果ての庭

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「ましろ、怪我人優先やから味わってる暇ないよ」    突然の反撃に動きを止めた怪異を尻目に、彼女は少し怒ったように誰かに話しかけた。 「ぐるるるるる」  彼女の声に呼応して、物言わぬ彼女の影から、低い唸り声がする。  動物の本能的な威嚇にも似たそれの出処は、彼女が踏んでいる影だった。   「聞こえてるかわからんけど紹介しとくわ。これは猫のましろ。大好物は神様の肉」    目の前の真っ黒な少女の真っ黒なプリーツスカートの中からは、影が飛び出ていた。  まさしく猫の尻尾のような形のそれは、何度か不機嫌そうにたしたしと地面を叩くと、にゅるんとまた少女のスカートの中の影に戻っていった。 「この子も気が立ってんの、許したってな、お手手さん」 「うるるるるるるるる」  二人の声が薄く重なり合う。だいぶ大きくなった穴から怪異は手を伸ばすが、影から伸びた尻尾___なんか口がついてるけど、尻尾はそれを一つ残らず食いちぎっていく。     「____足りない、たりない!!小夜!」      空腹に耐えかねた子供が喚くように、影から__おそらく、ましろという猫の声がした。    「はいはい。乙女の着替えは覗いたらあかんよぉ」    そう言うが早いが、彼女は細い指をすいと地面に向けて、なにかくい、と指先に引っ掛けるような動作をして見せた。 「いただきます」  言葉と同時に、ぐぱり、と粘着質な音がした。      彼女が指差していたのは自分の影だった。音もそこからしたようだった。従順に敷かれていた彼女の影は、紙に落ちたインクのように、じわじわと広がっていた。  生き物が口を開けるように、影は彼女の立つ場所を中心にして広がる。    ある程度まで大きくなると、そこからは__黒い水のような奔流が吹き出した。瞬きする間に、それは彼女の体を覆い尽くしたようだった。  黒に全身覆われた彼女は、数秒後には変身を終えた魔法少女のように、その蕾から孵る。     「じゃぁん」      ねっとりとした糖蜜のように粘っこく残る声で彼女は言った。声はいっそ正気を疑うくらいに楽しそうなのだが、表情は見えなかった。 彼女の顔には、影に飲み込まれる前には付いていなかったお面がくっついていた。  真っ黒の狐の面だった。面長で赤い化粧のされた、黒い狐の能面。本格的な祭りごとに使われる類のもの。      でもなんだってそんな全身真っ黒に?さっきも言ったが、黒は怪異が好む色。   実際ほら、より一層おいしそうになった特売セットに大して、待ちきれないといように手は忙しなく蠢いている。     「さて、さっさと終わらせ……おや」    何本もの手をかじられたにもかかわらず、美味しい獲物には逆らえないと言わんばかりに怪異は動いた。  ぎゅ、と一際大きな腕に掴まれて、彼女は瞬く間にその場から姿を消した。ここより遥か上に引っ張り上げられたのだ。  片腕の取れた僕の体も、同じくらいの高さまで持ち上げられる。でも多分好きなものから食べる派らしく、より高く持ち上げられたのは彼女の方だ。   「んふふ、せっかちさんやね」    本人の声は余裕そうだが、危機的状況である。武器を持っているようには見えないのだが、一体どうすると言うんだろうか。人身御供はやめてくれよ。 「    ___!_  __!! 」  醜悪な匂いがして、手の怪異の、口のようになった部分が大きく開いた。今まで隠されていたそのなかに、彼女は放り込まれようとしている。 「…………なあお手手さん。うちはものすごく美味しそう?警戒も忘れて頬張るようなご馳走?」   誘惑するような、どこか甘い声。精神状態を心配してしまうようなほど、場違いな。  だがそれはすぐ冷えた声に変わった。 「でも残念。うちはあんたのお口がどこにあるのか知りたくて、こんなお触り許したんよ」   ぱき。ばき。    狐の面に、おおきくて歪な亀裂が入った。 かろうじてそれを口のようだと思えたのは、着用の位置的な問題だったのだろう。 「____これで足りんはずないやろ。はよ食え、ましろ」  ばりん。板の割れる音がした。  その音を合図に、怪異は肉を毟られた。  亀裂と怪異の大きさもなにもかも関係なく、怪異の体は次々に削り取られていく。気のせいかもしれないが、猫の鳴き声がしたような気がした。  狐の仮面に触れた部分から伝染するように崩壊は始まり、怪異の声なき声はどんどん聞こえなくなっていく。  ふと、彼女の顔を見た。能面は広角が吊り上げられてはいるものの、怖さしか感じることはできなかった。   「_____ひ」    一際大きく亀裂が開いた。うっかり。僕はその奥を見た。見てしまった。    亀裂の向こうには、どこまでも暗く、一片の光さえもないような黒があった。悍しいほどの無がそこにあった。   見ていて気持ちの良いものではないのに、僕は瞳孔が開くほどそれを見つめてしまっているのに気付いた。息の仕方を忘れてしまいそうだった。          「あな  た   ぁ     の  てを 」          そうして名も知らぬ赤錆色の怪異は、着々と歯のない口にすりつぶされていく。  この場に音がないのも怖かった。自分の心臓の音すら膜がかかったように聴こえて、僕は目を瞑らなかったことを今更後悔し始めていた。    たべおわるのは、数分程度だったのだろう。やがて最後のひとかけを黒い彼女が食んだ時、示し合わせたようにとぷりと日が沈んだ。  彼女の纏う影の尻尾に体を巻かれて、地面にゆっくり下ろされる。    彼女はすぐ元の姿に戻って、こっちを見て。  そして驚いたように目を見開いた。     「…驚いた、おにいさんマジシャンやったの」 「違いますよ」 日は沈んだ。夜になったのだ。 僕の服装も、状態も、満身創痍の先ほどとはまるで違う。  土埃に塗れた白いカッターシャツは着ていなかったはずの学ランに変わっているし、吹っ飛ばされた腕は傷のかけらも残さず生え変わっていたのだから。   「僕、呪いをかけられたんです。だからここに___蠅庭に来た」    少女は苦く、少年は甘く笑った。 「種明かししましょうよ、お互い」
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