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「……奏も、とうとう甘党派の仲間入りしたとか?」 「……ふざけたこと、言わないでくれるかな?」  鋭い眼差し。心底嫌そうな顔を一瞬垣間見せたものの、奏の顔には笑みがすぐに戻ってきた。  奏と一緒に入ったのは、この間オープンしたばかりの喫茶店だ。クリームがたっぷりと乗ったパンケーキが一番人気だと雑誌で紹介されているのを見てから、一度は来てみたかったので、激辛好きの友人にしてはめずらしいチョイスに俺はほくほくとしている。  カジュアルな雰囲気で、会話を楽しむ人たちもいれば、一人で仕事や勉強に打ち込んでいる人々もいる。テラス席に案内されてオーダーを終わらせたところで、「じゃあね」と奏が立ち上がった。 「まっ!? 二人分注文したのに、帰るってどういうことだよ?!」 「律に付き合うのは、僕じゃないからね」  お幸せにね、と満面の笑みでそう告げると、奏は颯爽と立ち去っていく。既に二人分オーダーしてしまったので、追いかけるにも追いかけられない。どうしよう、と携帯端末を弄り始めると、目の前の椅子を引く音がした。 「律」  奏が戻ってきたのかと思って、顔を上げた俺の前には――茜さんがいた。 「あっ、あかね……さん? なんで?」 「奏君にお願いしたんだ」  奏は普段なら、人に頼まれてそんな面倒なことはしない。けれど、突然俺を置いていったりなんて変な行動をした理由は分かってきたが、茜さんも仕事中のはずだ。……それにしても、暑かったのかシャツの襟元を寛げて、ネクタイを外した茜さんは新鮮に感じる。危うくにやけそうになってしまい、意識して顔の表情を引き締める。 「茜さん、仕事は……」 「午後休暇を取ってきた」  程なくして、キャラメルラテと、アイスコーヒーが運ばれてきた。どうして茜さんが休暇を取ってまで現れたのかが分からず、気持ちを落ち着かせるために自分が頼んだキャラメルラテに口を付ける。ソース多めと注文しておいてよかった。甘くて美味しい。その美味しさに、頬が緩みまくりだ。そんな俺を、茜さんはじいっと見ていたけれど、やがてぼそっと呟いた。 「……奏君から、律を早めに捕獲しておけと連絡がきた」 「奏が?! あいつ、そんなことまで茜さんに言わなくていいのに! ――待って、それだけで来た……わけじゃないよね?」  だから奏の奴、あんなにニヤニヤしていたのか。申しわけなく思いながら茜さんの顔を見ると、茜さんは表情を読ませない顔のまま、俺を見返してくる。 「それだけと言ったら、それだけかもしれない。……律、それを飲み終えたら、俺に付き合ってくれないか」 「茜さん?」  俺に付き合ってほしい場所があるのだろうか。尋ねても、茜さんは教えてくれない。そういえば、柊太くんの誕生日が近いって話もしていた。もしかしなくても、柊太くんの誕生日プレゼントを買いに行くのでは。 (おもちゃ屋さんに一人で入るのは、恥ずかしい……とかかな?)  土日は柊太くんがいることの方が多いから、こっそり行くのも難しい。なるほど、と俺は勝手に納得する。  茜さんの車に乗せられて向かったのは、ショッピングモールなどではなく、車で一時間以上も離れた海辺にある、荘厳な佇まいのホテルだった。 *** 「茜さん。おもちゃ屋さんに行くとかじゃないの? 間違ってない?」 「間違っていない」  あれ。何かが、おかしい。 「お待ちしておりました」  フロントマンがにこやかに出迎える。観光者向けをより意識しているのか、豪華な雰囲気のエントランス部分は吹き抜けになっていて、開放感がある。手続きのために茜さんがフロントに向かい、一人でラウンジコーナーに入るとふかふかのソファが出迎えてくれた。すぐにウェルカムドリンクだとコーヒーが運ばれてくる。  自分は今、どういう状況に置かれているのだろうか。  フロントで手続きをしている茜さんの後ろ姿を見ながら、携帯端末を弄ろうとして、でも止めて、を繰り返している。「付き合ってほしい」と言われて付いてきたけれど、何か深刻な話し合いがあるのだろうか。すぐに悪い方向に考えそうになる己から意識を逸らしたくて、視線をめぐらせてみた。ラウンジの大窓からも、海が陽光を受けて煌めているのが見えている。観光客が道路を渡って、すぐそこに見えている桟橋へと向かうのが見えた。 「落としましたよ」  ぼーっと座っているうちにホテルの案内パンフレットを落としてしまったらしい。目の前に差し出されて礼を言うと、突然手首を掴まれて目を丸くしてしまった。 「君、一人?」  手首を掴んできたのは中年の男だった。驚きのあまり動けないでいると、「何か用ですか」と茜さんが割って入ってくれた。 「用がないなら失礼。律、行こう」 「は、はい……!」  低い茜さんの声に緊張しながら立ち上がる。中年の男は、茜さんが現れただけでそそくさと売店の方へ逃げていった。 「茜さん、ありがとう……助けてくれて」  エレベーターに乗ってから、隣に立った茜さんに声をかけると、茜さんが俺を見てきた。気のせいか、ピリっとした雰囲気を感じる。 「掴まれた以外に、変なことはされなかったか?」 「大丈夫。びっくりはしたけど」  そうか、と返した後も茜さんは俺を見ている。程なく目的の階について、海が一望できる大きな窓を通り過ぎてから部屋へと入った。ここで何があるのだろうか。更に不安と緊張が高まったところで、オートロック式なのだろう、カチャリと勝手に鍵がかかる音がした。  部屋の中へと進むと、広いベッドに備え付けのデスク、そして大きな窓からはやはり海が見える。高層階なのもあって、ゆっくりと遠くを航行する大きいタンカーも、小さく見える。  茜さんが先にベッドの縁に座り、俺にも座るよう促してきた。 「律。左の手を出して」 「え? 左の?」  ぎこちなく俺が座ってすぐに、茜さんが口を開いた。俺は茜さんが何をしたいのか分からないまま、左手を差し出す。ごく自然な動作で薬指に指輪を嵌められて、俺は目を見開いた。 (……これ、茜さんから見せられたやつ……?)  入院していた間に見舞いに来た奏が置いて行ったのは、結婚式特集とかが載った雑誌だった。間違って買ってしまったからもらっておけと押し付けられたやつだ。結局家まで持ち帰ったのだが、それを柊太くんが見つけて、やがて茜さんと一緒に指輪の話になった。 (その時、どういうのが好きなのかって、聞かれて……ちょっと酔っていたから、ついつい丸を……)  油性ペンでがっちりとつけた。その後、雑誌はなくなっていたので、茜さんが処分してくれたのだとばかり思っていた。 「茜さん、これ……左手って……」  咄嗟の時、俺は混乱するのだとここ最近で良く分かった。今も次に何と言えば良いのか、考えがまとまらない。何とか口を開こうとしても、訳が分からなくなる。でも、こんな――どうしよう。 「……やはり、喜んではくれないんだな」  慌てている俺を見て、茜さんが自嘲の笑みを浮かべた。いや、喜ぶ? 喜んでいいのだろうか。これを俺が受け取ってしまったら、困るのは茜さんなのではないか。 「退院してからずっと、浮かない顔をしているとは思っていた」  こちらの心を見透かしているような話し方に、俺は茜さんをついじっと見てしまう。真摯なその表情に、罪悪感が湧くのを感じる。 「そんなこと……でも、ほら、俺の体質ってこの先どうなるか分からないし。……オメガなのに、ヒートも来ないなんて、やっぱり変だしさ。もう少し、様子を見た方が……」  なるべく明るく言ったつもりなのに、見返してくる茜さんの強い眼差しから、俺は視線を逸らした。 「様子など見ない。律を逃がさないためだから」 「に、にが……?」  それから強く抱き寄せられて、再び俺は茜さんを見た。そのまま唇に口づけられる。 「律は、自分から婚姻届を俺に渡しておいて、オメガの体質がなくなったら俺の前からいなくなるつもりなのか?」  視線を上げた先にある茜さんの薄い鳶色の瞳は赤みを増している。怒って、いるのだろうか? 何が起こっているのか分からなくて更に動揺し身を捩らせても、茜さんの腕の中から逃げ出すことができない。   「律から引っ越しの相談を受けていると、奏君から聞いた。一人で姿を消して、別なところで暮らすつもりだと。……律にヒートが来なくなったとして、どうして俺が律の手を放すと思うんだ?! 律が俺を信じられないというのなら、時間をかければ良いと思っていたが――そんなことで、律を見捨てる人間だと、俺のことを思っているのか? それで律がいなくなるというのなら、俺もアルファ性を捨てる」 「そんな、違う!! 待って、おれが、引っ越し? えっ?!」  いや、確かに茜さんの幸せのために、自分が身を引いた方が……とか、考えたりもしたけれど。  ふと、ニヤついている友人の顔が脳裏にちらついた。奏が、茜さんに何かを吹き込んだのだ。……そういえば、家から出る前に、奏はどこかに電話をしていた。あの電話の相手が、守正さんではなく茜さんだったとしたら?  誤解を解こうとしても、噛みつくような荒々しい口づけに塞がれて何も反論することができない。息を継ぐのも難しくて黙り込むと、手を繋がれて広いベッドの上に押し倒される。 「茜さん、俺、引っ越すなんて奏に話したりしていないよ!」  更に口づけられそうになったところで、俺は何とか声を出すことができた。茜さんが、俺を見てくる。訝しむような――悲しい目の色で。そんな目をさせてしまったことに、俺はようやく気付いた。 「……あの、俺はさ……、子どもを作るのが、俺の存在する意味だって、親戚たちからもずっと言われていたんだ。もしヒートが来なくなるのなら、俺に何の意味があるんだろうって、今度はそこに不安になって……。前の夫とばったり会っちゃった時も、逃げようとして大変なこと、しちゃうくらい弱いし。でも、発情期もないのに、茜さんのこと……他の誰にも、奪われたくないくらい、好きで、仕方がなくて。俺、茜さんを失望させたりしないかなって、やっぱり不安なんだけど……茜さんの傍に、居座っても……いいですか……?」  自分でも言っていることがめちゃくちゃで情けなさに涙が滲んでくる。俺を見ている茜さんとまともに目を合わせることも、恥ずかしさのあまりできずにいると、茜さんが俺を抱きしめてきて、「良かった」と、ほっと息をつく気配がした。 「もちろん、良いに決まっている……! 律が、また俺の前からいなくなるんじゃないかって思ったら――自分でも、感情を抑えられなくなってしまった。……俺は柊太よりも、子どもなのかもしれない」 「そ、そんなこと……! それより、すっごく熱いね、この部屋」  ようやく微笑が戻った茜さんにひどく安心した俺は、自分の頬のあたりがすごく熱を持っていることに気づいた。手のひらであおぐ真似をしたところで、茜さんが悪戯気に笑んで見せた。それから、俺の首筋に鼻先を押し当ててくる。 「――律。もしかして、気づいていないのか?」 「え? なにが?」  なにに?   混乱しっぱなしの俺に、今度は優しい口づけが降ってくる。ようやくいつもの茜さんらしい雰囲気にほっとしたものの、額や首筋にたくさん口づけられて、くすぐったくなる――はずだった。
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