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 足取りが重い。  どうしても行きたくなくて、わざわざ徒歩にしたのに、ひたすら歩いていれば目的地についてしまう。まったく知らない土地なら迷うということもできるのに、残念ながらこの辺りには土地勘がある。俺のお気に入りの、洋菓子店の近所だからだ。 『ちゃんと新しい婿殿は用意しましたからね』  いまどき、婿殿なんて使うだろうか。そんなもの、用意してくれなくていい。俺は俺で、残りの人生を好きに生きたいのだ。  オメガになんて生まれるもんじゃない。定期的な発情期は抑制剤で紛らわせるにしても、こんな時代に『血統』とやらを大事にする高尚な家に生まれてしまったせいで、望まない結婚をさせられ……とっくの昔に失敗した。 『ああ、前の? 折角良いおうちのアルファさんだったけれどねえ。でも、婿殿が他所の女と子どもを作るなんて言語道断。今度はちゃんと、自分に振り向かせて種を頂きなさい』  無茶ぶりが過ぎる。  男でも、子を成せるという特性を持つオメガはただでさえ自由が少ない。子を成すのに集中してしまったような身体だから、働くことにも向いていない。それでも発情期を必死にやり過ごしながら生きている俺を、母たちは全否定する。とっとと子を成せとうるさい。前の夫は、政治家の家系な上に顔の造形も良くできていて、母はイチコロだった。  だが、前夫との結婚生活は惨めなものだった。我が家は財閥とか呼ばれて確かに資産はあるけれど、それは祖先の代からコツコツと、それぞれがきちんと職分を果たして積み上げてきたものだ。よって、働かないで生きていきたいなんて、甘いことを言ったら殴られる。前の夫は働きもせず、俺が仕事に打ち合わせに出かけている間に、胸の大きい女を自宅に連れ込んでいた。やるならせめてホテルとかにしろよ。ばーかばーか。俺が作ったご飯を生ごみ入れに投げ捨てていたのは、絶対に許さないからな。 (……ああ、嫌なことを思い出してしまった)  捨て台詞は、「お前に胸がないから悪い!」だった。そんなもん、豊胸手術でもして自分につければいいだろうが。  俺だって、初めての結婚だったし、いくら親が決めたと言っても仲良くなるために頑張ったつもりだった。けれど、俺の努力なんて必要とされていなかったのだ。そう、あの男は俺のすべてを、否定した。 「ここかあ」  新しい婿殿とやらは先祖が貴族だったとか、そんなことを言っていた。お父さんは名の知られた企業の社長さんだけれど、お姉さんが継ぐから新しい婿殿は普通に会社員をしているらしい。うちの親の選定基準は謎が多いが、現在お金持ちかどうかではなく、どういう血筋なのかが重要視するポイントなのかもしれない。  マンションの入り口で何度も部屋番号を確認し、緊張しながらパネルを操作すると、留守だったらいいなという俺の浅はかな希望を打ち砕いて低い声が応答した。 「あの、宵待(よいまち)と申しますが……」 『ああ』  ああ? 返事が短いにもほどがあるのでは。とりあえず、目の前の扉は颯爽と開いた。処刑台に向かう罪人のように俯きながら中に入り、新しい婿殿が住まうお部屋へと向かう。俺はいったい、何のために生きているのだろう。  何度も部屋番号を確認しながら一つの部屋の前に立った。玄関に備え付けられたモニターを鳴らす。玄関の戸を細く開けてひょこりと顔を覗かせたのは、小さなお子さまだった。 「いらっしゃあああい!!」  ぱああ、という擬音が聞こえてきそうなくらいの満面の笑み。 「い、いらっしゃいました! ふつつか者ですが……」  玄関先でしゃがみこみ、お子さまの視線に合わせて挨拶をしていたら、大きく扉が開いた。 「……どうぞ」  あれ、さっきの声の人。「なかへどうぞー」と小さなお子さまが俺の手をきゅっと握り、中へエスコートをしてくれる。ああ、なんか幸せ。  部屋の中は綺麗に片付いているが、ところどころお子さまの物らしい落書きやらが落ちていて、くすぐったい気持ちになる。子どもは好きだ。こんな厄介な体質に生まれなければ、保育士になりたかったくらいには。手をつないだままリビングに通され、大きな三人掛けのソファに座るよう言われる。ふかっと沈み込む感覚を楽しんでいると、お子さまはあっけなく俺を捨てて小さな階段を駆け上がっていった。へえ、マンションなのに中二階があるのか。きっと、お子さまの部屋があるのだろう。 「コーヒーでもいいだろうか」 「あ、やっ、お構いなく……! あの、初めまして。俺が宵待、(りつ)です。あの、茜……(りょう)さん、ですよね。茜さんってお呼びしても良いですか?」  ああ、よろしくと男が無表情のまま返してきた。そしてインスタントコーヒーを手早く用意してテーブルに二つ分置く。ついでに、お子さまのものらしい小さなプラスチックのコップが置かれた。中には牛乳が入っている。  男が一人掛けのソファに座った。茜という名字の、背が高い男。確かに美男子好きな母のお眼鏡にかなっただけあり顔は整っている。しかし、物腰に柔らかさはあまり感じられず、顔つきも精悍な、という言葉がぴったりとくる。二十半ばという割には浮ついた感じがまったくない。あと、お子さまの件について、俺は何も聞いていないぞ。   「……あの子は柊太(しゅうた)という。前妻の子だ」 「あっ、あああ、そうなんですね!」  俺の視線に気づいた茜さんが、すかさず説明を入れてくれた。  そうなんだろうなと分かってはいたけれど、あえてそう言われると緊張感が少し薄らぐ。でもまあ、聞いてはいなかったけれど、そういう事情があるならすぐに結婚を進めろとか、子どもを作れとか口うるさく言われないかもしれない。そんな打算が俺の頭の中で始まっていた。  たちまち、会話が続かなくなりシンと静まり返った。俺はそもそも、口下手だ。仕事は在宅で出来ることのみだ。平日は人と会話することも、ほとんどない。仕事のやり取りはメール頼りで、たまに打ち合わせで外に出るくらいだった。 「柊太とは血が繋がっていないが、戸籍上は俺の子だ。ずっと、自分の子と思って育てている」 「ええっと……はい」  唐突に男が話し始めて、俺は危うくコーヒーカップを取り落とすところだった。待って。前妻の子で、戸籍上の子で、自分の子と思って育てているけれど血は繋がっていない? 複雑だ。
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