最期の種明かし

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 生と死の境界線は、皮膚に刻まれた皺のようにくっきりと印を付けてはくれない。  我々は知らぬうちに、その境界線を越えていくのだ。それでも、皆一様に自分にはまだ関係のない出来事であると、たかを括っている。  私もそうだった。  きっとあと4、5年は生きながらえることができるだろうと胡座をかいていた。  だが、現実は残酷だった。  死神というやつがいるのならば、私は問い詰めたい。『どうして私ではなく、妻を連れて行ったのか』と。  私は胡座をかいたまま、妻の寝顔を眺めた。  実際のところは寝顔ではない。しかし妻の表情は穏やかで眠っているようにしか見えなかった。  すぐにでも起きだして、「あなた、こんな所で何してるの?寝てる場合じゃないわ。夕飯の支度をしなきゃ」などといつもの調子でせかせかと動きだしそうな気がする。 「まさか、お前が先に逝っちまうとはな」  私は居間で独り、そう呟いた。  側に置いてあるグラスを手に取り、ひと口煽る。久しぶりの酒は、特別旨いとも思えなかった。  持病の糖尿病が悪化し、妻にせっつかれて酒は辞めた。ちょうど五年前くらいの話だろうか。酒好きというわけでもなかったので、さほど辛くはなかった。それからは一滴も飲んでいない。  だが、今日だけは飲まずにはいられなかった。 「お父さん、ロウソクは大丈夫そう?少し、休憩したら?」  襖を開けて娘が顔を出した。  頬はふっくらとしているが、どこかやつれた雰囲気が漂っている。  それもそうだろう。今日一日、親戚への連絡や料理の準備、斎場の手配などをこなしてくれたのだ。疲れているに決まっていた。 「大丈夫。もう少し、母さんと二人にしてくれ」 「そう……。無理はしないでね」  娘は襖を閉めてリビングへと戻っていった。  私はもう一度、妻の顔を覗き込んだ。  まじまじと顔を眺めるのは久しぶりだった。薄く化粧を施された肌は歳の割には張りがある。  ゆっくりと手を伸ばし、頬に触れた。    妻は、ひどく、冷たかった。  親父やお袋が死んだときも、同じように肌に触れ、"冷たいな"という印象を抱いたが、この冷たさは何度経験しても慣れなかった。  まるで粘度を触っているみたいに、無機質な感触が心地悪い。目の前にいるのは間違いなく妻なのに、偽物を見させられているようで落ち着かなかった。  私は妻の頬にじっと手を当て続けた。  しかし、私の温もりが妻に移ることはなかった。 「そっちの世界はどんな具合だ?」 「おっかないか?それとも、こっちよりも良い所か?」    私はもう一度酒に口をつけた。 「何か俺に言いたいことはないのか?」  そう呟いてから、あることを思い出した。  妻が生前口にしていた遺言のことだ。 「私たちだって歳なんだから、いつ何があるか分からないのよ。だから遺言を書いておきましょう。仏壇の一番下の引き出しに入れておきますから」  まさか私がそれを読むことになるとは、思ってもいなかった。  私は腰を上げ、仏壇の前まで移動した。  妻の言葉通り、一番下の引き出しを開けた。  中には白い封筒が二つ入っていた。
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