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ざわめきを閉じ込めた会場を出ると、しんとした空気に耳が馴染むまで、館内のささやかなBGMが耳に入ってこなかった。
屋内の喫煙所を素通りして、宮部君は二階に上がる。階段の途中で、彼が歩調を合わせてくれているのに気付いて、狡いな、と思った。
二階のテラスに出ると、一月の冷たい夜風が、火照った頬を刺した。新月の、暗い夜空だった。
「煙、大丈夫? 駄目だったら離れるけど」
「大丈夫」
本当は、あんまり得意ではなかった。でも喘息とかそういうのではないので、我慢すれば良い程度だ。せっかく二人で抜け出してきたのだから、離れるのは少し嫌だった。
宮部君が煙草に火を点けて、吸う。吐き出した白い息が、煙なのか冬の息なのかは分からなかった。そのセンチメンタルを閉じ込めたみたいなワンシーンを、思わず見つめる。
「あんまり近くで吸う人、いない?」
「……うん。あんまり」
「そっか。百田さんは、こーゆーのに手を出しちゃ駄目だよ」
「吸ってる人が云うの?」
「吸ってる人は皆云うよ。体に毒なのは分かってる。分かってるから、人には勧めない。でも吸い始めたら受け入れちゃう。都合が良いんだ、喫煙者って」
宮部君は煙草を咥えたまま、ポケットを探った。傍の自販機に向かいながら、財布と、ポケット灰皿を取り出す。
「何か飲む?」
「あ、ううん。だったら財布取って来るし」
「こういう時は、男に恰好つけさせるものですよ。ま、飲み物くらいじゃつかないけどね。ホントはスマートに買って渡せれば良いんだけどね、好みを聞かずに勝手に飲み物を選ぶのって、あんまり好きじゃなくてさ」
「それはバーテンダー的な?」
「そう。バーテンダー的な」
確かに、席を立ってる間に勝手に何かを注文されているのは、ちょっと嫌だ。
宮部君はへへ、と笑いながら、チャリン、と五百円玉を入れてしまう。おいでおいで、と云うので、もちろんそこまでされて遠慮することも出来ず、私はドキドキしながら宮部君に近付く。
煙草の匂い。甘い香水の匂い。お酒の匂い。夜の大人の匂い。すぐ後ろに、少女漫画みたいな距離に、宮部君が立ってる。顔が熱い。悩む振りをして、どうにか冷たい空気に熱を逃がそうとする。
「ホントはお茶とかが良いらしいんだけどね、そーゆーのって野暮だよね。あ、これ新発売のやつかな。田舎にもあるんだね、ちゃんと。失礼かもしんないけど」
「そうだね」
迷って、私はポカリのボタンを押す。がこん、と落ちてきたペットボトルを取って、そそくさと退いてしまってから、ちょっと名残惜しい気持ちになった。でも、あんまり悩んでいるのも変だ。心臓も持たない。
赤い顔は、気付かれてない。宮部君はコーンポタージュを押して、小銭と缶を取り出しながら、あちち、って大して熱くもなさそうに笑う。
私はいただきます、と呟いて、冷たいポカリを二口ほど喉に流し込んだ。はーい、と返事をした宮部君は、缶で指先を温めながら、煙草を吸っていた。
ひと呼吸、ふた呼吸、それくらいの短い沈黙。私は意味もなくポカリのキャップをゆっくり閉めながら、必死に話題を探す。
「宮部君は、」
「うん?」
「今、どこにいるんだっけ」
「博多だよ」
「近いんだ。結構」
「うん。結構。今度遊びにおいでよ」
「うん。って、ことは、福岡か。私、太宰府行ってみたくて」
「いーね。あそこ、雰囲気の良い喫茶店あるんだよ。コーヒーが美味しいんだ。案内するよ」
「うん。それは、凄い、楽しみ」
社交辞令でも。本当は行く気なんてなくても。デートを取りつけるみたいな会話が、甘くて、下がった熱を上げていく。
「その時はミコトちゃんも誘おっか。あの子も博多にいてさ」
その言葉で、上がった熱が、ぎゅん、と凍り付いた。
「この前ね、今の学校の連中と飲み会した時、たまたま再会してさ。最初お互い全然覚えてなくて、酔いが回って会話がなくなった頃に、出身地の話になって。一緒じゃん、もしかして、ってなって。ミコトちゃん、昔は王子様みたいな子だったし、綺麗になってたから、吃驚しちゃって」
「そっか。運命みたいで、ロマンチックだね」
酔いが、口を動かす。運命。運命か。私のそれは、ベートーヴェンの運命みたいな、暴力的で悲劇的な音だ。
宮部君がこちらに顔を向ける。私は慌てて、笑顔を作る。
「……そう。ならそれは、とても、悲劇的だ」
「え?」
宮部君は少しだけ目を開いて、私を見ていた。でもそれは聞いてはいけないひとり言みたいな言葉で、私は一瞬、私が透明人間になったような錯覚を覚える。
自販機の光に照らされた、紫色の瞳。複雑な色。赤と青。どうしようもない恋心と、それは何? 諦めとか、拒否とか、寂しさ、みたいな。吸い込まれそうなそれが、本当にカラーコンタクトなのか、分からなくなった。埋め込まれた色みたいで。もう一生落ちない色みたいで。
短くなった煙草を、最後に一口吸って、宮部君は手元の灰皿に押し込む。それをコートのポケットにしまって、それから思い出したようにコーンポタージュの缶を開けて、ぐっと一気に飲み干す。
「寒くなってきたし、ぼちぼち戻ろっか」
ひょい、と宮部君がゴミ箱に投げた缶が、かこん、と小気味いい音を立てた。それが、魔法の解ける音だと思った。
時間だ。終わりなんだ。宮部君と向き合える、話せる時間。夢みたいな時間。
「ヤマト君は」
待って。待って。もうちょっとで良いから。私がほんの少しだけ勇気を出す時間、待って。
一二時の鐘が鳴り終わるまでの、短い時間だけで良いから。
うん、と宮部君は、喉の奥から、促すような甘い声を出す。動かない私を、黙って待ってくれる。
「……好きな人は、いるの?」
「うん。たくさんいる。大切な人は、たくさん。恋人になりたい人も、一人だけ。いるよ」
でも、と宮部君は続ける。
「なれないんだ。僕は、弱虫だから。……ホント、二十歳っていうのは、思ったよりも子供だよね。何も変わってない。権利と義務と、ほんの少しの自由だけ貰った、子供のまま」
「なれるよ。ヤマト君はカッコいいよ。お洒落になって、だから自信を持って良いと思う」
それが、私なら。簡単に頷いてみせるから。
だから云ってよ。お願いだから。少女漫画みたいに。ぱっとしない、冴えない女の子を、好きだよって。
「なれないんだ。どうしても」
声は、穏やかに。でも、きっぱりと宮部君は云った。
「……ありがとう。でもやっぱり、なれないんだよ。僕は、弱くても、女の子には優しくいたいから」
宮部君は、右手の甲を撫でる。そこにある三角形のホクロを思い出す。
「ごめん、女々しかったね。でも嬉しいな、百田さんにそう云ってもらえて」
宮部君がまた、目を閉じる。紫色が隠れる。
しゅわ、とメレンゲを噛み砕いたみたいに、淡い希望が萎んでいくのを感じた。
私じゃない。ガラスの靴を履いているのは私じゃない。王子様が一目惚れするような、綺麗な、可愛い人は、私じゃない。
戻ろう、と云う宮部君に、お手洗いに行ってくるから、と嘘を吐いた。テラスで独りになったのを確認して、私は冷たいペットボトルを握って、しゃがみ込んだ。
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