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夕と陽
「夕…入っていい?」
「ええよ、どうぞ」
俺は夕の部屋のドアをノックした。
部屋の中から漂ういつもの白檀の香り。それにわずかに混じる、石鹸の匂い。夕は濡れ髪をタオルで押さえながら、ひょいと顔を出した。
「ごめん、風呂上がり?」
「ん、でも大丈夫や。どうしたん?」
「これ」
客に刺された夕の傷が治り、明日から「臥待月」は通常営業に戻る。
俺は傷が完治するまで、夕の部屋を訪れるのを控えた。仕事復帰を第一に考えていた夕の気持ちを邪魔したくなかったからだ。
が、仕事のことを考えなくていい最後の夜を夕と過ごしたくて、二代目のオーナー、晴登さんが店の再開祝いに送って下さったワインを口実にした。俺はふっくらとした形のボトルを夕の目の前にかざして見せた。
「一緒に飲もうと思って。もう飲んでも傷は大丈夫だよね」
「せやね。ありがたく頂こか」
夕は微笑んで、キャビネットからグラスを二つ取り出した。ブルーの切子は、夕のお気に入り。
葡萄色が照明に照らされて美しい。フルーティな香りを楽しみながら、俺と夕はグラスを合わせた。
ストレスですっかり痩せてしまった夕は、最近やっと元通りの体つきを取り戻した。
「臥待月」の業務は体力を要する。一日一組しか受け付けない代わりに、翌朝客が宿を後にするまで、極上のもてなしを提供しなければならない。
体力、気力ともに夕が元に戻るまでに、半年を要した。
「明日からだね。予約が殺到して大変だったよ」
「それは陽も同じやろ?」
「…俺を指名する数の倍だよ?」
「年の功やって。休んだ分、喜んでいただかないとあかんね」
「年の功って……とにかく無理はしないで。しばらくの間、俺ここに泊まるから。しんどい時は言って」
以前なら、こういうとき夕は俺の申し出を丁重に断った。しかし今、俺の目の前で夕は嬉しそうにうなづく。
この変化が俺には嬉しかった。
ふたりの間にあった壁は今はもう見えない。
夕の頬がほんのり色づいている。
客の前では酒を飲んでも酔うことはない。酒に強いだけではなく、コントロールする術を持っていると言っていた。が、今は気楽にワインと会話を楽しんでいるように見えた。
「美味しくて飲み過ぎてしまいそうやな…このぐらいにしておくわ」
夕はテーブルに手をついて立ち上がった。思わず心配で俺も立ち上がる。
ふらつくことはなかったが、夕はふわふわとした足取りでキッチンへ向かう。俺は夕の背中に手を添えて歩いた。
「陽…」
グラスをシンクに戻すと、夕は振り向かずに俺を呼んだ。
その背中が言いたいことを察して、俺は夕を後ろから抱きしめた。
「夕……どうしたの」
「……不安で……前のように僕、仕事できるやろか」
「大丈夫だよ。夕は…俺を教えてくれた人だ。出来るよ」
「だといいんやけど……」
俺は夕の首筋にキスをした。それに応えるように夕が顔だけ振り返った。
唇を合わせると、夕は瞼を閉じた。
若い絵描きの客の前で、夕を抱いたことがある。それは飽くまでも仕事だったが、その時、夕は夢うつつに俺の名を呼んだ。そのことが、悩んでいた俺の心を後押ししてくれた。
怪我を乗り越えた夕に、もう一度自分の想いを伝えるなら今だと、直感が伝えていた。
俺は言った。
「俺が……ついてるから、夕」
「あき…」
夕が振り返り、俺を見上げた。ごく自然にお互いの顔が近づき、もう一度唇が重なった。細い腰を抱き寄せると、遠慮がちに夕は俺の背中に腕を回した。
「……行こうか」
「ん……」
俺は夕を抱き上げ、寝室へ向かった。夕は黙って、俺の胸に顔を寄せた。
ベッドに夕を横たえさせると、長い黒髪が広がった。一房をすくいあげ、キスをすると、白檀の香りがする。
夕の手が伸びてきて、俺の頬に触れた。掌が熱い。
「あき……僕な」
「うん?」
「どないしたらいいか……わからへんのやけど」
「…何が?」
「ずっと…お客様としか……したことないから…」
夕は目を逸らした。そして俺と目を合わせないまま、言った。
「…好いたひとに抱かれたこと、ないから…」
出来るだけ優しく、傷に障らないように、抱きたいと思っていたのに。
気が付いたら俺は夕に覆い被さって、めちゃめちゃにキスをしていた。
「あ…きっ、んっ……待っ…」
「……そんなこと言われたら、セーブきかない」
着物の衿合わせに手を差し込む。夕の心臓の音が、掌に伝わる。
おそらく仕事の時にはこんな風に激しく脈打ったりしない。素の夕の反応が、俺を急かす。
着物を大きく左右に開く。薄桃色の乳首にそっと口づけると、夕の口からため息が漏れた。舌で転がすと、びくん、と上半身が跳ねる。
「……傷、痛くない?…嫌なことあったら、言って」
左の腰の傷。
反らせた背中の隙間に手を入れてそっと触れる。うすく盛り上がった縫われた痕。痛々しい傷に、薄れたはずの怒りが蘇る。このきれいな身体に傷がつくなんて。
「大丈夫…やから…」
俺の心を見透かしたように夕が呟く。愛おしさが増していく。
帯に手をかけ、もどかしい思いを隠して結び目をほどいた。裾を開くと、閉じた両足に守られて、夕の中心は甘く勃ちあがりかけていた。
そこに触れながら唇を塞ぐと、夕の舌が俺の舌に絡みついてきた。
俺の首に腕を回し、下半身の疼きに身体を震わせる。
客を翻弄する姿からは想像できない夕の姿。
愛する相手に抱かれたことのない夕。
どんなに客を虜にしても、彼自身の心が満たされることはなかったはずだ。
吐息を漏らす夕の顔を見下ろしながら、後ろに手を伸ばす。指の先が触れただけで、夕は身じろぎして声をあげた。俺の指の先が、夕の中につぷりと飲み込まれる。
「あきっ……んっ」
「嫌?」
「嫌…やない……」
「どうしてほしい?」
「…陽だけの…ものに……なりたい」
客を相手にするときはどんな要望にも応える夕。無理を強いられることもよくあることだ。
自分の意志など、心の奥深くに押し隠して。
そんな夕が、俺に身をゆだねている。
俺は出来る限りの優しさで、夕を抱いた。
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