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05
茜家にお世話になって、だいぶ落ち着いたある日のこと。
「はあ?! もう新しい男と暮らしているのか!?」
「こっ、声が大きいよ、ひかりちゃん」
しい、と慌てて従兄弟の光を窘める。初めての結婚で失敗したのを省みて、俺は母親に茜さんとのことは内緒にしておいてくれと口止めをしていたはずなのだ。それなのに、朝の洗濯やら掃除やらを終わらせて、さあコーヒーでも飲みながらぼちぼち仕事を進めようか、というところで光から呼び出され、今に至る。
光は俺と同じ年齢だ。家が近所同士なのもあって、従兄弟の中でも特に仲が良い。このオメガという厄介な体質のせいで友人はできにくかったが、光が一緒だったお蔭で寂しい思いをしなくて済んだ。宵待の一族はほとんどがアルファで、オメガは俺と亡くなった祖母だけ。
母親もオメガの俺を持て余しているくらいなのに、俺と年齢が同じというせいで、光は厄介者の俺のお助け係にさせられてきた。本人は楽しいから気にしていない、とは言ってくれるけれど。変わり者、と他の従兄弟たちからかわれても他の親戚たちとは違い、距離を置かず付き合ってくれていた。
「だって、お前……実家に帰ってくるらしいって聞いて、楽しみに待っていたんだぞ!! なのに中々帰って来ないから、心配して叔母さんに聞いてみれば……!」
「また失敗しました、なんて言ったらそれこそみんなから大笑いされちゃうでしょう。ひかりちゃんだって……笑うよ」
オレは笑ったりしない、と力強い黒瞳がまっすぐに俺を見てくる。昔から、光はこんな風だ。何かあるとすぐ心配してくれるのだが、本当に心配させてしまうのが分かるから、俺は迂闊なことを言わないように気を付けている。母親には、事務的に連絡することが出来るけれど。
「そんな、見も知らぬ男といきなり同棲って、大丈夫なのか? まさか、ヒートの時に無理やり、なんてことは……」
「ひかりちゃん。茜さんのこと悪く言うの、止めろよ。会ったことすらないじゃないか」
じゃあ会わせろよ、と光がふて腐れる。身長も俺なんかよりずっと高くて、体つきもかなりしっかりしている。そんな光がふて腐れると、本人には可哀そうだが大きな犬が拗ねて伏せているような、そんな風に見えてしまう。
「入籍したら、お互いの親戚のところにも挨拶まわり行こうとは思っているけど。まだ、いつにしようか決まってないから」
「結婚なら、オレとだって出来る。オレは生まれた時からずっと律の傍にいるんだぞ。今なら遅くないから、オレとしよう。……他の男にボロボロにされる律なんて、オレがもう耐えられないよ」
大きな手のひらで、光が自分の顔を覆う。光は物心ついた時から、ことあるごとに「結婚しよう」と俺に言っては周囲に笑われていた。大事な身内に心配させてしまう自分がこういう時、情けなく感じる。
「生まれた時から一緒のひかりちゃんと、結婚なんてそれこそ考えられないよ。それに、茜さんとも無理だったら、俺には結婚とか、そういうの向いてないんだって母さんにも分かってもらえる気がする。……俺は、ひとりでも良いんだ」
良くない! とまた光が大声を出して周囲のテーブルの客を驚かせる。さすがにそろそろ喫茶店から出た方が良いだろう。
「ひかりちゃん、そろそろ外に出よう」
「……その茜って男に会わせるって約束するまで、今日は離れないからな」
完全に光が意固地になっている。子どもの頃からこういうところはあったけれど、光も賛成していた前の夫との結婚に失敗してから、光の心配性が悪化した気がする。前の夫の裏切りに、俺よりも怒っていたのは光だ。光がすごく怒っているのに、怒りたい気持ちになれない俺は変なのかな、とぼうっとしていたのはまだ少し前のことに思える。
ごねる光を連れて会計を済ませると、通りの向こうからスーツを着た茜さんがこちらに向かってくるのが見えた。茜さんの隣にも、男性がいる。二人ともビジネスバッグを持っているので、どこかへ仕事で向かっている途中なのだろう。それにしても、ここは茜さんの会社のすぐ傍というわけじゃないのに、偶然会うということもあるものだ。茜さんも俺に気づいたらしく、離れてはいるけれど視線が合った。
目ざとい光が、俺の視線の先にいる背の高い男性に気づき、「まさか」と呟く。光のこともあるけれど、それよりも茜さんの同僚がいるという状況はまずい。俺は一体、どういう立場で挨拶すれば良いのか、全く分からない。今ならさっと別な道に逃げることもできるな、と後退ろうとすると、光の大きな手が俺の腕をがっしりと掴んだ。俺がじたばたとしているうちに、茜さんが急ぎ足で近づいてきた。
「律! 大丈夫か?」
いつになく、はっきりとした大きな茜さんの声。茜さんの方に駆け寄ろうとして、けれど光の手が離してくれない。「ひかりちゃん、痛いってば」とあまりの痛さに抗議の声を上げると、「ひかりちゃん……?」と茜さんも怪訝そうな声を出した。
「知り合いのようだが、律から手を離してほしい。痛がっているだろう」
「あんたに指図されるいわれはない。律は実家に連れ帰らせてもらう。たかだかちょっとの間同居したくらいで、彼氏面とかしてくるんじゃねえよ。こっちは生まれた時からずっと一緒なんだぞ」
はあ? と呆気に取られてしまい、気の抜けた声が出てしまった。こんな真っ昼間から、仕事中の相手に何を言い出すのだろう。しかも、茜さんは茜さんで光を見る目つきが鋭い。一見、無表情だし無愛想に思えるけど、茜さんは穏やかな人だと思う。その茜さんが、怒っているように――俺には思えた。
「君は生まれた時から一緒だというのに、律が本気で痛がっているのを理解できないのか?」
挟まれた。どうしよう、と困っているうちに、茜さんの言葉を受けてか、光が俺を掴んでいた力が緩む。けれど、光の手は震えていた。茜さんがより近づいてきて、俺を掴んでいる光の腕に手を差し伸ばしたのを、光が思いっきり払おうとする。俺の身体は勝手に動いて、光から離れると茜さんの方へ俺は駆け寄った。力加減をせずに相手を除けようとした光の腕に身体が当たり、衝撃を受ける。自分の予想よりも強いその力で、地面に転がりそうになったのだが誰かに助けられていた。
茜さんと、同僚の人だ。
「嘘だ……、りつ……オレ、ごめん……!」
「いったいなー! ひかりちゃん、そんな馬鹿力で茜さんを押しのけようとか、本気で止めろよ!」
俺の怒りに、光は大きな体を小さくして謝ってくる。自分が声を出して怒ったのは、久しぶりに思えた。
「茜さん、同僚さん、ごめんなさい……お仕事中なのに」
「いえ、こちらは大丈夫ですよ」
こちらもすまないと茜さんが、同僚さんに被せながら落ち着いた声で返してきた。
「ほら、ひかりちゃんはとにかく、帰って!」
「……律も一緒なら、帰る」
またあ、と俺が文句を言おうとしたところで、俺を抱き留めていた茜さんに、緊張が走るのを感じた……気がした。
「興奮状態の君と、律が一緒に行くのを黙って見過ごすことはできない。どうか一人でお引き取り願いたい」
何度でも言いたくなるが、ここは日中の、人目もある歩道だ。さすがに周囲の目にも気づいたらしい光は、「……悪かった」と言い置いて踵を返した。大きな体が地下鉄の入り口に消えていくのを見送ってから、「俺の従兄弟が、色々とすみませんでした」と改めて二人に謝る。返ってきたのは「従兄弟だったのか……」という安堵したような、茜さんの声だった。
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