不可思議な日常

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不可思議な日常

     一  どうしてもそんな事はあり得ないと思った。僕の友人の皆本(みなもと)くんは、けれどもそうなのだと言って聞かない。「君にだから、話すのだよ」とも前置きした。そう言えば、皆本くんには妙に大人びているところがある。中学の一年生のくせに、何々なのだよ、なんて、今時変だ。皆本くんは、「僕は本をよく読むから、そういう言葉遣いになるのだよ」と話していたが、自分もそれでほとんど納得していたのだが、今度彼の語る告白は、にわかに信じ難いでたらめである。何でも、 「僕は——」  一人称が『僕』であるのも可笑しい。 「人生を巡っているんだよ。今度は四度目だ。四度目で、初めて他人にこの事を打ち明ける事にしたんだ。そう、君が、初めてだよ」  つまり彼は、中学生をこれまでに三度やって、今が四回目だと言う。無論、僕は初めて中学生をやるつもりである。けれども、おんなじ歳の彼が、四回目だと言う。ちゃんちゃらおかしいので、「はあ?」と首を傾げると、「本当だよ。嘘だと言うなら、君の事を当ててあげようか」と言い出すので、「何でも言ってみな」と促すと、「南雲(なぐも)くん。君は、川井(かわい)さんと幼馴染だろう。でもって、川井さんの事が好きだろう」ととんでもない事を聞かせるので「何を」と彼を殴りそうになった。 「南雲くん、顔が上気しているよ。——これは、君が高校生になって、彼女と付き合うことになるから、知っているのだ」 「何? それは本当か」 「応とも。これまでの三度とも、君は高二の七月から彼女と交際を始めるのだ。君は得意げに僕に語って聞かせる——『実は彼女の事を小学校の頃から思っていたのだ』と。それにふうん、と相槌を打ってやるのにも飽きたのだ。だから、今度はそれは知っていると言う事を、先に釘刺して置くことにする」  僕は半信半疑でも、皆本くんの言う事を信じたい方に傾いた。最終、判定をするにしても、一度信じてからで遅くはない。 「分かった。皆本くんの話を信じるよ」 「うん。信じてくれると知っている。君はそう言う奴だから」 「どう言う意味だ」 「あのねえ、僕はもう三度も人生をやり直しているんだよ? 十歳から二十歳までの十年間を、延々とね。だから、精神年齢で言えばもう四十を超えた。ともかく、そう馬鹿じゃないという事。このクラスの全員、いや、学年中の人間の気質は、把握しているんだ。——南雲くんは、常に僕の友人だ。三十年来ずっと、ね。十年ごとに君は僕の事を忘れるが、僕は忘れたくとも忘れない。そう、君は、こう言う話をしても、信じるんだ」  皆本くんは、ちょっと妄想が過ぎるように思う。けれども、もし彼の言うことが、紛れもない本当だったら? 酷く、酷く、虚しい。『君は僕の事を忘れるが……』と言うくだりからは、彼の心情を推し量るに余りある。——もし本当であれば、の話だが。  しかし、そう思って皆本くんの事を観察していると、どうもそのようにしか見えなくなってくるから恐ろしい。皆本くんは、テストの仕組みを見越すようにしていつも満点を取るし、今年一年の大まかな流れを予言し、不意打ちの時間割変更や体育で次にやる種目までずばり言い当てる。これは見事だと誰かに紹介したくなるが、そればかりは皆本くんに固く禁じられている。 「皆本くん、どうして、他のみんなにはその事を言わないの? 言えばヒーローだぜ。いっそ占い師にでもなって……」 「南雲くん。少しは僕の気持ちも察してくれ。そんな風になって、僕の心が一体休まるのだろうか。大体、いくら名声を得たって、誰かに褒賞されたって、十年経てば全て無かったことになるのだ。二十歳の誕生日に、綺麗さっぱり、何もかもね」  皆本くんの言うことは、よく分かったつもりである。けれども今を楽しむことができなければ勿体ない、と僕は思った。思ったが、それは口にしない事にした。  皆本くんは、僕と二人きりの帰り道で言う。 「人は誰しも、僕と同じなんだと思う。いや、人に限らない。万物そうなのだ」 「と、言うと?」 「誰しも、何もかも、巡っているんだよ。けれども、僕ばかりがこうして記憶を維持して、巡る事になる。おんなじ時間を繰り返し繰り返し……本来なら君らのように純真でいられるところを、何かの手違いで僕はこうして老けていく。全く、そのような気がする」 「ふうん。ところで、皆本くんはこれまで三度十代の人生を送ってきたわけだよね」 「うん」 「それって、全てが何から何まで同じだったわけじゃないでしょ?」 「うん。でも、巡っているのに変わりはない。毎度異なるなら退屈しないのではと思うのかも知れないが……考えてもみてくれ。想像力を働かせてくれ。南雲くんは、何かに成功した時嬉しいと思うだろう、友達とはしゃいで満たされた感覚を覚えるだろう。けれども、それがおじゃんになる未来を想像してみてくれ」 「おじゃんって?」 「何もかも、無かった事になるのだ。成功も、人と人との付き合いも、無かった事になるのだ。いずれ無かった事になるものを、素直に喜べるかな」 「……難しいだろうね」 と僕は彼に遠慮せず言った。また、彼もその答えを望んでいるのだろうと思った。 「そうだよね」 と、彼は目一杯寂しそうにした。 「だから、もう生きているのが辛い。いっそ死んでしまおうかとさえ思う」 「駄目だよ」 と咄嗟口走った。 「なあに、言っても僕はまだ四十そこらだ。人生に飽きるのにはまだ早い。ただ、七十や八十でもこの循環が終わらないようなら……一度試してみようと思う。その時、君が何と言うか、楽しみだ。今みたいに『駄目だよ』と即答するだろうか」  僕は、どうだろうと考えた。やはりそう言うかも分からない。けれども言ってから、僕は何だか罪悪感を覚えた。 「皆本くんの過ごしてきた年月の重さを思うと……でも、俺はきっと、『駄目だ』って言ってしまうと思う。その時はごめん」 「何故謝る? 僕は嬉しかったのに。君に、そう、言ってもらえてね」  皆本くんは、僕に笑いかけた。僕は大変申し訳なく思った。首をすくめて、彼に感服の意を表した。        二    河川敷の高架下の柱の壁に向かって、野球ボールを投げつけていた。僕の毎晩の習性である。野球部に所属しているわけでもないが、こうして投げ込みをしていると、気分が落ち着くのだ。  そんな折に、上の道を通りすがる皆本くんを発見した。おや? と思って注視すると、隣に誰かいる。男子である。大分楽しそうに談笑している。僕は急いで駆け寄って、後ろからぽんと肩を叩いて呼ぼうとするが、皆本くんの 「南雲くんって言う子はさあ」 と言う喋り声に、止められる。 「随分お人好しなんだ」 「へえ」 と相方が受け答える。 「彼の事は大切に思ってる。君ほどじゃ無いけれど」 「俺は、雄喜(ゆうき)の親友だろう」 「その通りだ」 「その、南雲って奴は?」 「大切な『友達』だな」  僕は呆然と立ち止まって、彼らはどんどん離れて行った。  次の日の学校で早速問いただそうと思うが、皆本くんは飄然と、教室の一番後ろの席に座っている。 「皆本くん」 「やあ、南雲くん。おはよう」 「あのさあ、昨日皆本くんを見かけたんだけど」 「ああ、知ってる」 「知ってるだって?」 「そうさ。君は、『隣にいたのは誰?』と決まって聞くんだ。どこで見られたのかは分からないけれど……」 「で、隣にいたのは誰なんだ」 「僕の親友だよ」 と躊躇なく彼は言った。 「そいつも、お前の秘密を知ってるのか?」 「いや、知らない」  僕は拍子抜けした。何だ、皆本くんの秘密を知らない奴が親友で、僕はただの友達か。いまいち納得ができないから、 「俺も雄喜と呼ぼうか」 と呼称に着目して提言してみるが、 「そこまで聞いていたのか」 と彼は前置きして、 「いや、君は、『皆本くん』と是非呼んでくれ。その方が落ち着くんだ」 「でも何故、彼が親友で、僕はただの友達なんだ」 「ただの友達じゃない。大切な友達だと言った——本音を言うとね、僕に本当の友達なんかいないんだ。だって、みんな僕の事を忘れるじゃないか。あんなに色々あったのに、何事も無かったかのように」  もはや僕も、何も言い返せやしなかった。皆本くんは、さぞ孤独だろうと思った。僕は、可哀想な彼の、どうしても味方になってあげたいと思った。  そこに、例の幼馴染である川井が寄って来た。 「南雲くん、最近良く皆本くんと喋ってるよね」 「うん」 「皆本くんって、随分変わってるよね」 「お前本人の前で失礼だろ」 「いいんだよ。川井さんはポニーテールが大分可愛らしいね」 「ほら、やっぱり変だ」 と彼女は笑った。 「こんな事初対面で言ってくる男子なんていないもん」 「そりゃそうだろう」 と僕も同意した。川井はまだ二、三皆本くんに対して言いたい事があったようだが、チャイムが鳴って、打ち切られた。      三  僕らは中学校を卒業して、高校生となる。僕と皆本くんと川井は、同じ学校に進学する事となった。それもこれも、皆本くんの計算の内なのだろう。皆本くんはその折、 「僕にはこれから彼女ができる」 と僕に向かって宣言した。その時は、 「そうか」 と気にも留めなかったが、その付き合う相手と言うのが、どうやら川井であるらしい事に気がついて、僕は憤慨した。裏切ったな、とさえ思った。 「どうして」 と僕は彼を問い詰めた。 「何が」 「俺と川井が付き合うって、言ったよな」 「うん」 「何だ。やっぱりお前は嘘つきだ。人生を繰り返しているなんて全くのでたらめで、おれを騙して面白がってるだけだろ? がっかりだよ」 「まあ、落ち着いて聞いてくれ。僕はね、二度と恋人をつくらないと誓った事がある。初めから君の彼女を取る気なんて無いんだ。話を聞いてくれ。——僕は後悔した事がある。僕はね、愛した人に『忘れないで』と頼んだんだ。彼女は不思議な顔をして、『どうしたの急に』と。『忘れる事なんてあるはず無いよ』と約束したんだ。どうして信じたんだろうね、今から思っても当時の自分の思考がよく分からないよ。僕はまた十歳に戻って、真っ先に彼女の元へ会いに行った。目が合って、彼女はどうしたと思う? ——そのまま何食わぬ顔をして、僕の側を通り過ぎたのだ。薄情だと思わないか? いや、当然と言えば当然の事だ。薄情なのはこっちか分からない。もうこうなると、心には鍵をかけて、ずっと隠居していたくなる」 「気持ちは分かった。それじゃあ何で川井を……」 「何、君を脅かしてみただけだ。彼女を探ってみたが、やっぱり君の事が好きらしいよ。いいな、君は幸せ者だ。彼女と同じ時を、共に過ごしながら、一緒に死んでいけるのだから」  そう言うと皆本くんは席を立って、どこかへ行ってしまった。まるで、僕に同情されるのを恐れるように。僕は彼の後ろ姿を目で追いながら、どうともし難いな、と随分小さな声で呟いた。  文化祭の季節がやって来た。皆本くんはどうしてか、この文化祭を酷く心待ちにしていた。追及してみると、 「この文化祭では、毎回酷く滑稽なことが起こる。全部、君にまつわることだ。期待しているといい」 などと不吉な事を漏らす。皆本くんが、こんなに嬉々として喜ぶ事案なら、きっと僕の身に降りかかるのはろくな出来事じゃない。余計な心配を抱えながら、当日を迎えることとなった。  僕らは三人であちこちの出店を回った。何と言うことは無かった。時は過ぎていき、僕に災いの降りかかる事も無かった。川井も皆本くんも、終始楽しそうに愉快そうに、文化祭を満喫した。が、どうやら本番は、皆が教室に集まって、「今日一日お疲れ様でした!」と唱えるところから始まるらしい。皆本くんは斜め後方にいる僕に向かって、にやりと合図を送るが、無論何だか分からない。 「最後に今日大活躍だった、南雲くんに締めてもらいたいと思います」 「はあ?」 と覚えず素っ頓狂な声をあげた。皆がどっと笑った。僕が文化祭に何の貢献もしていないのは、皆にも分かりきった事である。強いて言えばあちこち店を回って市場を活性化させたくらいのものだが、まさかクラスで締めの挨拶をやる理由にはなるまい。  どうしようもないから立ち上がって、 「みんな、打ち上げ、行こう」 と右拳を突き上げると、どうやら盛り上がった。——皆本くんは、こんなのが楽しみだったのか知らん。      四  持久走の大会があると言うことで、冬の寒い時期にも関わらず、僕らは夜にランニングをして鍛練する事となった。発案者は、川井である。僕と皆本くんを誘って――皆本くんなんかは、ちっとも運動に興味の無さそうな顔をしているが、話に乗ってきた。  僕がいつも壁当てをしている河原の土手を走る。川井はピンクのジャージ姿で張り切り、僕も普段部活をする時の格好で、それなのに皆本くんは、ほとんど私服のような装いでやって来た。 「皆本くん? 今から走るんだよ?」 「これじゃダメかな」 「多分しんどいよ」 と川井が苦笑いして言った。僕は皆本くんの耳元で囁く。 「何度も経験してるんじゃないのかよ。このランニングの企画ぐらい」 「いや。初めてだよ。四度目で、こんな事は」 と彼は首をひねった。  十分手首足首等、準備運動させてから、いよいよ走り出す。  皆本くんは開始早々、とぼとぼとスピードを落とす。 「ほら、もうちょっと早く」 と促すけれど、ちっとも言うことを聞かない。 「まあ、このくらいのペースからでいいんじゃない?」 と僕が提案すると、川井は目一杯不服そうにしたが、結局ジョギングのような形となった。  皆本くんは随分汗をかいた。はたから見ていても心配になるくらいに。 「大丈夫?」 と問うと、 「大丈夫」 と余裕無さげに答えた。 「見て、星が綺麗」 と唐突に川井が、左前方の上空を指差した。確かにそこには、点々と光が集まっている。 「ほんとだ」 と白い息を吐きながら答えた。皆本くんも顔をほてらせて、その方に向かって目を細めた。  僕らはこのランニングを毎晩の恒例にして、持久走の大会に臨んだ。皆本くん曰く、 「このマラソンは毎回欠席して済んでいたんだけど、せっかくよく走ったからね。何だか完走できそうな気がする」 と意気込んで、見事十キロ近くを走り切った。順位が芳しくなくても、ちっとも意に介さない様子で、「充実したね!」と珍しく興奮しながら僕の肩を叩いた。うむと頷いてやった。  また三年の夏には、花火大会を見に行った。僕は皆本くんどうこうよりも、川井の浴衣姿に見惚れていたのだが、 「いつも綺麗だね、花火ばかりは」 と彼が囁きかけて来た時には、皆本くんの心境を思わずにはいられなかった。 「花火ばかりは、何度見ても飽きないように思う」  そう呟く彼の瞳は、赤や緑にきらきらと輝いた。      五  僕ら三人は、河原で夜遅くまで語り明かした事があった。この時は珍しく、皆本くんの提案である。皆本くんが、僕らを引き留めて、いつまでも鷹揚な真黒な川の流れを、見つめていた。僕が真ん中に、川井が左に、皆本くんが右にいた。ふと川井の方を見やると、彼女は膝に顔を埋めている。眠たいのだろうか。 「忘れるんだろうな」 と消え入りそうな呟きが、僕の右の耳を刺激した。 「きっと、忘れるんだろうな。何もかも」 「何を?」 ととぼけて問うてみる。 「こんなに色々な事があったんだ。君は――君はそれでも、僕の事を忘れるかい?」  答えることは叶わなかった。 「忘れるんだろうな、きっと」  皆本くんの嘆きは、調子が淡々としていたせいか、簡単に夜風にさらわれた。それからは、ただ心地の良い静けさが、僕ら三人を包みこむのみであった。  大学に進学して、暫く音沙汰無かった皆本くんに呼び出されて、「そろそろまた戻る事になる」と告げられた。 「皆本くんの事を、出会ってから片時も忘れた事はないよ」 「うん、ありがとう。でも、戻った先の君は――幼い頃の君は、もう僕を覚えていないだろう。毎度、そうだった」 「何だ、幼いころの自分に、せめて手紙でも書ければ良いのに。そうか。――俺って薄情なのかな」 「そんな事は無いと思うよ。君は特段情の無い人間じゃ無い。まあ、僕には誰しもがおんなじように見えるさ。その性質が薄情だと言うのなら、多分君もそうなのだろう」 「なあ。戻るんなら、最後にあの河原で過ごさないか? 川井も呼んでさ。戻る寸前まで、そこにいようよ」  皆本くんは俯いてちょっと思案したが、 「だめだ」 と断った。 「何故?」 「怖いからさ。分からないか」 「よく分からない」 「君ね、南雲くん。もっと人情を推し量る練習をやった方が良い。僕はそう促して来たつもりだけど」 「分からないんだから仕方ない」 「僕は戻った途端、自分がその後どうなるのか分からない。君たちの側から、肉体ごと消え去るのか、それともぽかんとした顔をして、繰り返しの記憶だけを失うのか。そうなったら、証人は君だけになる。まあ、ただ安心してくれ。僕も将来の安気な僕に向けて手紙を部屋中のあちこちに残している。君は、もし僕の肉体が残ってるなら、そいつを尋問してやってくれ」 「『そいつ』だなんてよそよそしいな。皆本くんは、皆本くんじゃないか。――ともかく、皆本くんの恐ろしいのは分かった。でも、俺らなら見届けられる」 「君らの問題じゃない。僕が嫌なんだ」 と言い張って聞かない。だから、皆本くんはひっそりと旅立つ手はずとなった。  皆本くんが二十歳の誕生日を迎えた、翌日を見計らって、「皆本くんの誕生日を祝おう」と例の三人組で集まるように誘った。簡単に乗ってきた。  皆本くんは、別段いつもと変わらないように見えた。まさか、これまでの話が全部、壮大な嘘だったなんてオチはあるまいと多少疑いながら、 「皆本くん」 と恐る恐る呼びかけてみる。 「皆本くんは、今いくつ?」 「二十に決まってるだろう」 「本当は?」 「本当はって……紛れもなく二十だ」  分かった。皆本くんは、もうここにはいなかった。何だか涙が溢れ出しそうになった。あんまりにも悲しくて、虚しくて、膝から崩れ落ちそうになった。けれどもそれを堪えて、この時は、とかく去って行った皆本くんが、何かしら報われなくちゃ済まないと考えた。それで無我夢中に、 「皆本くん、今すぐ部屋中を探すんだ」 「探すって一体何を」 「何か、君の残したメモ書きだよ」 「メモ書きだって? 南雲くん……どこかおかしくなったかい?」  皆本くんは純朴な顔をして首を傾げた。川井も不思議そうに僕を見つめた。  ともかく、僕は今どう思われようと構わないが、皆本くんは、弔われなければならない。還っていった、皆本くん。今頃幾度目かの絶望を目の当たりにし、一人泣き明かしているのかも知れない、皆本くん、共に数々を潜り、河原で語り合った皆本くん、もうほとんど何も信じられなくなった、皆本くん、そんな皆本くんが、たとえ彼の関知しないにしても、どこでもどうとでも良いから報われなければならない。  純朴なる皆本くんは、それから数日と経たない内に連絡をよこすと、僕に面と向かって会いたい旨を伝えた。そして、僕も心をはやらせて彼と面会を果たすと、皆本くんは開口一番 「君のこの前言う意味が分かったよ。これを見てくれ」  皆本くんが手渡して来たのは、封筒に入った手紙である。二十の君へ、と記されている。 「どうやら、十代の僕は延々十代を繰り返しているらしい。思えば所々、記憶が無いように思う。ほら、三人で河川沿いを走ったろう」 「うん」 「あれには何か特別な価値があったと思うんだ。けれども何故特別だったか、思い出せない」 「そうだろう」 「そうだろう、と言うのは、やはりそう言う事なのか」 「そう言う事なんだよ」 「そうか」  皆本くんは一つため息をついて、 「しかし、僕にはあずかり知らぬ事だ」 とあっという間に突き放した。 「何?」 「だってそうだろう? 十代の僕は、そりゃさぞかし大変だろうが、二十代の僕は何の問題も不自由も無く、これからも暮らしていけるわけだ。知った事は無い。何かしてあげられる事があるなら、ぜひやるべきだとは思うが……そうでないなら、心配するだけ損だ」  なるほど、皆本くんの気質と言うのは、こうなのだろうと納得してしまった。十代の皆本くんも、二十代の皆本くんも、僕にはどちらも同一の皆本くんに見えて違いないのに、皆本くんどうしはお互いを別人だと認識し合っている。  いよいよ、僕の良く知る方の皆本くんの味方は、僕だけしかいなくなった。いや、きっと皆本くんは、僕なんかはちっとも当てにしていないだろう、頼ろうにも頼れないのだから。けれども――たとえ何もかもが芝居の嘘だったとしても――僕は信じ続けることに決めた。一人の報われない、悲劇の主人公を、心に留めながら死ぬ事に決めたのだ。  僕は、生涯の伴侶となった、川井に皆本くんの秘密を打ち明けようか悩み続けた。僕らの知る皆本くんは、実は常に悲哀に苛まれ続けたのだと、教えてやろうか、いや、物腰柔らかな川井と言えども、とても信じられるような話では無いだろう――と、低回した。信じてもらえなければ、妙な噂が広まるだけだ。ますます皆本くんの存在は、フィクションに過ぎなくなる。  散々逡巡したあげく、堪え切れず吐き出すようにようにして、川井に洗いざらいぶちまけてしまったのが、二人とも大分年を食った後である。川井は、「そう……やっぱりそうね」などと頷いたが、以降は何にも追求せずに済ませた。 「それで良いのか」 と問うと、 「良いも何も、私たちはそれを知って、時々思い出してあげれば、それで十分じゃない」 と答えるから、確かにそうだと僕の方も納得した。  僕は皆本くんの事を、死ぬまで忘れないだろう、約束する、誓う。
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