で再生される。
身体が弱く、いつどうなってしまうのかわからない自分のことよりも僕の心配をする優しい人。その人がもうこの世界にはいないのだと改めて知らされて、僕は手で顔を覆って泣き叫ぶしかなかった。
「時間は、機会は…。たくさんあったんです。…なのに僕は、先延ばしにして…。何も…言えずに、何もしてやれなかった…。もらってばかりで、何も…」
途切れ途切れでしゃくりあげた声を祖父はしっかりと受け止めてくれた。
「夏希、見ろ」
祖父は写真立てを僕の傍に置いて見せた。白黒写真に若い男女が写っている。男性には面影があった。
「これは、おじいちゃん?」
「そうだ、隣にいるのは生涯で1番大切な人だ」
「…おばあちゃん?」
「ああ」
「数珠を使わなかったのは、おじいちゃんが過去に戻るためにとっておいたんじゃないですか? それを、僕のために使って…」
再び使えるようになるのは100年後。もう祖父が使うことはできない。
「いいんだ、俺はあの世に言ってあいつの想いを聞くから」
「そんな、僕なんかのために」
「空蝉の殻は木ごとにとどむれどたまのゆくへを見ぬぞかなしき」
突然、祖父は和歌を読んだ。どういう意味なのかわからず、僕は顔をあげる。
「確かにいたのに今はいない。死んだ人はどこに行ってしまったのかはわからないが、いつか同じ場所に行けるだろう。それまでお前はもらった想いを大事にしろ。それはその人がいた証明になるからな」
長い白髪の前髪が目元を隠していたが、祖父の頬に涙が一筋流れていた。
祖父も、大切な人から聞きそびれた想いがある。それを聞く権利を僕に渡してしまったため、生きているうちに聞くことができなくなった。
抜け殻になっていた僕の背中を押してくれた。
それに答えるために、僕は千夏からもらった想いを抱えて生きていこうと決めた。
千夏が、生きていた証になるから。
頬には彼女に触れられた感触が残る。
「夏希」
目を閉じればあの愛しい声が僕を呼ぶ。
空蝉、この世に生きている人。
これから僕は、夏を何度も迎える。そのたびに今日のことを思い出すだろう。
空へと飛び立つ蝉の羽音が聞こえてきた。
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