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「これー! これ、みたかったの!」 「そっかあ、良かったね」  リビングから楽しそうな声が聞こえてくる。「りつちゃんがいるからはやくかえりたい」と朝早く柊太が帰ってきたのだ。  茜家はいつも同じ日々の繰り返しが多い。時々柊太が風邪を引いて熱を出したり、涼の仕事が遅くなり実家にそのまま柊太が泊まって朝迎えに行くことがあったり、といったことがあるくらいだ。それでも柊太と過ごすことが多い日曜はどこかへ出かけるようにはしていたが、結局は毎日、毎週同じことの繰り返しといえる。  そんな茜家に、ある日律という名の青年がやって来た。実は、律と涼はまったくの初対面ではないのだが、律は覚えていないらしい。そのくらい、涼にとっては印象的ではあっても、律からみれば何でもない日常の一場面だったのかもしれない。  前妻と離婚し、柊太に絡むいざこざがようやく落ち着いて柊太と二人の生活が始まって間もない頃のことだった。柊太が以前美味しいと言っていた、洋菓子店のプリンを買って帰ろうかと会社の帰りに寄った時。人気のそのプリンは最後の一個だった。隣にいた青年が手を伸ばしたことに気づかず、涼もそれに手を伸ばしてしまったのだが、驚いたようにこちらを見てきた青年は嫌な顔をせず、むしろ笑顔で「美味しいですから、ぜひ」と言って客なのに何故か涼に勧めてきた。また別の機会に買うから、と涼も引こうとしたのに、「俺は昨日も食べたので大丈夫」とかなんとか、そういったことを言って別なケーキを選び始めた。  前妻の裏切りや柊太に絡むことなどで、自分が思っていた以上に心が擦り切れていたのかもしれない。青年にとっては何気ないことだったのかもしれないが、そのやり取りが――その時の青年の優しい笑顔が、涼にとって印象深いこととして今も心に残っている。だから、まったくの偶然だとしても実家からあの時の青年が写った写真と共に見合いについて話を持ち出され、すぐに承諾した。柊太のことを律の親が青年に伝えていなかったのは想定外だったが、また言葉を交わせたら、という涼の願望が叶ってしまった。だが、それらを律に不安がらせずに伝えられるほど、涼は話し上手ではない。 「みてみて。あのねえ、あのこ! りつちゃんににているの」 「んん? どれどれ?」  キッチンから戻ってきた涼の視界に、柊太のために録画していたアニメ映画が映りこむ。律も涼と一緒に見ていたはずだが、そういえばほとんど二人でたわいない話をしていて、気づいたら終わっていたのだったか。 「ゆにこーんっていうんだよ。ほら、りつちゃんとおなじ、むらさきのおめめなの」 「似ているっていうけど、あんな綺麗じゃないと思うなあ。でも、なんか嬉しいから俺の隠しチョコをこっそり上げよう」  やったあ、と柊太が笑い声をあげる。柊太はいつもニコニコしている子だが、大人の前で大きな声を出すことはほとんどしない。小さな子どもなのに、意図して声を出さないように、気を付けている。それをどうにかしてやりたいと思っても、口数が少ない方の涼ではなかなか上手くいかない。  しかし、律がその間に入ると柊太は素直に声を出せるようだ。父親として頑張ってきたつもりで、己の至らなさが恥ずかしくも感じるが、涼自身もすんなり打ち解けてしまった実感はあるので、律という青年が特別なのだろう、と思う。 「チョコなんてどこに隠していたんだ」 「うわあっ、茜さんが! 茜さんがまた笑っている!」  気づいたら頬が緩んでいたらしい。律が目を丸くしたところで、柊太は笑顔のまま律の肩を小さな手のひらでトントンと叩いた。 「あのね、りつちゃん。パパ、へんなことですっごくわらうよ」 「へんなことって、どういうやつ? 気になるなあ」  柊太の笑顔が律にも移ったみたいに、青年も紫色の瞳を細めて笑っている。 「柊太。ホットケーキを焼くから、テーブルの上の物を片付けておいで」  やったあ! と柊太が高い声を上げた。「えっ、茜さんが?!」と青年が驚いている。 「ぼく、パパのほっとけーき、だいすきなの。とってもいいにおいなんだもん」 「できたら呼ぶから。テレビも今は止めなさい」  はあい、と柊太は聞き分けよくテレビを見るのを止めると、テーブルの上に広げていたラクガキ帳やクレヨンを両手いっぱいに持つと、中二階にある自分の部屋へと駆けていく。 「俺も手伝うよ」 「いや、座っていてくれ」  そう? と青年が立ち上がりながら涼のところまで来ると、涼の手許を覗き込んできた。 「茜さん、料理するんだね」 「ホットケーキは料理に入るのか?」  入るでしょ、と律がまた笑った。それが一段とまた可愛く思えて――手が、勝手に青年の髪に触れる。青年の美しい紫の瞳が、驚きなのか大きく見開かれ、涼を見上げてきた。 「かたづけたよおーーー!」  階段を駆け下りると共に、柊太が律に後ろから飛びつく。「ぬお!」と声を出した律が面白かったのか、柊太がまた声を立てて笑う。 「……律は子どもの扱いに慣れているな」  差し伸ばしかけていた手を戻して話しかけると、青年はふと、寂し気な笑みを浮かべた。 「俺の親戚、子持ちが多いからさ。集まると小さいのがわっちゃわっちゃするんだ。面倒見るの、好きなんだよ。何故か俺の前だと素に戻って喧嘩とか始めたりするから、大声出したりもしちゃうけどね。自分がオメガじゃなければ保育士とか、先生とか、子どもに関わる仕事がしたかった。だから、そう言ってもらえると嬉しい」 「りつちゃん、せんせい?」  違うぞー、と青年がまた笑う。律の寂しげな笑顔の理由を問いたかったけれど、「ぼくのほっとけーきは?」と柊太が尋ねてくる。 「よし、柊太くんは俺と一緒にテーブルを拭こう大作戦だな!」 「はーい!」  やるぞー、と二人でリビングへと戻っていく。その背を見ながら、涼の口許は再び緩むのだった。
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