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「はい、茜さん。……茜さん?」  目の前に缶コーヒーが現れて、涼はようやく顔を上げた。自分が俯いていたことにも、気づいていなかった。視線を上げた先には、驚いた顔をした、律の友人――奏が立っている。涼の分の飲み物も買ってきてくれたらしい。涼が礼を告げると、一つ空けて隣の椅子に奏が座った。  医師からの説明を受けた後、今日は付き添いができないこと、何かあれば呼び出すと説明を受けたものの、涼と奏はまだ病院の待合室にいた。明かりが消された待合室が暗いのもあって、非常灯の緑光が明るく感じる。二人以外には動く者がいないのではないかと思うくらい、静かだ。  律に外傷の類はなかったが、医師は難しい顔をしながら過量服薬について涼に説明した。即効性のある緊急用の抑制剤を使った痕があるのに、律は普段飲んでいる、強い抑制剤まで飲んだ。それが、昏睡の原因だという。  オメガの身体を殺しかねない過剰な抑制剤の摂取は楽観視できない、と医師は続けた。日常生活に問題なく戻れるのか、律の目が覚めて確認が取れない限り、退院できないとも。     「……さっきは、すごい動揺して……色々言ってしまいました。すみません」  そう呟いたのは、律の友人だ。奏に視線を向けると、青年は悄然と肩を落としている。青年から手渡された缶コーヒーを手のひらで転がしながら、涼は「いや」と返した。 「奏君がいてくれて、良かった。こちらこそ巻き込んでしまって申し訳ない」  律の友人は首を大きく左右に振った。 「僕が、最後まで律を待っているか、律の代わりにプリンを買いに行けば……律にも涼さんにも、申し訳ないです。律の大丈夫は大丈夫じゃないって、分かっていたのに。あいつも、なんで今さら律の前に現れたんだろう。律のこと、気持ち悪いって……さっさと裏切ったくせに、なんで今さら……!」  少しずつ、奏の声が大きくなっていき、興奮で椅子から立ち上がりかけた。自身の声が響いたことに驚いたのか、奏は慌ててまた椅子に腰かけ直している。  その様子を見るでもなく見ながら、涼は奏の言う『あいつ』が先ほど涼とぶつかりかけた男であり、律の前の夫なのだろうと見当をつけた。確認したくても、喉がひりついていて、声が掠れている。  奏からもらった缶コーヒーで喉を潤すと、苦い液体が自分の中を流れ落ちていく感覚で、しばらく何も飲んでいなかったことに気づいた。 「律を、気持ち悪い……? 裏切った、というのは」  涼が問うと、奏が「あ」という顔をした。それから少しの間逡巡する様子を見せたものの、やがて「茜さんに、僕から言うのはおかしいと思うんですけど……」と前置きしてきた。 「でも、律は自分からあいつのこと、悪く言ったりとかしないだろうから……言わせてもらいます。親同士が結婚を決めるのは、お金持ちのアルファとオメガの場合は多いみたいですね。あの男も有名な家の御曹司くんだし。……でも、あいつは到底結婚を許してもらえないだろう相手を愛人として囲うために、男のオメガを嫌悪しているのを隠して律と結婚したんだ」  先ほどの男の、本性を垣間見せた顔を思い起こす。周囲は、祝福したのだろう。一見、穏やかで優しそうな顔をしている、まさしく御曹司と結婚した律を。 「律は、見ているこっちが悲しくなるくらいお人好しというか、自分が傷ついて終わりならそれで良いっていう人間なんです。周囲が祝福してくれた相手と上手くいかないのは、自分のせいなんだって。前のダンナはそんな律に付けあがって、自分でボロをだしたから皆が気付けたけれど……律は、自分で分かっている以上に傷ついていたんだ。離婚してから数年経つのに、発情期を迎えた自分を、茜さんに気持ち悪いって言われたらどうしようって、不安がっていて……茜さん、コーヒー零しそうです」  奏に指摘されて、ようやく涼は自分の手元に注意を向けた。強く握りしめていた缶の中身を、飲み干す。 「何が目的だったのかは分からないけれど、あいつ……草輪(くさのわ)が律に迫ったのは間違いないと思うんです。……怖かったんだと思う。また傷つけられるんじゃないかって」  何があったのかは、律か前の夫――クサノワというらしい――に確認しなければ分からない。それでも、柊太と賑やかに笑っている律が抱えてきた過去を想うと、涼の心は痛んだ。もしかしたら発情期のことに時折触れたり、抑制剤を飲まないよう話したことは、知らずに律を追い込んでいたのではないか。  思考の海に沈みかけた涼を呼び戻したのは、シンプルな電子音だった。  奏が慌てて携帯端末を操作するのを見ながら、自分の端末の電源を落としたままだったことを思い出す。ようやく電源を入れると、すぐに実家からの不在着信が入っているのが表示された。もう真夜中に近いが、つい十分ほど前の時刻も、履歴に残っている。  念のため奏に断ってから院外に出て実母の携帯電話に連絡を入れると、第一声は柊太の号泣が待っていた。すぐに実母に替わったものの、母親が場所を変えたのが分かるくらい柊太の泣き声がずっと響いている。実家に泊まる時、寝る前に律と電話で『おやすみなさい』のやり取りをするのが柊太のお気に入りになりつつあった。律どころか、父親の涼とも連絡が取れないことで不安にさせてしまったのだろう。 『え? 律ちゃんが入院?!』  先週、一度柊太を実家に迎えに行くのに律も一緒に行った。以前、両親とだけ顔合わせをしたことはあったものの、先週以降は柊太と同様に『律ちゃん』と呼んでいる。かいつまんで事情を話すと、『分かった』と返ってきた。 『しゅうちゃんのことは、こちらで見ているから。もう泣き疲れて寝そうだしねえ。こっちにあなたが顔見せたら、おうちに帰るってなっちゃうだろうから、明日も預かるからね。着替えとか取りには、今から帰るんでしょう? 帰ったら、あなたも少しは寝なさい。少しの間、目をとじるだけでも違うから。病院が一度帰りなさいっていうのは、そういうことじゃないかしら』  ああ、確かに律の着替えや必要なものを取りに行かなければいけない。自分の思考力が、ここまで落ちているとは。適当に通話を切り上げると、奏も玄関から出てくるところだった。 「奏」  低い男の声が、律の友人の名を呼んだ。クサノワを追いかけていった、奏の同行者だ。「僕のパートナーの守正です」と奏が改めて相手を紹介してくれた。 「追いかけてはみたが、百日街のオメガ専門と謳ったクラブに入ってからは、一向に出てこない。行きつけだろうから、また張り込めば捕まえられると思うが」 「あの野郎、僕のことも男のオメガなんて存在意味が分からないとか小馬鹿にしておいて、自分はオメガにハマったら律のところに来るとか、ほんっとふざけた野郎だな!」  百日街は、涼の勤める会社の近くにある歓楽街だ。そういえば、神崎たちが専門のクラブがどうの、という話をしていた気もする。男性のオメガを嫌悪していたアルファが、オメガの身体に骨抜きになったから――そんな陳腐な話に、律は巻き込まれたというのだろうか。  ぶつかりそうになった時――あの男の正体を先に知っていたら、理性の歯止めなく殴りつけていたかもしれない。だが、今となってはあの男を責め上げても、律が目を覚ますわけではないのだ。それどころか、『律が勝手に薬を使った』だけだと押し通されて終わる可能性も高い。 「着替えを取りに帰ろうと思う。二人とも、遅くまで付き合わせてしまって申し訳なかった」 「……今回のこと、奏は責めないでやってほしい。家まで送ると頑張っていたのを、俺が……」  守正という男がぽつぽつと言葉少なに口を開いたところで、また明日、と奏が慌てて言い足してきたが、涼は丁重に断った。律の目が覚めたら必ず連絡すると約束して、奏たちが乗った車が去っていくのを見送る。  律が運ばれた病院は、涼たちが住まうマンションから一駅しか離れていない。家まで送るとも言われたが、彼らの住まいはマンションに寄ると遠回りになってしまう。終電の時刻は過ぎているが、数十分歩けば帰れる距離だ。街灯の下、人通りも絶えた道を通って自宅に帰ると、そこには仄かに、律の香りが残っている気がした。 ***  小さな子どもの、泣き声がする。 「りつちゃんが、しんじゃったら……やだあああ!!!」  だいじょうぶ、死んでいないよ。   頭が重く感じる。加えて、空腹だ。ぼんやりとしたまま目を開くと、やっぱり近くで小さな子が泣いていた。 (しゅ……た……くん)  こちらに背を向けていても、その子が誰なのか、すぐに分かる。呼びかけたつもりなのに、声は出ない。指を動かすと、急に手を握りしめられた。 「律?」  茜さんの声だ。低く、落ち着いていて穏やかな……大好きな声。聞こえた方を見ると、茜さんが俺を見ているのと視線が合う。会えて、嬉しくて。笑おうとすると、急に茜さんの無表情が崩れた。 「律、良かった……目が、覚めないかと……!」   そう言いながら、茜さんが俺の手を自分の額のあたりにあてて項垂れた。大丈夫、ちゃんと起きたよ。なんだか、ずっと悪い夢を見ていた気がするけれど。 「りつちゃ……? いきてたああああ!!!」  うわあああん、とまた柊太くんが泣き出した。「しゅうちゃん、お外いこうね」と年配の女性の声がかかる。俺を見て一礼してから、泣いている柊太くんを抱っこして部屋から出ていったのは――茜さんのお母さんだ。  まだちゃんと、考えられない。  茜さんが握っているのとは反対側の手の甲には、点滴の針が刺さっている。慌てて駆け付けてきた看護士さんが忙しなく動き回るのを見てここが病室なのだとは分かり、自分が迷惑をかけてしまったことに、ぼんやりと申し訳なさを感じる。 「あかね……さん、ごめん……おれ、めいわく……」  安静に、と告げて先生いなくなり、二人きりになった茜さんが、充血した目で俺を見てくる。今は上体を起こすのも辛いけれど、とにかく謝りたかった。自分が弱いからだ、と夢の中で何度も俺自身が叫んでいた。自分が、ダメだから。なんて言って謝れば良いのだろう。どんな言葉を重ねたら、俺は。 「律が謝るなら、俺も謝りたい。……律が抱え込んでいたものを、もっと早く知らなければいけなかった。律が俺と柊太をそのまま受け入れてくれたように、俺も律の抱えているものすべてを、受け入れたい……いや、受け入れる」  俺が、抱えているもの。ぼやっとしたままの頭では、すっきりと整理して考えられないけれど――自分がダメだと思う俺そのものを、受け入れてもらえるのだろうか。頑張ってそれを口にすると、茜さんはようやく微苦笑を浮かべた。 「律が自分で思い込んでいる駄目なところなど、ないんだ。俺にとってそれは、愛しいと思うところばかりだから」 「え……?」  茜さんの言葉を聞いて、自分でも間抜けな声が出た自覚はある。  本当に、良いのだろうか。 「でも……俺のヒート、きっと茜さんも……きもちわるいって、思うかも……」  そんな言い方は、卑怯だ。そう分かっているのに、上手い返し方ができないまま口を開いていた。 「絶対にそう思わないという自信はある。……だが、俺は身体の繋がりがなかったとしても、律を愛しいと思い続けるよ。今思うと、一目惚れだった。ずっと前に、シュクレで最後のプリンを律に譲られた時から、気になっていた……律にとっては、何気ない日常だったと思うが。親が持ってきた見合い話が、その時の子だった。……運命だと、思ったんだ。子どもみたいに」  少しずつ、頭の中が明瞭になっていく。そうだったらいいなと、思っていたことの記憶が、蘇る。 「……俺、も……おもいだしたんだ……あのとき……やっぱり、茜さん……だった」  あの時のあの人は、やっぱり茜さんだったのだ。そう理解できた途端に胸の内が熱くなっていき、悲しくないのに涙が零れていく。  茜さんは「覚えていたのか」と目を丸くしたけれど、それから優しく笑って、口づけを落としてから俺の止まらない涙を拭ってくれた。 「そっと、静かにね」 「うん!!」  廊下から、ぺたぺたとした足音が二つ、近づいてくる。小声でひそひそ話しかけられて、やはり小声ではあるが元気よい返事が聞こえてきた。  締められていた扉を、遠慮がちに叩く音。俺が返事をすると、細く開いた扉から、心配げな表情をした子どもの顔が覗いた。 「柊太くん! ずっと寝ていて、ごめんね」  驚かせてしまったのだろう。俺が呼びかけても、何度も己の祖母を見上げる動作を繰り返している。その手には、売店で買ったのだろうか、小さな花籠があった。 「俺……柊太くんの、泣いている声で目が覚めたよ。バッチリとね。……ありがとう」 「ぼくの、おかげ? りつちゃん、たすけた……?」  そうだよ、と笑い返す。柊太くんは花籠を取り落としながらも、俺のところに来て、小さな体でぎゅっと抱きしめてくれたのだった。
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