01 事情聴取

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01 事情聴取

 病院の廊下に不似合いなまでの幻想的な絵画だった。  大きな翼の鳥が、青空を往く。天空の世界。そびえ立った石の塔。虹の滝、緑の草原、永遠に浮遊を続ける空中庭園。  その、中心に朧気に描かれた少女がいた。わざと曖昧に描いたのか、あるいは書き手がイメージしきれなかったのか。どんな人物かまでは分からない。  そこまでじっと眺めて、このタッチは絵画というよりイラストと呼んだ方がいいような気がした。額縁下の札に記された作者の名前を見てもやはり、いまどきな名前だった。  右京ヒカル。きっとペンネームだろう。 「アユミ、早くいくぞ」 「あ――うん」  病院の廊下の曲がり角で、茶の髪の少年が待っている。響くチェーンの片ピアスの音色。相方の羽村リョウジくんだ。いつも気だるそうな夜色の目が、仕事明けなためかいつにも増して気だるそう。漫画風に言うと、彼は瞳にハイライトが入っていないのだ。 「四二五号室だろ。たしか角部屋だ。窓からの景色が広々としてて、悪くない部屋だぜ。ま、あれじゃ意味ないだろうけど」  病院内は静かだ。あまり人とすれ違わない。床材がフェルトのようなカーペットで足音も響かず、内装や廊下の面積からしても高級な病院のような気がした。羽村くんは一人軽薄に語り続ける。 「目が見えなくなってるんだろ、いまから会いに行く被害者はさ。景色のいい部屋も、見えなきゃ風通しがいいだけだぜ。それなら他のやつに回してやればいいのに」 「よく知ってるね、病室から見える景色なんて。この病院に詳しかったっけ」 「あー……ま、いろいろあってな」  あからさまに誤魔化される。追求するのはやめておこう。これから事件の被害者に会うっていうのに、込み入った話をしている場合じゃない。 「………………」  窓ガラスには、自分自身の赤い髪が映る。鏡越しでも目立ってしまう。  ――名前は高瀬アユミ。髪を黒く染めれば、少し小柄で童顔であること以外は特に特徴のある容姿ではないと思う。  そんな個性のないわたしはこれから、なぜだか病室で事情聴取なんてものに立ち会う。不思議な話だ。 「遅いぞ、ダックスフンド共。呼び出したら五分以内に来い」  目的の四二五号室の前で、不機嫌そうな黒セーラー服に黒髪の女子高生がいた。切れ長の目は実際いつでも不機嫌に見えるのだけれど。ぞんざいな言い草に羽村くんが反応。 「先生。ここ、家から二十分の距離っすよ」 「死ぬ気で走れば間に合うだろう。師匠を待たせるなと言っている」  そういって、会話を続けることもなく病室に入っていく。しかし今日は本当に不機嫌そうだ。 「また刑事コロンボのお呼びだったらしいぜ。だからあんなイライラしてるんだろうな」  ひそひそと教えてくれる羽村くん。刑事コロンボというのは、前の事件で出会ったあの、先生とひどく仲の悪い刑事さんのことか。 +  目に巻かれた包帯が痛々しく、入院着の彼女をいっそう痩せたように見せていた。乱れた髪。けれど、鏡が見えないのだから仕方ない。そんなことを気にしていられる状況ではないのだ。  窓辺に飾られた花が少し枯れかけている。確かに見晴らしはいいけれど、病室の空気は錆びついていて、どこか監獄のような冷たさを感じた。 「さて……じゃあ花村梨央さん。話を始めようと思うが、今日の調子はどうだい」  友人のように患者さんに語りかけたのは、緑のトレンチコートのおじさんだった。日本人なのに、刑事コロンボにしか見えない。 「どうもこうも、ありませんよ……」  張り詰めた糸のような声を発した患者さん。――いや、『被害者さん』の方が正しい。先に目を通していた資料によると、花村梨央さんは恐ろしい体験をしているのだ。 「最悪です。常に最悪。何もかも、ぜんぶ、すべてあいつに奪われた……!」  顔を覆い、震え出す。そのいまにも爆発しそうな激情は、これでもまだ会話が成立するだけ落ち着いた方なのだという。刑事さんが、落ち着かせるように穏やかな声を発する。 「分かっている。分かっているさ、花村さん。この事件は許し難い。俺は絶対に犯人を引きずり出し、捕まえてやりたい。だっておかしいだろう、花村さんをこんな目に遭わせた野郎が……いまもまだ、刑務所にぶち込まれずのうのうと外を出歩いているなんてよ」 「……っ、そうよ! こんなの許されるはずがない! 絶対に、絶対にあいつだけは……っ」  言葉尻は震えていた。目を覆っているから分からないけれど、彼女はきっと泣いている。 「…………いいわ。何が聞きたいの」 「おお、協力してくれるかい」 「ただし、約束して。絶対にこの犯人を捕まえると。絶対、絶対に死刑にすると――!」 「もちろんだ。知ってるか? 監獄に入れられた死刑囚はね、刑が執行されるまで毎日怯えながら朝を迎えるんだ」 「へぇ……?」 「死刑執行は、直前まで本人には知らされない。明日には死ぬかも知れない、今朝は自分の番かも知れない、って震えながら自分の犯した罪を死ぬほど――それこそ死ぬまで後悔し続けるんだ。執行までの日々は、気が狂うほどの恐怖になる」  それを聞いて、にたり、と包帯の少女が口の端を吊り上げる。刑事さんの言葉はどこまでが本気なのだろう。わざと現実の仕組みとはずれたことを言っている気がした。刑事さんを見る先生の瞳は、冷え切っている。 「……そうね。どこから話せばいいのかしら?」 「すまないが、もう一度初めから。何かヒントを見落としているかも知れない」 「そう……分かった。それが逮捕に繋がるのなら」 「だが、本当に酷なことをさせている。気分が悪くなったら話をやめていい。無理のないようにで構わないからな」 「…………」  ちょうど、厚い雲が太陽を遮り始めていた。病室の空気が重く暗く沈んでいく。 「……あいつは、宅配便を装って現れた」  事件の夜。  悪夢は、日常の登場人物を装って忍び寄ってきたのか。 「若かったと思う。十代か、二十代か……正確なところは分からないけれど、とにかく若かったはずよ。それだけは覚えてる」  ――それだけ? どうして、それだけなのだろう。 「……曖昧なのは」 「ええ。覚えていないの。まるで記憶の映像の、顔の部分だけクレヨンで真っ黒に塗りつぶされているように……意味がわからない。どうして、こんなの、有り得ない……っ!」  貧血を起こしたように、青くなって震える。呼吸が浅くなる。彼女が深みにはまってしまわないよう、刑事さんが先を促した。 「ショックな出来事を思い出せないのはおかしなことじゃない。よくあることだ。それより、一体何が起きた。」  不自然な記憶喪失。  犯人の”呪い”によるものだろう。 「そう、宅配業者を装ってあいつが現れた。出たのは母。私はリビングに父といたけれど、玄関から母のおかしな悲鳴が聞こえて、私も父も飛び出した」  薄暗い病室で、その異常な出来事が語られる。 「母は、そいつの前で目を押さえてうずくまっていた。何かされた? 父が声を上げたら、そいつがこっちに気付いて、次の瞬間――――」  彼女は、自分の目に手を当て、絞り出すようにその不条理を口にした。 「――――目の前が(・・・・)真っ暗になった(・・・・・・・)」  その声は、重く響いた。 「私も父も視力を失っていた。失明したのよ。何が起こったのかまるで分からなかった。始めは電気が消えたのかと思ったわよ」  母が倒れ、何か恐ろしい相手を目の前にして、突然暗闇に包まれる。 「そのあとはただ、ろくに抵抗もできずにいた。足に鋭い痛みが走って、刃物で切られたんだと分かったわ。もう立つこともできない」  闇は、恐怖だ。あらゆる意志を飲み込んでしまう。 「引きずられ、一人ずつ連れて行かれて。抵抗すれば容赦なく切りつけられた。私たち家族三人は、処刑場となる暖かったはずのリビングに無抵抗で放り出されてしまった。……どうしてリビングだと分かったかって? 十何年も暮らした家よ? そのくらい馴染んだ場所が、ずっとずっと安心の象徴だった家族だけの場所が……っ!」 「……落ち着こう。大丈夫だ。やつは、ここにはいない」  獣のように、息を切らしている。 「そこから先は……思い出したくもない。気が付けば三人とも縛られてた。なぜだか私だけ、目が見えるようになった。眼球にこびりついたインクが溶けたようだったわ。目の前にはあいつがいて――あいつは、よりにもよって、私に見せつけた。お父さんが抵抗もできずに嬲り殺しにされる様を、私の目の前で実演した。痛そうだった……本当に、苦しそうだった…………」  白い手が、自分の手を確かめるように撫でる。 「指を切り落とさるって、どれほどの痛みなんでしょうね……?」  いつか、自分を撫でてくれた父の手が。おもちゃのように切り刻まれてしまったっていうのか。 「お父さんが動かなくなったら、次はお母さん。泣き叫んでた。逃げなさい、って何度も私に叫んでた。もう許してって言っても聞かなかった。あいつは、あいつはただ――楽しそうに私を見てた。私がやめてって叫ぶのを、じっとずっと楽しそうに見てた」  顔の塗り潰された犯人が、自分を見て、にたりと笑いながら家族を殺す。一人ずつ、じっくり時間をかけて。 「どうして…………?」  涙に濡れた彼女の言葉は、いまにも消えてしまいそうだった。 「ねぇ、どうして私の家族がこんな目に遭わないといけないの……? 私たちが何かした? 誰かの恨みを買ったとでもいうの……?」  縋るように言われ、刑事さんがひび割れた声で告げる。 「…………複数の家族が、同じ被害に遭ってる。関係性はゼロだ。恨みの線はない。君の家族は、何も悪くない」 「だったらどうしてよ! なおさら許せないじゃないッ!」  引き裂かれるような声が、病室の壁に反響した。彼女は枕を投げ、何度もベッドを叩いて叫び散らした。 「許さない、絶対に許さないあいつ! 殺してやる! 絶対、絶対この手で殺してやるから! わけ分かんないくらいグチャグチャにして殺してやるから! だから早く捕まえてよ、ねぇ刑事さん、早くいますぐあいつを捕まえて来てよぉ…………っ!」 「分かってる。分かってるさ……」 「でも怖いの……真っ暗なの。どうしてか私の目は治らない。また見えなくされて、ずっと見えないまま、夜になると、真っ暗闇の中であいつの足音がひたひたって近寄ってくる……」  そこで、先生に袖を引かれる。わたしたちはここで退室するのだろう。 「気をしっかり。負けるんじゃない」  閉ざされる病室のドアの向こうで、最後まで刑事さんは被害者を励ましていた。痛ましい声。わたしは、息ができなくなりそうだった。 「あ……」  そこで、眼鏡の女性とすれ違う。きっと花村さんの友人だろう。鎮痛そうな顔をしている。ぺこりと礼儀正しく頭を下げ、入れ違いで病室に入っていった。
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