02

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「いや……俺は別に、貴方にお子さんがいようといまいと気にしないので。俺にはいないです。前夫とは、まあ、没交渉だったので」  慌てふためいて、変なことを口走ってしまった。  こういう時、恋愛から始まった人たちなら苦労しないのだろうな、と思う。ここから短期間で結婚に持っていくって、難しすぎるのではないか。……まあ、前の夫の時だって、母の主導でどんどこ進んで気づいたら同居していたのだけれども。 「気にしないのなら良い。それで、いつ入籍をすればいい? 今日はその話しで来たのだろう」 「ひっ、にゅ、入籍?!」  えええ、もうそこまで話が?! 確かに婚姻届は持たされてはいるし、なんなら俺の方は証人の署名捺印まで済んでいるけれど。初日でこの紙を初対面の男に差し出す勇気が、俺にはない。 「俺の人となり、見なくて大丈夫ですか?! ほら、もしかしたらものすごく性格悪いかもしれないし、贅沢野郎かもしれませんよ」 「人は裏切るものと考えているから問題ない」  ああ、そう。人は裏切るものと思えば怖くない……名言だな。 「そう言ってもらえると、なんか気が楽ですね」 「ここは駅も近い。仕事に不都合がなければ、余っている部屋を使ってもらっても構わないが」  俺に興味はないのか、ポンポンと続けてから男はようやく一息つく。だが、越してきてもいいというニュアンスのことを言われて、俺は顔がにやけそうになるのを堪えるのに必死だった。茜さんが変な生き物を見るような目でこちらを見ている。何とか頬を自分の手で押し上げてにやけそうになるのをごまかそうと試みたが、やっぱりにやけてしまった。 「仕事は在宅なので、ネット環境があればどこでも出来ると言ったらできます……が、住んでいたところに前の夫と、そいつとお付き合いしている女性が住み着いちゃっていて。実家に帰ったら出してもらえなさそうだし、親に振り回されるからそれは嫌で……今はビジネスホテルに仮住まい中です。家賃も払うので、居候させてもらっても良いでしょうか」 「構わない。君の、ヒートの周期は?」  へわっ、と更に変な声を出してしまった。発情期(ヒート)の周期。そんなもの、生まれて初めて聞かれたかもしれない。妄想を一気に働かせた俺の赤い顔を見たのか、茜さんは軽く眉根を寄せた。……もしかして、困っているのだろうか。 「俺の前の妻はアルファだったから、オメガ特有のヒートのことは分からないんだ。見当違いなことを聞いていたらすまない」 「アルファはアルファ同士っていうのが当たり前ですもんね。……俺は、抑制剤って言って、ヒートを抑える薬をもらっているので。飲み忘れない限りヒートは来ないので、安心してください」  アルファという性は、いろんな人がいる中でも特に選ばれた者たちだ。それこそ、群れのリーダーの資格を持つ者たち。アルファ同士の結婚は最上の幸せとも言われていて、皆の憧れの的でもある。だが、そんなアルファ同士でも上手くいかないこともあるんだな。そして、茜さんはと言えばますます眉間の皺を深くしている。あれ、もしかして俺は気に障ることを言ってしまったのだろうか。 「抑制剤の存在は、俺も知っている。しかし、薬で抑えていて大丈夫なのか? 身体に不調があったりとかは。もし柊太のことを心配しているのなら、元々週末は実家に泊まりに行っていることが多いから、ヒートの時は長く泊めてもらえるように頼んであるが」 「いやっ、そんな……柊太くんがお父さんの傍にいたくても、俺のせいで傍にいられないとか、そういうのはダメです。俺、柊太くんや茜さんの幸せを壊したいわけじゃなくて……」  なんだろう、茜さんが変な生き物を見るような目で見ているぞ。 「そのことについては追々話し合うことにしよう。それで? 荷物はどこにあるんだ。今からでも取りに行けるが」 「え? あの……ビジネスホテルに、とりあえず」  分かった、車を出そうと茜さんが立ち上がる。「柊太」と低いけれど柔らかな声が子どもの名を呼び、少し置いて「はーい」と可愛らしい返事がある。  とんとん、と軽やかに階段を駆け下りてくると、お子さま――柊太くんは真っ先にテーブルの上に置かれていたプラスチックのコップに手を伸ばした。 「柊太。こちらは、宵待律さんだ。今日から一緒にこの家に住む。ご挨拶しなさい」 「わー! よいまち、りつちゃん? あの、あかねしゅうたですよ。りつちゃん、きれい。りつちゃんのおめめ、ぼくすきだなあ」  俺は目を見開いて固まった。なんだ、この可愛らしい生き物は。柊太くんの口元は牛乳で白くなっている。その笑顔の眩しさに心を撃ち抜かれてしまった。俺は胸元を押さえながら、「ティッシュもらいますね」と一応断りを入れて、間近にあったティッシュペーパーで、小さな口周りを白く染めている牛乳をふき取る。 「柊太、よろしくお願いします、だろう」 「よろしくおねがいしまーす」  コップを抱えたままニコニコと笑ってくる。「すまない」と茜さんが俺に声をかけてきた。それから、俺が握りしめていた柊太くんの口許を拭いたティッシュをそっと取り去る。 「紫色の瞳か。……俺も、綺麗だと思う」  それから、ぼそっと目の前で茜さんが呟いた。無愛想に見えるのに、心なしか顔が赤いような。オメガの特性を持つ人間の特徴の一つに、紫や青といった目の色が出やすいというのがある。オメガなら当たり前なので気にしてもいなかったけれど、さりげなく褒められるとくすぐったくなる。    ――思ったよりも、明日からはいい日になりそうだ。
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