羊水に浮かぶ

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 朝、遠野は荷物を抱え、歩いて下町へと向かった。薄汚いアパートが立ち並ぶエリア、遠野は角を曲がり、橋を渡った。  十五年ぶりに帰って来た実家は空き地になっていた。痛み、匂い、息苦しさ。何かを感じると思っていた。けれど、何も感じなかった。その痛みは既に、遠野を通り過ぎていた。彼が振り返らない限り、それは存在しないも同じだった。  駅で切符を買い、遠野は適当な電車に飛び乗った。行き先は分からない。何処に辿り着くのかも。けれど、この街を離れなくてはならない。自分を、生きなくてはいけなかった。  最初にそれを知ったのは十六歳の時だった。運転免許が欲しかった。身分証明書が必要だった。窓口で対応してくれた女性が困惑気な顔をした。その時初めて、自分に戸籍がないのを知った。  遠野樹という人間はこの世に存在していなかった。誰にも認知されず、誰にも知られず。この街が胎内だとしたら、生温い羊水に浮かぶ胎児と同じだった。生まれてさえいなかった。  電車は街を縫うように北へ向かっていた。見慣れたビル群、高層マンション、聳えるタワー。携帯が鳴った。遠野は電源を切ると、窓を下ろしてそれを外に投げ捨てた。電車は揺れながら何処までも走って行く。  朝方の街は白い。烏がゴミ捨て場を荒し、若者たちが道の隅でゲロを吐き、その脇を制服を着た小学生が通り過ぎる。ビルの隙間から登る眩しい朝日に、遠野は思わず目を細めた。 「誕生日おめでとう」と、彼は言った。                                  完
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