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羊水に浮かぶ
床は冷たく、油に塗れて、生ごみには蠅が飛んでいた。リノリウムにこびり付いた生卵、乾いたビールの跡、排水溝にはゴキブリが集っている。
「何度言ったら分かる!」と、男は言った。その息は酒臭く、呂律は回っていなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」遠野は床の上、身を庇うように体を丸めた。「許してください、ごめんなさい」
「俺を馬鹿にしてんだろう!」
男は遠野の髪の毛を掴み上げ、床に叩きつけた。脳が揺れた。視界が暗転した。鼻から生温かいものが流れ落ちた。
「その目だよ、その目。俺をコケにしてやがって!」
男は遠野の顔を殴り、続けざまに腹を蹴り上げた。骨の折れる音がした。血の味がした。遠野は溜まらず胃液をぶちまけた。
「自分で始末しろ」男は言った。顔は高揚し、その唇は弓のように吊り上がっていた。「俺も手伝ってやるよ」
男はそう言うと、ジーンズのファスナーを下ろした。爪先で遠野の顔を上に向けさせると、舌なめずりをするように唇を舐めた。
水音がした。生温かいそれは吐き気を催す匂いがした。遠野は男を見ていた。一瞬たりとも、目を逸らさぬように。
「これで掃除しやすくなったろ?」
男はそう言い、ダイニングの椅子に座り、ビールを飲み始めた。
「俺に感謝しろよ?お前を、ここまで育ててやったんだから」
男は満足したように独り言ちた。遠野は男を見つめた。殺してやる、と思った。殺す。世界を壊すよりも先に。
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