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16
「奏にも迷惑かけたよね。色々と、ありがとう」
高そうなワインが入った箱を、退院祝いだと言ってドンとテーブルに置いた奏に声をかけると、友人は青紫色の瞳で俺を見てきた。
「いいんだよ、僕も律から目を離したのが悪かった。……あ、こっちのビールは律用ね。そっちのワインは茜さんに渡してくれる?」
矢継ぎ早に奏に話しかけられながら、俺は頷いた。
病室で目が覚めた後は、特に怪我もないし意識や記憶も問題ないということで、早々に退院することができた。混乱していたとはいえ自分の咄嗟の行動があまりにも酷くて、全方面に申し訳なさでいっぱいだったけれど、誰も俺を責めなかった――俺の実家の人間ですら。そのことを口にすると、奏から「僕が同じことをしたら、律は責めるわけ?」と返された。
茜さんと一緒にこの部屋に戻ってきて、柊太くんも帰ってきて――あの日の続きが始まったけれど、前よりもずっと現実が現実として見えるといえばいいのか。以前とは、やはり何かが違って思える。
「でも、抑制剤だけは、パニック起こしたとしても絶対に、ダメだからね? お医者さんにも言われたんだろう?」
奏はすぐに行くから、と言ってアイスティーを一気に飲み干してからまた口を開いた。
あの日。前の夫の出現に勝手に追い詰められた俺は、普段使わない緊急用の抑制剤などを一気に使ってしまい意識を失った。オメガ用の抑制剤の過剰投与は身体全体に影響し、今回みたいに意識を失うどころか、そのまま意識が戻らなくなることもあるという。元々薬が効きやすい身体だったとも言われ、パートナーがいるのなら飲むのは止めなさい、と医師から忠告を受けた。
「持っていた分は、茜さんに全部預けてあるし、俺もあの時はすごく苦しかったから、さすがに大丈夫。……それに、もう発情期は来ないかもしれないって。どこまで影響が出るのか、先生にも分からないから、可能性の話だとは言っていたけれど。意識がちゃんと戻っただけでも良かったっていうくらい、俺の状態が酷かったみたいで」
「え……?」
これは柊太くんに、と退院祝いをテーブルに並べ続けていた奏が絶句して、動きを止めた。
茜さんと一緒に病院の医師から説明を受けた時。今までずっと発情期から逃れようとしていたくせに、いざ発情期が消失した可能性を聞かされた時は茫然自失となった。発情期があるからオメガなのだと思い続けてきたからなのか、自分でも分からないけれど。
「それ、茜さんも知っている……んだよね?」
知っている。俺は頷いて見せた。説明を受けた後、俺は確かにショックを受けていた。オメガじゃなければ、この身体がもう本当にいらないものに思えたのも、あるかもしれない。ふらふらと診察室を出た後、茜さんは俺を抱きしめてくれた。「目覚めてくれて、本当に良かった」と囁きながら。
「そっか……。でもほら、オメガだとかアルファだとか、いろんな遺伝子が混ざり合った結果なだけだし、世の中、そんな特殊体質のない奴の方が圧倒的に多いんだよ。オメガ性の体質がなくなったから、好きな相手と一緒にいられないなんて、そんなアホな話はないさ。じゃなきゃ、ベータ性の連中は誰も恋愛できなくなる。……そんなことで茜さんから身を引こうとか、馬鹿なことは考えるなよ?」
「……あ……うん?」
俺が驚いて返すと、「怪しいな」と奏が渋面を作った。
茜さんには柊太くんがいると言っても、俺の発情期が消失すれば、俺は茜さんと番いになることができない。番いになればお互いにお互いの匂いしか分からなくなるという。
けれど、番いになれないままなら。いつか、茜さんを振り向かせる素敵なオメガ男女が現れることだって、ないとは言い切れない。獣の本能に似たこの性質に、抗うのは難しい。万が一そんな時がきたら……前の夫にそうしたように、今度も自分から身を引く、なんてことはもう、出来ないだろうと思った。そのことを考えると、自分でも驚くほど心が冷えていく感じがする。茜さんは大丈夫――そう頭では分かっていても、万が一という可能性に怯える自分が、自分でも嫌で仕方ない。茜さんを離したくなくて喚く俺に、茜さんが失望したりしたら。
「まあ、どんくさい律が茜さんから離れようとしたとして、すぐに捕獲されると思うけどね。律が意識を失って倒れているの見た時、ものすっごい凶暴になっちゃってさ。律の体、絶対に離さないって……アルファが本気で怒ると目の色が変わるって、本当だった」
「茜さんが? ……待って、捕獲ってなんだよ! 珍獣じゃないんだから」
似たようなもんだろう、と奏が茶化した。笑う奏を見ながら、俺は凶暴な茜さんを想像してみる――けれど、すぐに思い浮かぶのは、穏やかにそっと微笑む茜さんの表情だ。
「あ、そろそろ行った方がいいかな。ほら、行くよ」
「え? 俺も行くのか?」
そうだよ、と友人がいつになくにこやかな顔で俺に手を伸ばしてきた。こういう表情を奏がする時は、何か企んでいる時だ。しかし、今回迷惑をかけてしまったのもあり、今の俺には奏の誘いを断る権利はない気がする。
「お願いだから、激辛料理ツアー以外だと、嬉しいんだけど」
「それは何とも言えないね。はいはい、外行くんだから、たまにはジャケットでも羽織りなよ」
俺は本当に、どこに連れて行かれるのだろうか。ドナドナされる子牛の気持ちに浸りながら、俺は奏に言われるがままに服を着替えて、玄関の扉を潜る。
「……あ、ちょっとだけ電話してくるね」
守正さんに定時連絡といったところかな。さっと俺から離れた友人の後ろ姿から空に視線を移す。ぼやけた青色だ。
発達している積乱雲が、うっすらと見える。――夕立が来る、予感がした。
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