14

1/1
前へ
/30ページ
次へ

14

「なあ、まだ怒っているのか? 俺もちょっと、見る目なかったけどさ。せっかく番いにしてやったのに、俺が後継ぎになれないかもって分かった途端にあの女、いなくなって。……子どもがどうのっていうのも、嘘だったとかメッセージだけ寄越して、ハイ終わりだったし」  どうしよう。  男のおしゃべりはひたすら耳から入ってくるけれど、抑制剤を使ったのに男が離れていかない。即効性と謳っているのに、効いていないのだろうか。  いつも飲んでいる薬は、反対側のポケットに入っていた。タブレットケースに移して持っていたのだ。 「おい、人の話、聞いているのか? ……お前、何しているんだ」  もぞもぞと動いているのが、ばれてしまった。処方は一回あたり二錠だと分かり切っているけれど、手のひらに何錠あるのか分からないまま、口に押し込む。唾で無理やり小さな錠剤を嚥下した。喉を通っていくのが、やけにゆっくりに感じられてもどかしい。 (早く……早く、効いてくれ……!)  そう心の中で思っているのに。勝手に「あかねさん、たすけて」と口走っていた。もう、頭と口と手と……すべての動きが、バラバラになっていく。 「アカネって、誰だよ。まさか、お前オメガのくせに女でも作ったのか?!」  速まっていった鼓動が落ち着いてきて、いつも抑制剤が効いてくる時よりもずっとずっと重たい眠気が、吐き気を伴いながら俺の身体を引きずり込もうとする。今は、それにとてつもない安心感があった。こうなってしまえばもう、この男の前で発情期にならなくて済むのだから。    「……あ……か、ね……さ……」 「だから、アカネって……おい?」  強く揺さぶられるのも怖くて、俺は蹲ったまま必死に小さくなっていた。もう目を開けることもできなくて、男が騒ぐ声だけが遠ざかっていく。夏が近いのに、路地裏のアスファルトは,思ったよりもひんやりとしていて心地よい。体の震えも、ようやく収まってきた。    迷惑を、かけてしまう。そう考えていた思考が、ゆっくりと融けていく。  訳が分からないまま――もう、眠りたかった。 *** 「うわっ、靴についている。……ったく!」  最悪だ、突然吐きやがって、と一人罵りながら路地裏から飛び出てきた男にぶつかりそうになった。涼は避けかけたが、あることに気づいて足を止めた。男から、律がもたらす、花に似たあの香りがふわりと漂った気がしたのだ。稀少な存在と言われるオメガが発情期付近にもたらす香りは、似ているようで一人一人違うのだと聞いたことがあるからか、根拠なくそれが律のものだと思った。  自分とほぼ上背の変わらない男がぶつかる――その直前で、男の肩を掴んでいた。相手の男が、不審げに涼を見てくる。しかめっ面をしていても顔が整っているのが分かる。モデルでもやっていそうな、華のある容姿だとは思ったが、男は涼を見やると舌打ちをした。 「なんだよ、突然。失礼だろう、手をどけてくれ」 「そちらがぶつかりそうになったからでしょう。……下を見て歩くのは、危ないですよ」  はあ、と男が訝し気に返事をしながらも、不自然に視線を動かす。男が視線を向けた先は、店と店の間――狭い路地だった。 「はいはい。こっちは急いでいるんで。すいませんでしたね」  涼の手を迷惑そうに押しのけて、男は足早に――それから走って立ち去っていった。引っかかるものを感じる。もう少しで家に着くのに、律に電話をしようか悩んだその時。「茜さん!」と叫ばれて声の方へと向いた。 「……奏君?」 「すみません、律、一緒にいませんか?! さっきここで別れて、でも気になって……マンションの方から来てみたのに、電話も出ないし。今逃げていった奴、律の元ダンナに似ている気がして――」  律の元夫――そんな偶然が、あるのだろうか。  それよりも、先ほどあの男から律の持つ香りがしたことが、偶然ではないとしたら。「いいや」と取り敢えず答えると、律の友人が息を呑んだ。 「奏。逃げたヤツは、追いかけた方がいいのか?」  律の友人に、涼の見知らぬ男が声をかけてきた。律の友人は男に目をくれることもなく「お願い」と返事をすると、顔を青くしながら携帯電話を操作している。それを見て、涼もようやく自分が携帯電話を持っていることを思い出した。  もしかしたら、入れ違いで家に戻っているかもしれない。自分は、冷静のつもりだ。しかし、いつもなら意識をせずともできる簡単な操作に、まごつく。ようやく律の番号を探し当ててかけ始めると、近くから僅かな音だが、電子音が聞こえてくる気がした。律は、着信音をデフォルトのままにしている。先ほど、男が視線を向けていた狭い路地――そこから、音は聞こえてくる。律の友人には、聞こえていないのか。 「茜さん?」  律の友人を気にする余裕は、もうなかった。狭い路地に近づいて行っても、雑多な匂いにかき消されてしまったのか、あの香りはしない。けれど、鳴りっぱなしの電子音には、どんどんと近づいていく。  前妻がある日突然出ていった時も、仕事で理不尽な要求を押し付けられた時も――柊太が外に追いやられているのを見た時や、高熱を出した時は動揺したけれど――それでも概ね、涼は自分の人生を淡々と歩んできたつもりだ。自分は、冷静。そう思えたのは、暗がりの中に見えるものが、今朝律が着ていた服と同じだと気づくまでだった。 「――律」  そう呼び掛けても、美しい紫色の瞳がこちらを見上げてくることはない。生きているのかがひどく不安になるほどに、寝息を立てることもなく、律はぐったりとしていた。口許は吐瀉したもので汚れている。 「あ……、救急車! 僕、救急車呼びます!!」  声に動揺は現れていても、律の友人はすぐ救急に電話をかけてくれたようだ。ここがどこかを必死に説明するのを聞きながら、涼はずっと律の名を呼んでいた。  部屋が暗くなるまでぐっすり眠っていても、起こせば必ずこちらを見てくるのに――どうして、こちらを見ないのか。投げ出された手を取ると、何かが零れ落ちる。 (これは……)  律の手から、落ちたもの。それは小さなケースだ。蓋が開いていたようで、拾い上げようとした時、中から小さな錠剤が転がり落ちていくのが見えた。 「茜さん、救急車すぐ来るそうです!」  そう叫んで、律の友人も駆け寄ってきた。 「律――律、律……!!」  子どもの頃から、『特別』を神に祈ったこともなかった。自分の身の丈を越えたいと望んだことも、なかった。 (……律の命を、どうか……!)  ただ深く眠っているだけで、数時間後には「よく寝た」といつも通り、朗らかに笑って起きるのだと言って欲しい。どんな形であれ、律を失ってしまったら――以前の自分には、もう戻れない気がした。 「茜さん、救急車が来た! 律を、病院に連れて行かないと!」  救急車の近づくサイレンの音すら、まるで遠くの出来事に感じる。  律の身体から無理やり引き離され、無意識に律を取り返そうとして――自分の腕に縋ってくる律の友人の手を振り払おうとしたところで、涼は我に返るのだった。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2395人が本棚に入れています
本棚に追加