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06
「茜主任。それで、さっきの美青年はどちら様なんですか」
ニヤニヤとした顔つきで聞いてきた同僚に、涼はうんざりとしながら嘆息を返した。
同僚に断って律を家の近くまで送った帰り、軽めの昼食を済ませて社に戻る途中だ。同僚――神崎は涼と同じ課で、柊太の迎えがある涼を良くフォローしてくれる気のおけない人間だが、詮索好きのきらいがある。
「神崎だから言うが、あの子は俺のパートナーになる……予定だ」
「ええっ、茜主任にようやく再び春が?! いやあー、さっきは思いっきりぎゅっとしていたし、そうなのかなと思っていましたけどねー。最近なんとなくウキウキしている? って思っていたけど、そういうことかあ。後輩としてはやっぱり嬉しいですね。あれ、そういえば紫色の瞳ってことは、パートナーさんってオメガ性ですよね? オメガ性の人は綺麗なことが多いっていうけど、本当なんだ。綺麗というか、可愛い? 男っていうか、なんか別の生き物って感じの可愛さ……」
神崎が話すのをそこまで聞いてから相手を見ると、「主任、目つき悪いですよ」とおどけた風に返された。
「ちなみにパートナーさん、柊太くんのことは……」
「初日に話したし、柊太は俺よりも律の方に懐いている気がする」
ほうほう、律さんって言うんですね、とすかさず神崎が相槌を打ってきた。
「え、待って……主任! その口ぶりだと、まさかですけど、もう一緒に暮らして……? 柊太くんと律さんの組み合わせって、想像するだけで可愛すぎやしません? ぜひ今度、茜主任のお宅に訪問を……」
「関係者以外立ち入り禁止だ」
そんなあ、と神崎が大げさに嘆いてみせたところで、涼たちの会社も入っているオフィスビルの入り口へと到着した。
ことあるごとにニヤけた顔をで涼を見てくる神崎を制しながら一日を終え、柊太を保育園に迎えに行き、実家に寄る。今日は金曜日だ。涼の帰り時間などもあるが、柊太は金曜から実家に泊まることが多い。今日も柊太は泊めてもらうことになっていた。
「ばーちゃん、こんばんは!」
いらっしゃい、と実母が嬉しそうな声で柊太を迎え入れた。ここまではいつも通りだが、柊太が勝手知ったる祖父母宅にさっさと駆け込んでいくのを見送っていると、「……で」と涼の母が口を開いた。涼の家も元々はご立派な家系につながるらしいが、それは曾祖父くらいまでの話で、祖父の代で分家となった。父は涼が勤める会社とは異業種で社長をしているくらいで、そちらは姉が継ぐ話になっている。律の実家は名うての財閥で涼の家とは遠戚の誰かと繋がりがあるらしいのだが、よくそこからうちに話が来たものだと両親の方が驚いていた。
「宵待さんとは、大丈夫なの? しゅうちゃんは、『りつちゃん大好き』ってずっと言っているけど……」
「――ああ」
前妻との離婚の時は、両親にも心配をかけることになってしまった。本当は血のつながらない柊太のことを、何もかも分かった上で可愛がってくれる両親。
「うちのことは気にしなくていいからね。宵待さんも、どうしてうちに声をかけたのかしらねえ」
心配顔で母親にそう話しかけられて、何故か不意に笑いがこみあげてきた。「涼?」と訝し気に母親が声をかけてくる。
「……無理はしていない。律の方が、無理をしているかもしれないが……律との話を俺にもらえて、感謝している」
少し前に、アルファとオメガの間には運命の繋がりがあるというテーマでヒットし、映画化までした小説があった。その映画のようにキラキラしいものではないが、この不思議な縁が運命の繋がりだったら良いのにとすら思う自分は、神崎に指摘された通り浮かれているのかもしれない。
「柊太をお願いします」
はいはい、と言いながら、実母がほっとした笑みを浮かべた。それを見てから踵を返すと、辺りはすっかりと暗くなっている。
柊太は今日も、涼に「バイバイ」を言うことはなかった。
***
実家から程なくして家につき、鍵を開けても真っ暗なことに涼は訝しみ、目を細めた。いつもなら青年が自分用に用意した夕食の匂いや入浴剤の香りなどがするのに、仄かに漂う花の香りくらいだ。もしかしたら、あの後真っすぐに家に帰らなかったのかと不安が胸をよぎる。程なくしてリビングの照明もつけたところで――涼は己の口許を手のひらで覆った。口許が、勝手に緩みそうになる。律は、三人掛けのソファの上で寝ていた。
「律、もう夜だぞ」
一息ついてから、近づいて声をかけると、青年の身動ぎと共に先ほど嗅ぎ取った花の香りが漂った。その香りは心地良いものでありながら、何か己の本能をくすぐるような、不思議な作用をしてくる。
(もしかして、発情期が近い……?)
オメガである律を迎え入れるにあたって、念のためオメガの特質については調べてある。文字の上では理解できても、元々オメガという特殊な性を持つ者の人口は圧倒的に少ない。弱者として手厚く庇護されるか、社会のマイノリティとして――正しく、社会の群れの中の『オメガ』として不当な扱いを受けるかの、どちらかであることが多い。ふつうの生活を営んでいたら、すれ違うこともほとんどない少数者――彼らが時に不当な扱いを受けるのは、数ヵ月に一度の周期であることが多い発情期があるからだ。特に男性体のオメガは不要な存在などと過激な宗教者が口走ることも歴史の中ではあったというが、彼らの存在にも意味があるという。
アルファの中には、何故かオメガとの間にしか子を成せない者が一定数いる。涼もその体質である。それは前妻と柊太の親権を争った時に偶発的に知ってしまった事実だが、そういう体質を持つアルファたちのために、オメガは存在するのだと主張する者もいるらしい。その考えは、好きではないけれど。
「……律?」
んー、と青年が寝言を返してきた。律は明るい表情をすることが多いから、オメガ特有の儚げな印象はない。それでも、こうして目をとじていると顔の造形の美しさ、首や腰の細さなどに気づく。それくらい、普段の青年自身と接している時間が楽しいのだと気づかされる。
今日の昼下がり。律を奪われるかもしれない、ということへの危機感を募らせ、苛立ったのは初めてだった。
青年が起きないのをいいことに、触れるだけの口づけをしてしまった己の挙動に自分で驚いて、涼は深く息を吐き出した。「律、夕飯は食べたのか?」と問うと、ようやく青年の紫色の瞳が瞬き、こちらを見上げてきた。
「あれえ、茜さんだ。おかえりなさい」
「ああ、ただいま。……具合が悪いのか?」
そう尋ねると、「んー」とどちらとも取れない呻きを発しつつ、青年は上体を起こすとあくびを一つした。
「ヒートが近いと体調が悪くなることとか、あるんじゃないのか? あるなら、今日は無理しないで寝てしまった方が良いかもしれない」
「ん、だいじょうぶ。ヒート近くなっちゃったから、薬飲んだけど……ほら、毎日飲むわけじゃないからさ。最初の飲み始めだけ、すごく眠くなるんだよねえ」
ふわあ、とまた律が大きなあくびをする。隣に座って柔らかな髪にできた寝癖を撫でつけても、青年は目をとじて笑っているだけだ。
「まだ薬を飲んでいたのか。薬を飲まないと、乗り越えられないくらい辛いものなのか?」
いやー、その、と青年がようやく目を開いて、困り顔になった。
「辛いというか……その、迷惑だから」
「迷惑じゃない。第一、薬を飲んで副作用が出ている方が、俺は気になる。無理はしなくて良い。発情期が来る方が、ふつうなのだろう? ……パートナーになるのに、律が辛くて飲んでいるわけじゃないのなら……俺は、そのままで良いと思う」
律がきょとんした顔になった。それから顔が赤くなっていくのを見て、こちらまで気恥ずかしくなってくる。薬を飲んだというのなら、まだ仄かに漂っている快い香りも消えていくのだろう。それは勿体ない気すらした。
「触れても、大丈夫か?」
「え? ……も、もちろん。どうぞ」
そう言って頭を差し出してきた青年の可愛らしさに、また口許が緩む。柔らかな黒髪に口づけてから、青年の唇を奪うと、思った以上に舌の動きがたどたどしい。少しして顔を離すと、先ほどよりも律の顔が盛大に赤くなっていた。
「……あの……実は俺、こういうの初めてで……気持ち悪く、ない?」
「いや、もっとしたいくらいだが……そうか」
そういえば、ここに来た初日に、前の夫とは没交渉だったと律自身が言っていた。先ほどのたどたどしさ……口づけすら、まともにしなかったのだろうか。
「もう少しでちゃんと薬が効いてくるから。もし茜さんが大丈夫なら、薬が効くまで、くっついていても……いい……?」
「いくらでも、どうぞ」
自分でもおどけた口調だとは思ったがそう返すと、青年は自身の顔をそのまま涼の胸元に埋めてきた。抱きしめてみると、びくりと体が一度だけ震えたものの、すぐに落ち着くのが分かる。
「今日は色々、迷惑かけてごめんなさい。ひかりちゃんは従兄弟の中で一番仲が良いんだけど、心配性なところがあって……」
「……律の嫌な相手じゃなければ、とりあえず良い。腹は空かないのか?」
大丈夫、と小さく返ってくる。もう寝てしまいそうな律をもう一度起こし、風呂や寝る支度を手伝ったところで、少し悩んでから涼は自分の寝台に律を寝かせた。眠くなるだけとは言っていたが、薬の副作用が他にないのか心配だったのと――自分でも驚くくらい、離れがたい気持ちがあったからだ。
「帰りに、シュクレってお店のプリン買ってきたから……柊太くんが帰ってきたら、さんにんで……たべよ……」
とってもおいしいから、と眠そうな声が続く。
――知っている。律を見かけたのは、その店だったから。
「おやすみ」
再び寝息を立て始めた青年の額に口づけると、自分でも思っていなかった程の熱量に戸惑い、苦笑が漏れた。
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