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「なるほど。ラブホテルの中ってこんな感じなのね」
大庭梓は、のんびりと落ち着いた口調で首を巡らせた。
少なくとも声色からは、焦りや戸惑いなどはまったく伺えない。
墨汁をたっぷりと吸わせた筆が、一息に振り下ろされたかのように、長い黒髪が宙に広がった。
梓の白くて細い手が髪を払い上げたのだ。
そのまま、ベットの端に形の良い臀を下ろし、
「ねぇ、天垣内、わたしたち、今夜ここに泊まりましょうか」
目の前で面食らっている男、天垣内腕に声をかけた。
腕は、大きく息を吐き出すと、鮮やかに染め上げた金髪の中に指を入れた。
「あのねぇ、あずちゃん」
そのまま前髪を搔き上げる。
人差し指にROYAL ORDERの銀が鈍く光っていた。
よく見ると、他の指にもGUCCIやBVLGARIといったハイ・ブランドのリングが並び、首元には鎖を模したネックレスも付いている。
「それ、俺サマのコト、誘ってんの?」
前髪を搔き上げた状態で、腕はどっかと梓のむかいに腰掛け、挑むような目付きをした。
切れ長の一重に、長い睫毛。かつて、彼の『彼女だ』と騒ぎ立てる女性は十指に余った。
今はひとりもいない。腕がすべてを捨てて『落とす』と定めた最難関は、目の前にいる。
ウォレットチェーンがチャリ、と音を立てた。
梓は、唇だけを緩め、
「あら。机に座るなんて。お里が知れるわね」
ふっと吐息を吐いた。
意図的か無意識か、白くて長い脚も組み替える。ふわとプリーツスカートの襞が捲れ、一瞬、ややもすれば聖域が見えそうな角度になる。
並のオトコならば、この時点で飛びつき、梓がポケットに忍ばせた『獲物』の餌食となっていたことだろう。
現に梓は『狩り』をはじめてから今日に至るまで、ほぼ初動で敵を仕留めてきていた。
敵――即ち、雄を。
数年前に、幼い妹を見ず知らずの雄に蹂躙された末、惨殺された過去を持つ梓は、それ以来、雄を生理的に憎むようになった。
1ヶ月前、同じように『狩り』をしようとして失敗し、報復を覚悟した時、梓は天垣内腕に出会った。
有り体に言えば『助けてもらった』だが、
おそらく互いが互いに出会った時に気づいたのである。
『こいつは同類だ』と。
「むこうにも何か譲れないものがある」そう悟った梓は、この1ヶ月、腕と行動をともにしていた。
はっきり言って天垣内腕は、大庭梓にとって『最大級に警戒し、直ちに排除すべきレベル』の敵である。
それでも、この男といることを選んだのは、ひとつに『彼が梓を助けた理由』にあった。
その時のことを思い出し、梓は少し笑んだ。
一方腕は、見え見えの罠を前にして、唇の端を吊り上げた。
なるほどね。まぁぴょんと飛びつく莫迦ならばかすか釣れるか。あずちゃんかわいいし――。
「よく知りもしない異性をラブホに連れ込むほうも、相当お里が知れると思うけど?」
心の声はおくびにも出さず、ポーカーフェイスを装った腕に、梓は少しむっとしたように口を尖らせた。
「よく知りもしないだなんて、今更ね。わたしたち、お互いのことをうんと知っているじゃない。それにとても、仲良しだわ」
梓は時々、人間とは思えない程に妖艶な貌をする。まるで壮絶な過去が彼女から『ひと』を奪い、何か別のものに食まれたかのような表情を。
ブラフだ。思いながら腕は、5つ下の少女に付き合うことにした。
腕は立ち上がると、梓の隣に腰掛け直す。心做しか梓が腕に肩を寄せた。
「まぁね。あずちゃんが俺サマのことをうんと気にかけていることなら、知ってる」
腕が梓の手に己の手を重ねる。
「ええ。気にかけているわ。とても」
梓がそれを握り返す。
「だけど、悲しいかな、愛してはくれていない」
腕は梓にしなだれかかる。
「それはお互い様でしょう」
梓は抵抗なく腕の重さを受け止め、ベッドの上に倒れ込んだ。
「とんでもない。俺サマはキミを愛している」
腕の指に嵌められたリングが梓の肩口に触れた。ベッドは一度、ぎしりとスプリングを軋ませたきり、沈黙している。
「……わたしがそれに、応えたら?」
シーツの上に投げ出されていた梓の手が伸びて、腕の頬に触れた。
腕はその手を取ると、スプリングを軋ませた。目を薄く閉じる梓に近づき、腕も目を閉じた。
洗いたてのシャンプーの香りが深く鼻腔を突いた。握る手のやわらかさも、耳朶を打つ呼吸のリズムも、温かくて湿った吐息も、何もかもが最高だ。
――ああ、いい。やっぱいい。キミの信頼を勝ち取りたい。勝ち取った末にどろどろに心を溶かして、再起不能にまで堕とした末に、廃棄したい。
きっと、ほかの女とは違うだろう。
ああ、もう無理だ。俺にはもう、大庭梓、あんたしかいないんだ。
あの日、あんたの『狩り』に偶然出くわした時から、俺はもうあんたしか見えてないんだ。
俺の渇きを、癒してくれ。
腕は勃起していた。敵の一物が膨張しているのを感じた梓は、唇に小さく笑みを浮かべた。嘲るような笑みだ。
勝った……!
梓は己の勝利を確信し、ますます唇を緩めた。しかし、唇が塞がれる気配はない。
どうした? 唇はすぐそこだぞ? 思いながら、そっと目を開くと、
眼前で腕が歯を剥き、笑っていた。
呆然とした。梓は強く激しい嫌悪を感じ、表情の一切を消すと、唇を引き締めた。
「……」
「ところで、俺サマがここで負けた場合、そのポケットに突っ込んでいる手からスタンガンが出てきて、頚椎あたりでばちりと弾けるのかな?」
腕は挑発するような声をあげると、梓の手を離した。
梓がポケットから手を出す。
フォールディングナイフが握られていた。
慣れた手つきで弾くと、ナイフはパチンと短い破裂音を響かせて、鈍い煌めきを顕にした。
ロゴから察するに、BUCK。
切れ味では他の追随を許さないだろう。
しかし、と思う。
このジョシコーセーは、スタンガンだけではなく、折りたたみナイフまで持っているのか、と。
「うわ。こっわ。俺サマ、このままちゅーしてたら、ぶすーっされて、あずちゃんの今夜のご飯になってたってワケね。おお、こわぁ」
腕が大袈裟なほどに両手で肩を抱いた。
梓が小さく――もはやポーズだけで――舌を打つ。
「第1ラウンド、ひとまずこれは、俺サマの勝ちと見なしても?」
いつの間にかベッドに肘をついて横になっていた腕が不敵に笑った。
梓は天を仰いだ。嘆くでもなく、悲しむでもなく、悔しがるでもなく、ほとんど無の状態で。
ぼんやりと見つめる白い天井には、点々と黒いシミが見受けられた。
黒いシミ。見ていると、無性に腹が立ってきた。
きっとこの世界には、腐るほどの消え去るべき黒いシミが存在している。
虚空に似た瞳を、一度強く瞬くと、梓は勢いよく立ち上がった。
スプリングが思い切り軋んで、腕がバランスを崩す。
「わたし、用事を思い出したわ」
ベッドに倒れ伏した腕を見下ろし、梓はスカートの裾を払った。
「あれ? 今夜ここに泊まるんじゃなかったの?」
「思い出したの。今、急に」
「……」
負けた、と認めたくないんだな。
思った腕は、内心己の完全勝利を喜びながら、ベッドから飛び降りた。
「んじゃ、俺サマもお供しましょうかね」
「……好きになさい」
梓は踵を返すと、振り返ることなく部屋をあとにした。
【了】
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