雪を溶く熱

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 物音ひとつ聞こえない静かな夜だった。まるで音にも作法があるのではないかと思わせる、静寂という衣を纏った闇夜の静かな衣擦れの音だけが聞こえてくるような、そんな夜だ。  窓に近寄ると、カーテンの隙間から氷のように冷たい空気が爪先をしんしんと冷やす。  私はそっとカーテンに指をかけた。いつの間にか降り出した雪が隣家の屋根や家の前を走る道路に積もっていた。  ——どおりで静かなはずだ。  積り始めた真っ白な雪に、街中の音が吸い込まれていたのだろう。  私は寒さに身震いをし、カーテンを閉めてベッドに潜り込んだ。  そのタイミングを見計らうように、今カーテンを閉めたばかりの窓に何かが当たるような、小さな薄っぺらい音が聞こえた。  私はもう一度窓際に向かい、カーテンを小さく開けて外を覗いた。  さっきまで誰もいなかった目の前の道路に、雪のぼんやりとした灯りに照らされた人影が私の部屋を見上げているのが見えた。  ——秋人!  そこには真っ暗な闇の中でも私にならわかる、彼の姿があった。  秋人は私が覗いたことに気がつくと、窓の近くにある一本の木にするすると登り始めた。  それはまるでジュリエットに会いにきたロミオのようであり、ひとつだけ違うことがあるとすれば、私と秋人が幼稚園から今まで、シェークスピアの悲劇のような恋愛関係になったことなど一度もないということだ。  ——秋人、残念! 「どしたの、秋人。こんな寒い日に。バカでも風邪引くよ」  雪が積もる冷たい木の枝に捕まる秋人に、一応女らしい優しさのかけらだけは与えておく。 「美冬、100円返せ」  そう言いながら、秋人は左手を伸ばした。それでも私と秋人の距離は3メートル以上ある。 「バカなの」 「今、返さないと美冬は一生後悔するぞ」 「そんなんせんわ。覚えてもいないもん」 「俺が凍死してもか」 「は? そもそも、なんでこんな夜にそんなとこまで登って100円なのさ」 「そこを通りがかったとき寒くて缶コーヒーを買おうとしたらさ、ポケットに金が30円しかない」 「で?」 「小学校からの帰り道、ジュース奢っただろ。今ここで恩を返せ」 「バカなの? あれはあんたが勝手に奢ってくれたんじゃん」 「美冬には恩とか義理とかないのか」 「ないわ、そんなもん。中学に入った途端に話かけもしなくなったくせに、何を突然ワープしてんのよ」 「男には男の都合ってもんがあるんだよ」 「どんな都合よ」 「幼馴染の可愛い女なんかとチャラチャラしとったらハブられる、厳しい男の世界があるんじゃ」 「おっ、今可愛い女つったか?」 「そんなことどうでもええわ。手がかじかんできた。美冬という女は恩を返すのか返さんのかどっちじゃ」 「知らん。一生返さん女じゃ、覚えとけ」  秋人は小さくうなずく。 「覚えとくよ。なあ、俺、来週卒業式が終わったら、おらんくなる」  突然話が変わった。  雪はまだしんしんと降り続いていた。  繰り返し誤解のないよう言っておくが、私と秋人が恋愛関係になったことなど一度もない。 「どこの大学?」  高校が別だったから秋人の進路を聞いたことはない。ただ、秋人は中学でも成績がよかったから、大学に行くのは既定路線だと思っていた。 「いや、行かない」  だからそんな答え、想像の斜め上だった。 「大学じゃないならどこに行くの?」 「お袋と九州の爺ちゃんちに帰って、それから就職探す」 「あんたんとこのおじちゃんは?」 「出てったよ。だから、俺らもあの家にはもういられない」  秋人の母親は、私が遊びに行くととても可愛がってくれる優しい人だった。  ——うちも女の子が欲しかったなあ。  そう言いながら、両親のいない私を本当の娘のようにいつも抱きしめてくれた。 「お袋がさ、美冬が遊びに来なくなって寂しがってた。卒業式の日、午後から列車で出ていくから、最後に顔を見せに来てくれないか」  そう話す秋人の白い息が、吐き出されるたびに闇夜に溶けていく。  ——おばちゃんにもう会えなくなる。  なんとも言えない重苦しい感情に包まれた。  行きたい。おばちゃんに会いに行きたい。でも、行ったら別れなきゃならない。 「考えとく」  私がそれだけ言うと、秋人はうなずきながら少しだけ笑った。 「無理にとは言わない」  そう言うと秋人は木から飛び降りた。 「秋人! 待って」  私は壁にかけたバッグに走り寄り、100円を取り出すとまた窓に駆け寄ったが、もうそこには秋人の姿は見えなかった。  秋人が立ち去った後に、降り続いている雪の上に足跡がくっきりと向こう向きに続いている。きっともう二度と秋人の足跡がこちらに向いてつくことはないのだろう。  私はその足跡に再び雪が積もるのをぼんやりと眺めていた。  ⌘  ——来週駅に見送りに来てくれないか。  秋人がそう言った週の日曜日、私は秋人の家の前にいた。来週まで待てるわけない。  インターフォンを押して「美冬です」と言うと、それはそれは派手な音が家の中からして玄関のドアが開いた。そして秋人のお母さんは何も言わずに高校の制服を着た私をギュッと抱きしめた。  小学生のあの頃、上から包むように私を抱きしめていたおばちゃんの背を私が飛び越えており。  ——こんなに長く会ってなかったんだ。  そう思うとホロホロと涙が出てきた。 「おじいちゃんたちは元気?」  私の両肩に手を乗せたまま、おばちゃんが言う。目尻に少しできた皴。相変わらず優しい笑顔。 「はい、とっても」  私はそう答えるのがやっとで、おばちゃんに「さ、上がって」と引っ張られるまま家に上がった。 「秋人、最後だから今日は友達と出かけるって。ひょっとして美冬とデートとかって思ったんだけど違ったね」  おばちゃんはベロっと舌を出して笑う。小さい頃のように「美冬」と呼び捨てで呼んでくれた。おばちゃんが変わらず私を思ってくれている気がしてうれしかった。  生まれて間もなく交通事故から生き残った私は、同居していた祖父母に育てられた。母の友達だったおばちゃんは、私を実の娘のように接してくれていたと、少し大人になった今ならよくわかる。  その日は長い時間をおばちゃんと過ごした。お昼ごはんも一緒に作り、一緒に食べた。  おばちゃんがアルバムを出してきた。 「美冬は本当にお母さんに似てきたね」  若い頃、亡くなった母とおばちゃんが一緒に写った写真を見せてもらう。自分でもまるでそこに自分が写ってるような錯覚を起こしそうになるほど似ている。  アルバムをめくると、なぜか中学生の私がいる。学校の公式行事のときの私が写った写真だった。学校で斡旋した写真だから、同じものを私も持っている。なぜか、私しか写ってない写真までこの家にあった。 「美冬からもらったって、秋人が持ってきたんだよね。ありがとね」  私は曖昧に笑う。  ——嘘だ。秋人、ストーカーかよ。  でも、アルバムの中で笑う修学旅行の私のこの写真が、まだこの家に私の居場所を作ってくれていたんだと思う。秋人はおばちゃんのために、なけなしのお小遣いをはたいてくれたのかもしれない。  それから新しい写真をおばちゃんが欲しがるので、2人でたくさん写真を撮った。SNSのアドレスをおばちゃんと交換して、撮った写真を共有する。  楽しい1日だった。  帰り際に出発の日は泣きそうだから駅には行かないと伝えた。 「いいよ、今日会えたから」  溶け出した雪がまだ積もる道を帰る私を、おばちゃんはいつまでも見送って、私も何度も振り返って手を振ったのだ。  ⌘ 「見送りには行かない」と言った私は、その日駅のホームが遠くに見える陸橋の上にいた。  ホームでの別れなんて辛すぎるけど、旅立ちは見届けたかった。ここなら気づかれずにサヨナラできるだろう。 「いつか美冬に、おかあさんって言ってもらえる未来はこないのかな」  おばちゃんがあの日冗談めかして言ったのを思い出していた。  ——違うんです、おばちゃん。私と秋人は、おばちゃんが思うような恋愛関係になったなんか一度もないんです。  おばちゃんの言葉には曖昧に笑ってごまかした。  ——ただ。  ずっと私の片思いでした。  中学生になった秋人は、私のことなんか見向きもしてくれなくなって。ずっといつも遠くから見ていただけでした。だから、秋人だけはどんなに遠くにいてもわかるんです。  この間はおばちゃんにサヨナラできました。だから、今日はここから秋人にサヨナラを言いに来たんです。目の前でサヨナラは言えそうもないから。  陸橋の上から、私はおばちゃんにあの日の答えを心の中で語りかけた。  そして、ホームに立つ秋人にサヨナラを言う。泣かないつもりだったのに、泣かないですむようにこんなに離れて見送るつもりだったのに、涙がとめどなく流れてくる。  たまらず空を見上げると、真っ青な空なのにハラハラと雪が舞い降りて、その小さな雪たちは地面に届く前に溶けてしまう。  まるで私の熱い涙が雪を溶かしているみたいだった。  さよなら。秋人。  ⌘ 「本当によかったの?」  秋人にはかわいそうなことをした。なんとしても行かせてあげたかった大学も試験は受けたが勝手に諦めたみたいだ。 「いいんだよ、母さん。学校のことは気にしないで」 「それもだけど、美冬ちゃんのことよ」  秋人はそれには何も答えなかった。  高校に入ってから秋人のことはよくわからない。秋人の美冬への気持ちがわからない私は、あの日美冬が遊びにきてくれたことを話していなかった。連絡先もきっと知らないだろう。どう切り出していいのか、年頃の男の子の気持ちが女の私にはわからなかったのだ。 「母さん、美冬がいる」  突然秋人が言う。 「どこに?」 「あそこ。あの向こうの橋の上に」  指を刺す方向を見ると、線路を跨ぐ遠くの橋に人が立っていたが、私にはそれが誰だかわからない。 「うそ。見えるわけないでしょ、あんな遠く」 「美冬なら、どんだけ遠くにいても俺はわかるんだよ」  秋人はそう言うと、じっと橋の方を見つめて動かなかった。  ——なんだ、そうか。 「ねえ、秋人。いいこと教えようか」  つい口に出してしまった。 「何?」  視点を動かさないまま、秋人が言う。 「美冬のSNSのID、あんたいくらで買う?」  ⌘  カーテンを開けると、雪が降り始めていた。今年の初雪だ。どおりでさっきから外が静かだったんだ。 「ねえ、雪が降ってる」  のそのそと夫が窓に近づいてきた。 「本当だ。どおりで寒い」  ブルっと震えて見せる。雪はかなり大粒でぼたぼたと地面に落ち、誰の足跡もない真っ白な雪となって積もってゆく。 「昔さ、雪の降る日にあそこの木に登ったバカがいたんだよ」  私が顎で指す庭先に、相変わらずあの時のまま木が立っている。 「まるっきりアホだな」  すっとぼけた顔で苦笑いする秋人。 「コーヒー入れたけど、飲まない?」  階段の下からお義母さんの声がする。 「うれしい。すぐ行きまーす」  私はカーテンを閉めると、秋人の手を引っ張りコーヒーの香りを辿って階段を降りたのだった。 (了)
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