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彼と別れた後、私は貴方に呼び出されました。
「見せたいものがあるんだ」と、電話越しの貴方は興奮気味に呼吸を荒げていました。
私は貴方との待ち合わせ場所に向かいました。
貴方は大きな荷物を抱えて、自転車に乗ってやってきました。
「さあ、乗って」と、まるで自動車の助手席に誘導するかのような口ぶりで、私を自転車の荷台に乗せました。
「どこに行くのですか」と訊く私を無視して、貴方が連れて行ったのは田んぼでした。
近所でも田舎と揶揄されているほど、人気の少ない村の片隅です。混乱する私をよそに、貴方は落ち着きなく辺りを見渡していました。
そして、声を上げます。
「いました!見てください!蛍です!」
貴方の指差した先には、確かに一匹の蛍が光を放ちながら飛んでいました。
よく見れば、そこら中で小さな光を点滅させています。私は釘入るように蛍を眺めました。蛍を見たのは久しぶりだったのです。
「僕からのプレゼントです。聞いてください」
いつの間にか、貴方は両手にギターを抱えていました。そして、田んぼの畦道に立ったまま歌い始めました。
貴方の周りを何匹もの蛍が飛び交っていました。
歌は下手くそで、聞いたこともない曲でした。
それでも、貴方は幸せそうに笑っていました。
『僕は好きなんだ 君のホクロが
僕は愛しているんだ 君の喋り方を
ありのままで 不格好な君が 美しい』
貴方は忘れてしまったでしょう。あのとき歌ってくれた曲のメロディーや歌詞を。
私は今でも覚えていますよ。
だって、私の一番好きな歌なんですから。
このとき私は、「この人と一緒にいよう」と決意しました。
貴方と一緒なら人生は楽しくなると、確信できたからです(それは嘘ではありませんでした)。
私は両親や親戚に猛反対されましたが、決意は揺らぎませんでした。誰に何と言われようが、貴方と結婚するのだと、貴方を選ぶのだと、決めていましたから。
今でもその決断は間違っていなかったと胸を張って言えます。だって、娘や息子にも恵まれて、こんなに幸せな時間を過ごすことができたのですから。
貴方を選んで本当に良かったです。
貴方、ありがとうございました。
娘や息子を授けてくれてありがとうございました。
一生懸命働いてくれてありがとうございました。
私を幸せにしてくれてありがとうございました。
天国で待っています。
貴方の下手くそなラブソングを口ずさみながら。
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私は静かに手紙を閉じた。
目尻からは滴が伝った。今日流した最初の涙だった。
「実はな、金がなかっただけなんだよ」
私は言った。
「もし俺が金持ちだったら、薔薇の花束にダイヤの指輪を贈ってたさ」
呼吸をするのもままならなくなる。
線香の香りに誘われるようにして、鼻の奥に、込み上げてくるものを感じた。抑えようにも抑えられなかった。
同時に、口からいっぱいに息を吸い込む。
そして、破裂させた。
とくに大きなくしゃみだった。
鼻を啜りながら、妻の顔を見た。
彼女が一瞬、怒っているような、笑っているような表情を見せた、ような気がした。
「俺を選んでくれて、ありがとう」
蝋燭の火が、静かに揺らいでいた。
ー FIN ー
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