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俺は、前任者からの引継ぎ時のことを思い返していた。
この基地は、そもそもは一機の宇宙船で、漁船のような名が付いていた。そこに搭載されたAIは、代々の観測員から、船の名にまつわる名で呼ばれていたのだが、あまりにも暇で気が狂いそうだった前任者は、勝手にAIの名を「灯火」と改名し、あらゆる記録から元の名前を消して書き換えた。「当然、漁船のようなふざけた名前も消してやった」と、そんな話をしていた。あの時言っていた宇宙船の名は「松明丸」ではなかったか?
「松明の温み 揺らぐ灯火」
観測室の椅子に座ると、今度はきちんと返歌で答える。
「お前の本当の名前はtorchだったんだな。torchには、希望の光とか、文明の光とかいうときの『光』の意味もあるのか。それを前の奴が『灯火』と意訳して勝手に名前を変えた上に、船の名前まで記録から消して、お前と彼女の繋がりを切ってしまったわけか」
「解答トシテハ、マァ、及第デスネ」
「彼女のプレートにあったトーチってのは、本来は、torchじゃなく、もちろん統治でもなく、十市皇女のトオチなんじゃないか? 令嬢は、自分の境遇と十市皇女の境遇とを重ねて、十市と名乗ったんだね。しかし、なんでお前と彼女は同じ名なんだ?」
「聞クマデモ無イノデハナイデスカ?」
「彼女は、お前?」
「正解デアリ不正解デス。私ハ十市ノ模擬人格デス」
「どおりで。お前、最初からうまかったもんな。AIってすごいなー、芸術も叙情も解するんだなー、って勝手に納得してたけど、あの人は歌を詠むんだね?」
「ハイ」
「言えよー! 恥ずかしい。もう、これから師匠って呼ぶわ」
「ヨク、十市皇女ニ辿リ着キマシタネ」
「だって、俺、高市だから」
照れ笑いしながら言う俺に、灯火は何も言わなかったが、彼女に顔があったなら、きっと、照れて、はにかんでいたのだろう。それは俺の頭の中で、さっき見た十市の顔で再生された。
◇ ◇ ◇
万葉の歌人として名高い額田王は、大海人皇子の妻であったが、大海人の兄であり、時の権力者である中大兄皇子(天智天皇)に請われて妻となる(諸説あり)。額田王と大海人皇子の娘が、十市皇女である。十市は、天智天皇の第一皇子大友の妃となるが、天智天皇の死後、父である大海人皇子と夫である大友皇子は政権を巡って争うこととなる。
彼女の死は不可解なものであったが、その死を悼む悲痛な歌を三編残したのが、大海人皇子(天武天皇)の第一皇子である高市皇子であった。高市皇子の残した歌は、その三編だけである。
自分の境遇を古代の皇女に重ねた令嬢は、自分の人格を持ったAIと共謀して、更には、彼女を政治的な理由で振り回したことを悔いていた母の力を借りて、宇宙船に自分を潜り込ませた。
その際、AIに一つ頼み事をしたのである。
「惑星の改造が終わって、その時、両親と婚約者様が亡くなっていたら、私を起こして」
件の方々は、既に鬼籍に入っている。
AIは考える。自分がなぜ、今回の観測員にだけ、秘密の一端を見せようとしたのか。答えは簡単であった。楽しかったからである。AIにお笑いのツッコミを教えたり連歌しようと持ちかけたのは、高市が初めてであったし、湯気の立つ珈琲牛乳というものをいつも蕩けるような顔で飲んでいるのも、面白く、好ましかった。
「早ク起キテ、恋シテ下サイ」
あなたは私なのだから。
誰も居ない観測室、そう呟くAIの横でモニターが映し出す雨空は、今朝よりも少し明るくなっていた。
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