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13
「発情期近いんだから、無駄に外にフェロモン散らかしにいくのは止めておけって。全部茜さんに取っておきなよ。僕が買ってくるから」
「奏は甘いものは匂いだってダメじゃないか。昨日だって、俺がパフェを食べるのを憎々し気に見ていたくせに。……すぐ近所のお店なんだ」
仕方ない、と言いながらも憤然とした様子の奏に甘えながら、携帯端末と財布を手に取る。
二人でシュクレの店先まで来ると、本当に近所だったことを確認できたからか、奏は肩を竦めた。
「悪いけど、ここで待っている。さっさと買っておいでよ」
「こことマンションの距離くらい、さすがに大丈夫だってば。守正さんから、ずっとメッセージ着ているみたいだし、俺は本当に大丈夫」
でも、と奏が言い募ったけれど、もしかしたらこの辺りに、奏のパートナーである守正さんが迎えに来ているのかもしれない。奏はオメガ専門のクラブでキャストをしていた時期があり、その頃に出会った守正さんは余計に心配なのだろう。とうとう守正さんから電話も入ったところで、奏は眉根を寄せた。
「奏、今日は無理言って本当にごめん。でも、一緒にいてくれて安心できたよ……ありがとう」
「ああ、もう! 僕は、律のそういういじらしいところに弱いんだよ。寂しいとか、理由はなんでもいいから、今日みたいにちゃんと僕を呼んでほしい。僕は律に頼られるのが嬉しいんだから」
よしよしと、幼い子にするように奏が俺の頭を撫でてきた。守正さんの運転する車が近くに止まり、守正さんにも挨拶をする。奏が乗り込むのを見守り、守正さんの車が流れに乗って遠くに行くのを見送っていると、また茜さんからのメッセージが届いた。
――何か、食べたいものはあるか?
そんな短いメッセージにくすぐったい気持ちになりながら、大丈夫、と俺も返信をする。それから、お楽しみがあるよ、と付け加えようか悩んで、やめた。もし売り切れていたらがっかりさせてしまいそうだ。
シュクレの店内は会社帰りで甘いものに癒しを求める男女であふれていたが、俺はプリンを二つ、無事確保できた。残っていたのは三つだったし、買おうと思えば買えたのだが、若い男の人と手を伸ばすのが同時になった。明るい髪をした男性に最後を譲り、無事男性もプリンを買うことができた。俺はいつでも来ようと思えば来られるのだから、茜さんと柊太くんが食べる分があれば良いのだ。
(……あれ。そういえば、前にもこんなこと、あったなあ)
レジを済ませ、店の外へと出る。
残り一つの、シュクレのプリン。
数年前。前の夫と別れた頃、俺は周囲に心配させてしまうほど落ち込んだ。
アルファと婚姻するオメガは諸事情はあれど離婚する者は少ないと聞く。しかも、前の夫は従兄弟の光を始め、他人から見れば「人当たりの良い御曹司」を一貫していたから、オメガの俺にもったいないくらいに良いパートナーができたと、皆が手放しで褒めていた。
前の夫が期待していたのは、俺そのものではなく、宵待家の息子という肩書だけだった。そのことに気づくのには、我ながら愚かにも時間がかかってしまった。
だが宵待家は財閥の一つとはいえ、実力主義だ。働けない者には相応分しか与えられない。ただ、働く気持ちがある者を見捨てるほど酷薄でもないけれど。
俺が子を産んだとして、宵待家で良い待遇になる訳ではないことに気づいた前夫は、表の顔は維持したまま、浮気や暴言を平気でするようになった。暴言、ではないのかもしれない。こちらの胸が痛むことを、――もしかしたら真実を、繰り返し言い続けただけなのだから。
今ようやく、過去の前夫に対して文句を心中で罵倒することくらいはできるようになったが、自分はだめなのだ、という昏い気持ちは、なかなか消えてくれない。
そんなボロボロの数年前。ふらっと寄ったこの店で、同じプリンを買おうとしたサラリーマンに最後の一個を譲ったことがあった。顔はよく見えなかったけれど、その人が疲れているのは、気配で分かった気がした。
「そういえば、あの時の人……茜さんに似ていた、かも」
背の高い男の人だった――そのくらいの記憶だけれど。あの時の男の人が、驚いて俺を見てきた顔が、茜さんの顔で再現されてしまう。もしあそこで本当に会っていた、なんてことがあれば面白いな、と俺の頬が緩んだ。自分でも気持ち悪いと思うくらいに、顔が勝手に笑顔になるのが止められない。早く家に帰ろうとマンションまでの短い道を歩き始めようとして、後ろから肩を叩かれた。
大きな手のひら。茜さんだったりして。
期待を込めて後ろを振り返ると――そこには、前の夫が、立っていた。
声を上げるよりも先に手首を掴まれ、シュクレを少し通り過ぎたところにある狭い路地に押し込められる。男の息は荒く、暗がりで良く見えないはずなのに目がぎらついているように思えた。
「い……今さら、俺に何の用事だよ?! あんたの職場、このあたりじゃないだろう!」
離婚した間際の時、俺は本当に疲れ切っていた。奏たちにはやるべきと言われたけれど、前の夫の職場や浮気相手の女性の家族に、真実を伝えるまではしなかった――いや、そんな気力もなくて、できなかった。だから、離婚前後のことで恨まれる覚えはない。それよりも、動悸といえばいいのか、心臓がやけに早く脈打つのが気持ち悪い。どくどくとした音が聞こえていると感じるくらいだ。何より、熱く感じる男の手から離れたかった。
「久しぶり。随分楽しそうに歩いているのを見かけたからさ。……お前、こんなにイイ匂いしていたんだな。今ならちゃんと番いにしてやってもいいぞ。ヒートが楽しみだな」
壁際に追い込まれてしまった。犬が匂いを嗅ぐときみたく、わざとらしく鼻をひくつかせながら男が俺の首元に顔を埋めようとしてくる。
ぬるっとした感触と共に首筋を舐められて、全身が総毛だった。声を上げたいのに、自分でも笑えるほどに震えてしまって、小さな声しか出せない。俺が声を出せずにいると、下肢に硬い感触が押し当てられてきた。それが何なのか、確かめるのも嫌で身体をずらそうとすると、男はわざとらしく己の唇を舐めた。
『発情期だとか言って、ローションも使っていないのに濡れるとか、気持ち悪い。せめて胸くらい作って来いよな。まあ、男の部分は小さいみたいだけど』
その口で嘲笑しながら、かつての俺にそう言い放ったのに。
次の発情期が来たら、番いになるって、約束した。――俺は、茜さんとじゃなきゃ嫌なんだ。
足すら震えている今の俺が咄嗟にできたのは、何とか男の手から離れてしゃがみこむことだけだった。
「おい?」と前の夫だった男が声をかけてくる。
(……確か、緊急用の抑制剤、持っていた……!)
まだ、発情期は来ていないけれど。
「まあ、聞けよ。あの頃は俺も悪かったよ。まさかオメガの男とのセックスがあんな気持ちイイとは思わなくてさ。会社の連中に付き合わされて、仕方がなく、だったんだけど。今ならお前でも、試せそうだし」
男が言っていることの意味を考えるよりも、ポケットに入れていたはずの専用ケースを探すことに必死だった。自分が思っている以上、俺は混乱しているのかもしれない。
(あ……あった!)
念のためにと、お守りとして持っていた即効性の抑制剤。アレルギーを抑えるためのエピペンに似た、キャップを外し安全カバーを取ると、細く小さな針が現れるタイプのものだ。
「おい。律、人の話聞いているのか? 今なら、よりを戻しても良いと思うんだよな。うちの親たちが、お前と勝手に離婚したこと、まあだ怒っていてさ、弟に会社を継がせるとか、訳の分からないこと言い出して。それが嫌なら、お前とより戻せとか何とかって」
……俺が、いくら話しかけても無視し続けていた男。
この男の前で発情期なんて起こしたら――俺に残っていた大事な何かが、壊れてしまいそうで。とにかく、怖くて仕方がなかった。今なら、もう以前とは違う俺なら――文句の一つも、言えると思っていたのに。
自分も気が立っているからかは、分からなかったけれど。
小さな針を自分に突き刺しても、痛いとは感じなかった。
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