羊水に浮かぶ

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 約束の三日目が来た。二人はクラブのラウンジで酒を飲んだ。遠野はテキーラやウォッカを飲んだが、三井はピニャ・コラーダやフロリダばかりを飲んでいた。夜半に店を出ても、彼の顔は満月のように白いままだった。  人が込み合う歓楽街を歩いていると、三井が思いついた事を言った。悪戯を仕掛けようとする子供のように。 「魚を見に行こうぜ」  夜までやっている水族館を探し、閉館ぎりぎりでチケットを買った。薄暗い館内には数名の客とカップルがいるだけだった。  暗闇の中に浮かび上がる青い水槽、天井からはランプが吊るされていて、浮遊するような、宇宙空間のような幻想的な雰囲気を生み出していた。 「水族館なんて久しぶりだ」と、三井は言った。  透明なドーム、エイやサメが優雅にガラスの中を泳いでいた。遠野は今まで水族館に来た事がなかった。  回遊魚の群れ、巨大水槽のジンベイザメ、熱帯魚のコーナーを回って、最後に辿り着いたのはクラゲの水槽の前だった。  青い光に照らされた水槽の中、半透明のクラゲがふわふわ泳ぎ回っている。光を受けて発光するクラゲ。まるで七夕の夜、空に打ち上げられるランタンの儚い灯のようだった。 「零時になったらでいい」と、三井は言った。「あいつより長く生きられたんだから、それでいい」 「難儀だな」ふわふわと浮かぶクラゲ。ここから出たくはないのか、と遠野は思った。「難儀な人生だ」 「そうさ。俺の失敗は生まれた時に始まった」三井はそう言い、水槽に手を置いた。「俺が生まれる前、お袋は子供を死産した。俺の兄貴だよ。名前は真一って言った。俺は死んだ兄貴の名前を付けられて生まれてきたんだ」  遠野は何も言わなかった。 「俺は、俺の人生を生きていなかった。兄貴の影として生きていた。それが俺の失敗だったんだ」  閉館を告げる場内アナウンスが頭上に響いた。 「お前は誰を殺した?」と、三井は言った。  リノリウムの床に横たわった男、目は見開き、両手は苦し気に胸を引っかいていた。血走った眼は遠野を見ていた。 「親父を」と、遠野は言った。「俺は十二歳だった。あいつは台所で倒れていた。心筋梗塞か何かだったんだろうな。親父は俺を見てた。口を馬鹿みたいにパクパクさせて。すぐに救急車を呼べば助かっただろうな。だけど、俺は見てた。あいつの息が止まるまで、ずっと」  ガラスの表面には自分の顔が映っていた。その目つき、鼻の形、薄い唇はあの男に似ていた。まるで生き写しのように。 「難儀だな」と、三井は言った。「お前は、お前の人生を生きられればいいな」
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