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「りつちゃん! ただいまあー!」 「おかえりなさーい。柊太くん、パパ忘れているよー」  もうぱぱもいるよーと明るい声が返ってくる。  だいぶ日が昇ってから、俺は何故か茜さんの部屋のベッドで目が覚めた。昨日、ヒートが近い気がして抑制剤を飲んでからというもの、ずーっとぼんやりとしていた。そこに茜さんが帰ってきたところまでは何となく記憶に残っているのに、何がどうしてこうなったのか。とりあえず、ちゃんと部屋着は着ているし体調も良い。粗相をしたわけじゃない、と自分に言い聞かせてベッドから降りる。  リビングまで茜さんを探しに行っても姿が見えず、待っても帰ってくる気配もなく。どうしようかと途方に暮れたところで、元気よく玄関の扉が開いたわけだ。 「律、起きたのか。……体調は?」 「お、オハヨウゴザイマス。すごく、元気」  小さい子どもよりもひどい返事だな、と自分で返していて泣きたくなる。しかし、何故か茜さんの顔をまともに見ることができなくなっていて、そんな自分に戸惑う。夢だと思いたいが、茜さんと――キスを、した気がするような、しないような。 「あーーー! しゅくれのぷりんだあ! だれ? だれがかってきてくれたの?!」 「律ちゃんが買ってきてくれた」  そうなの? とパアア、と音が聞こえそうな勢いで、柊太くんの満面の笑顔が俺を見上げてきた。ついでに、茜さんにちゃん付で呼ばれると……とてもくすぐったい気持ちになる。 「りつちゃん、ありがとう! ちゃんとさんにんぶん、あるね。いっしょにたべようね」  ホクホクとした顔で、柊太くんは三人分のスプーンを用意し始める。三時のおやつにと考えていたのだが、そういえば空腹だ。柊太くんとプリンを準備する。その合間に、柊太くんが「ぼくねえ、しゅくれのぷりんだいすきなの」と教えてくれた。 「あれ、シュクレ知っていたんだ。近所だから当たり前か……とっても美味しいしね」 「うん、だいすき! ぱぱも、だいすきだよ」  洗濯かごを持っていた茜さんが、「呼んだか?」と声をかけてきた。 「ぱぱぁー! ぱぱも、しゅくれだいすきだよね。ときどき、かってきてくれるもん、ぷりん」 「そうだったんだ。もしかして俺たち、シュクレで会っていたりして」  冗談めかして茜さんに話しかけると、茜さんが洗濯かごを持ったまま固まってしまった。 「あ。俺がやるよ、洗濯」 「……いや、もう洗濯機は回してきたから……」  ふい、と茜さんが視線を逸らす。やっぱり、俺は昨日の夜、何かをやらかしたのだろうか。  段々不安になってきたところで、茜さんの携帯電話から機械的な音が流れた。「ぱぱ、おでんわだよー!」と元気いっぱいの声が茜さんを呼ぶ。茜さんは急ぐでもなく携帯電話を確認して、嘆息した。ああ、分かる。会社からなのだろう。席を外し、すぐに戻ってきた茜さんの片手には、ジャケットがあった。 「少し、会社に行ってくる。柊太は……」 「柊太くんが嫌じゃなければ、俺が一緒にいるけど」  柊太くんはスプーンでプリンをすくったまま、父親である茜さんを見ている。いつでもニッコニコなのに、今だけは不安そうな顔で茜さんを見ていたのが心配になって、俺も茜さんを見た。 「柊太も一緒に行こう」  うん、とすぐ返事をするのかと思ったのに、柊太くんはふるふると首を横に振ると、ぱくんとプリンを一口食べた。 「だいじょうぶ。りつちゃん、ひとりじゃさみしいから。ぼく、りつちゃんとまってる」 「……そうか。律、柊太をお願いしてもいいだろうか」  もちろん! いってらっしゃい、と俺が言うと、茜さんはいつもの無表情で頷くのだった。  二人でプリンを食べ終え、残った茜さんの分を柊太くんが大事そうに冷蔵庫へと運ぶ。 「よっし。じゃあ二人でブロックでも作ろうか?」 「ええー、たたかいごっこがいいなあ」  元気がないのかと心配して声をかけたものの、すぐにいつもの調子で返ってくる。けれど、いつもと同じ、というのが突然気になった。俺の親戚のチビたちは柊太くんみたいに聞き分けの良い子の方が少ない。みんな大抵我儘だし、眠い、腹が減ったとなれば多少不機嫌になったり、やけにテンションが上がったりする。柊太くんも、うちの親戚のチビたちとそんなに年齢は変わらないのに、ここまで聞き分けが良いままって、出来るのだろうか。 「たたかいごっこもいいねー」 「じゃあ、ひみつきちにいこー!」  満面の笑顔。二人で柊太くんの部屋に行くと、あちこちにオモチャが落ちているのを見ると、俺はかえって安心する。片付けまで完璧だったら……とか、変な心配をしてしまうからだ。それでも、だいぶ綺麗な方だとは思うが。 「ぼく、れっどやってもいい?」 「おっ、格好良さそう。ベルトはつけなくていいのか?」  べるとはらいだーだよ、と得意満面な顔で教えてくれるのが、これまた可愛らしい。オモチャにしては立派な、戦隊モノ用の剣を持った柊太くんに対して、俺はとりあえずオモチャ箱に突っ込んであった鬼の仮面を被ってみた。節分の日に用意して、そのまま仕舞い忘れたのだろう。 「わあ、おにだー! やっつけるー!」 「ふぉっふぉっ、君にこの私が、やっつけられますかねえ」  わあああ! と柊太くんが歓声を上げた時。  ピンポーン、と扉の方から呼び鈴が鳴った。茜さんだろうか、と思ったが、鍵を持っているのにわざわざ呼び鈴を鳴らすだろうか。「おきゃくさんかなあ」と呟いた柊太くんと一緒に玄関用のモニタのところまで行くと、モニタには綺麗な女性が一人、映っていた。だが、おかしい。ここはエントランスにもセキュリティがあり、まずエントランス側から呼んでもらわないと扉は開かない。わざと誰かの後ろについて道連れで入ったりしない限りは。  茜さんが出かけてからすぐに柊太くんと遊び始めたのだから、俺も柊太くんもエントランスの方のドアをどうにか、なんてしていない。 「……あ」  俺が止めるよりも先に通話ボタンを押してから、まま、とポツリと柊太くんが呟いた。しかし、感情をごっそりとどこかに忘れてきてしまったような、空虚な表情に俺はびっくりしながら、とりあえず通話ボタンを切る。まったくの見知らぬ他人ではないらしいことは分かった。それにしても、柊太くんの顔色がどんどんと白くなっていく。 (柊太くんは、茜さんと血の繋がりはないって……でも、戸籍は茜さんの子って、言ってたから……)  幼い子がいる夫婦が離婚した場合、圧倒的に母親が親権を持つことが多い。父親が子どもを愛情持って育てると声高に言ったって、覆すことはかなり難しい。しかし、母親が親権を放棄したとか、第三者から見ても明らかな事案があればその限りではない。柊太くんの様子から見て、俺は一番考えたくないケースを想定した。 「よっし。じゃあさ、悪い鬼は今だけ、戦隊レッドの味方になってあげましょう。パパレッドがすぐ帰ってくるから大丈夫。部屋で待っていて。鬼は鬼がやっつけるものだからね」  泣きそうな顔で柊太くんは頷くと、俺にレッドの大事な剣を渡してきた。  階段を上がっていく足音を聞き届けてから、俺は再びモニターの通話ボタンを押した。
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