願い

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あなたを選んだのは、あなたが泣きそうな顔をしていたからよ。と言ったらあなたは信じるかしら? 私だって誰でも良かった訳じゃないのよ。そんな節操のない女じゃないわ。あの日私はボロアパートの駐輪場の影に隠れて、じっとそのときを待っていたの。若い女のハイヒールの音が足早に近づいて去っていくときも、老夫婦がゆっくりゆっくり地面の砂を踏み締めて通り過ぎるときも、ランドセルをガチャガチャ言わせながら小学生の軍団が走り去っていくときももちろん、息を潜めてじっと待っていた。もう今日は諦めようか、そう思ったところにあなたがやってきたの。まず私の視界に入ったのは、色褪せて、紐の端が土色に染まったスニーカー。目線を上げていくと、くたびれたジーパンに、しわのついたシャツ。そして黒縁の眼鏡の奥に、今にも泣き出しそうな瞳。あなたと目が合った。その瞬間に思ったの、見つけた、って。 迷うことなくあなたに駆け寄ったわ。 足元に絡みつく私をあなたの潤んだ瞳が捉えて、困ったように左右にキョロキョロ動いた。 でも私は分かってたの、あなたが私を必要としてるってこと。しばらくその場に突っ立っていたけど、あなたは私を抱え上げて歩き出したわ。あなたの薄い胸に鼻を押しつけたらシャツから梅雨みたいな匂いがして、私はその匂いがすごく好きだと思った。 そうして、あなたと私の生活が始まったの。あなたは私を拾ったと言うけれど、ほんとうは私があなたを選んだのよ。人間っておかしいわよね。でもとっても愛しいわ。今日も私はあなたの泣きそうな、でもとっても優しい瞳を見つめて愛を囁くの。 「にゃあ」 あなたが1人で涙を零すことがありませんように、と願いながら。
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