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「せんぱーい。ところで、明後日の午後なんですけど……」
昼食時。なんだかんだといつも一緒にいる神崎と、オフィスビルの一階にある定食屋に入った。
猫なで声の神崎に、涼は視線を向ける。神崎がこういった言い方をしてくる時は、大体彼が苦手なものへの応援を頼みたいことが多い。来週は本社の社長も参加する営業の戦略会議がある。神崎が進めている案件も発表するうちの一つになっていて、社内向けに資料を作成する必要があるのだ。涼やその上の課長あたりが無駄だと思っていても、社長決裁が必要なほどの大きな案件である以上、避けては通れない。
人好きのする神崎は客ウケも良いし、足を運ぶことだって大好きな人間だ。苦手なことをフォローするのも大事だろうと、いつもは手伝っているのだが。神崎から目を逸らしつつ、涼は「明後日の午後は無理だな」とすげなく断った。
「え!? 茜主任……」
「人に頼むなら、もっと余裕持って頼めって言っているのに。どうせ、来週の会議の資料だろう? 明後日は無理だが、今日と明日なら付き合える」
わざと意地の悪い言い方をしたのだが、「やったあー!」と分かりやすく両手を上げた神崎を、涼と同じ主任の前原が「調子の良いヤツめ」と苦笑しながら涼の隣に座った。
「で。休みって何かあるわけ? 柊太くんの保育参観……じゃあないよな?」
柊太の保育園絡みの行事はカレンダーが年度初めに出た際に、予め会社の勤怠システムにスケジュール登録をしていて、同僚たちにも見えるようにしてある。分かっていて尋ねてきたのだ。
「有休を取る理由を話す義務はない」
「ふうーん。でも、まあ最近のお前さ、雰囲気が断然柔らかくなったし、イイ感じだと思うよ。いつも難しい顔していたからさあ」
どこから目線なのか不明だが、一瞥だけ返したところで神崎が噴き出した。
「さては神崎クン。その理由を知っていそうだね」
「ひっ! いけません、前原主任! これだけは……!」
小芝居を始めた同僚たちから視線を逸らしたところで、携帯電話が震えた。鳴動だけで、律からだと分かる。今日、友人に会いに行くことは聞いていた。無事合流できたというメッセージと共に、昼食の写真を送ってきたのだ。そのメインの隣には、たっぷりとしたクリームに赤い苺ソースが鮮やかなパフェも写っている。きっと、ニコニコとしながら写真を撮ったのだろうな、というのが目に見える気がして、思わず涼の口元が緩みかけた。すかさず「お、笑った」と前原が指さしてくる。
「その顔。やっぱりあれだな、うちの涼クンにも、良い人ができたわけだな」
「おっ、さっすが前原主任! 犬並みの嗅覚!」
褒めてないぞ、と前原がすかさず突っ込む。そうしてつい涼も笑ったところで、「大丈夫?」と囁くような声が聞こえてきた。
笑いあっている前原や神崎、その周囲から離れたところからだ。女性が一人、体調が悪いのか椅子に腰かけてはいるものの、テーブルに突っ伏している。彼女の同行者らしい女性が、心配げに声をかけていた。やがて、同行者の女性に支えられながら店を出ていく。それを契機にしたわけではないが、涼たちも食事を終わらせて店から出た。
「あの具合悪そうにしていた子……目の色を見た限り、オメガかな。大方強い抑制剤飲んじゃって、具合悪くしたんだろうなあ」
「……強い、抑制剤を?」
前原の言葉が気になったのは、律も抑制剤を飲んでいると聞いていたからだ。
発情期は、オメガ自身は勿論のこと、アルファの性を持つ者の理性も崩壊させるといわれる。子を成すという本能だけにさせられる――それを上手く呑み込めない者たちにとって、発情期を見事に抑え込む抑制剤は神薬だろう。しかし、本来あるべき姿を大いにひん曲げているのは事実だ。律の人生を快適にできるのであれば、涼も無暗に反対したくはないが、律の身体に影響がないのか、ということだけが心配なのだ。
「強い薬は効果も強いから、発情期すらスキップできるっていうけどな。副作用も酷くて、一番悪いケースではほとんど動けなくなる奴もいるとかなんとか」
「そんなに酷いこともあるのか……」
心に、冷たい鋭利な物が突き刺さったような、そんな錯覚を覚えた。迷惑をかけると大変だからと、律は抑制剤を飲んでいる。そういえば、以前も薬の飲み始めはとても眠くなるという話をしていた。
「番いっていうのになれば、抑制剤もいらないって言うけどな」
「あー、知ってます。ヒート中にうなじの辺りを噛むと……ってやつでしたっけ。でも、それで本当にオメガの人の体質? みたいなものって、変わるんですかねえ」
神崎が、涼と前原の会話に割り込んできた。興味津々といった表情で神崎が涼を見てくるが、涼もそのことについては自分なりに調べたことしか知識にない。気軽に聞けるようなオメガの知り合いはいなかったのだ。
「そういえば、いつも飲みに行っている店の近くに、オメガの子しか揃えていないっていう専門クラブができていたな。オメガの身体に溺れちゃうと、もう戻れないらしいぞ」
「へえー、そうなんですか? 茜先輩」
目を丸くして、神崎が声をかけてくる。それを無視していると、「あー、なるほど」とやけに納得したように前原が頷いた。
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