0人が本棚に入れています
本棚に追加
肌に刺さるような張りつめた空気が、小さな部屋を満たしている。
うつむき、静かに待機している少年少女たち。
そのなかで一番端の少女だけは、ずっと退屈そうに足を揺らしていた。
彼女がこの小部屋に閉じ込められてから、すでに1時間は経過していた。
なぜこんなに待たせるんだろう。
なぜすぐに呼んでくれないんだろう。
私が「合格する」ことは、すでに決まっているというのに。
入り口の扉が開き、黒衣に身を包んだ女性が現れた。
「14番、中へ」
「はい!」
少女は、元気よく立ち上がった。
──よかった、ようやく私の番だ。
「クロエ=デュボア、そこにお掛けなさい」
「はい!」
朗らかな声が、室内に響き渡る。
それだけで試験官の何名かは顔をしかめた。
おそらく、この厳かな空間に不釣り合いだと判断したのだろう。
対する少女は、先ほどからずっと夕焼け色の目を忙しなく動かしている。
「すごいですね、この部屋。さすがこの国最古の魔法学校──」
無邪気な独り言は、咳払いによってさえぎられた。
「14番、あなたはなぜ今ここにいるのかわかっているのですか?」
「もちろんです」
クロエは、はきはきと答えた。
「私の、入学手続きのためでしょう? 任せてください。ちゃんとひとりでできますから……」
「まだ入学するとは決まっていません。最終試験はこれからです」
「わかっています。でも私は合格します」
「ずいぶんな自信ですね」
「自信ではありません。確信です」
──そう、これはすでに決まっていること。
私は、必ずこの学校に入学する。
だって、あの制服を初めて見た5歳のとき、そう決意したのだから。
忘れもしない、あれはクロエがまだ5歳だったころ。
「お母さーん、お母さーん、どこー?」
クロエは、ひとり泣きながら森のなかをさまよっていた。
つい先ほどまで、薬草を摘んでいる母がすぐそばにいたはずだった。
それが、愛らしい蝶をふらふらと追い掛けているうちに、すっかりはぐれてしまったのだ。
「お母さーん、お母さーん」
何度も呼んでいるのに、木々の間には自分の声が響き渡るだけ。
母からのいらえはまったく聞こえてこない。
どうしよう、このままお家に帰れなくなったら。
どうしよう、ずっとひとりぼっちだったら。
小さな背中を、不安がぞわりとかけのぼる。
クロエは大きくしゃくりあげると、そのまま闇雲に走りだそうとした。
そのときだった。
目の前に、鮮やかな青が広がったのは。
「いけないよ。この先には崖しかない」
クロエは、驚いて顔をあげた。
彼女の前に立ちはだかっていたのは、青空色の衣服をまとった少年だった。
「迷子かい?」
「……」
「君の名は?」
「きれいねぇ」
「キレイネ? それが君の名前?」
「ううん、きれい。このお洋服」
しみじみ呟いて、青空色の布地を握りしめる。
少年は「ああ」と目を細めると、丈の長い上着をつまみあげた。
「これは制服なんだ。学校の」
「がっこう?」
「この近くの魔法学校だよ。知ってる?」
「……ううん」
でも、ほしい。
このお洋服、私も着てみたい。
ぎゅうっと手に力をこめたクロエを、少年は興味深そうに見つめた。
「面白い子だね、制服に興味を持つなんて」
大きな手が、クロエを引き寄せた。
「そんなに欲しいなら来るといいよ。うちの魔法学校へ」
以来、クロエは「15歳になったら魔法学校に入学する」と心に決めた。
とはいえ魔法そのものはどうだっていい。
すべては「制服」だ。
あの魔法学校の制服を、自分のものにできればそれでいい。
そんなクロエを、家族や友人たちはいつもあきれたように見つめていた。
「いい加減、あきらめなよ。無理だよ、魔法学校なんて」
それもそのはず「魔法学校」に進学できるのは、ごく限られた優秀な者のみ。しかも、クロエが目指している学校は、この国で一番歴史のある学校だ。
その分、競争率も高く「狭き門」ということで有名だった。
(でも、知らない)
そんなの関係ない。
だって、目を閉じれば、今でもあの日の光景が浮かんでくる。
幼い彼女の目の前に広がった、突然の青空。
決してやわらかそうには見えなかったそれが、まるで意思を持つようにふわりと舞って、小さなクロエを包みこんだのだ。
あの瞬間、クロエの心は決まった。
自分はこれを着る。
この美しくも不思議な衣服を必ず自分のものにするのだ、と。
やがて10年の月日が流れ、クロエにもようやくその機会が訪れた。
一生に一度、15歳の少年少女だけが受けられる「魔法学校」の入学試験。
周囲の予想に反して、彼女は次々と試験を突破した。
そうして、あとは最終試験を残すのみ。
早くあの制服を身につけたい。
私だけの制服を手にしたい。
そのときを、もうずっと待ちわびていた。
この試験さえ終われば、私は制服を着ることができるのだ──
「なるほど。ですが、それならわざわざ入学する必要はありませんよ」
試験官のひとりはそう答えると、黒衣の女性に目配せをした。
その女性が手にしていたのは、真っ白な上着だ。
ずいぶんと丈が長い、見覚えのあるシルエットの──
クロエはハッと顔をあげた。
もしや、これは?
クロエの疑問が伝わったのだろう。
試験官は鷹揚にうなずいた。
「彼女が手にしている上着は、我が校の制服です」
やっぱり!
「14番、今ここでその制服に袖を通しなさい」
「いいんですか!?」
「ええ。なぜなら……」
試験官はまだ何やら説明をしている。
けれども、そんなものはもはやクロエの耳には入らない。
彼女の頭のなかは、目の前の制服のことでいっぱいだ。
ああ、ようやくだ。
この瞬間を、ずっとずっと待ち望んでいたのだ。
10年ぶりに触れた布地は、クロエの記憶とは違ってやわらかくはない。
しかも、色は真っ白だ。
まるで初雪のような、目に痛いほどの白。
クロエの記憶が正しければ、この学校の制服に「白」はない。
青空・薔薇・草原・月──以上4色だったはず。
つまり、この「白」は新色だ。
おそらくまだ誰にも与えられていない、まさに「初雪」のような──
「14番、早く袖を通しなさい」
急かす声に、我に返る。
そうだ、この制服は「私が着るため」に用意されたものだ。
逸る心をなんとか落ちつかせて、クロエは袖に手を通した。
ああ、この瞬間。
今まで何度夢に見たことか。
「すべてのボタンをとめたら、こちらを向きなさい」
わかっている。
でも急かさないでほしい。
どんなことでも「初めて」は一度きりなのだから。
ようやく一番下のボタンをとめ終えると、クロエは正面に向き直った。
試験官たちの視線が、一斉に彼女に集中した。
ある者は息を呑むように。
またある者は探るように。
刺すような視線、冷ややかな視線、あるいは、あるいは──
「わかりました。14番、不合格です」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「えっ、あの……」
「聞こえませんでしたか。不合格です。すぐにその制服を脱ぎなさい」
何を言っているのだろう、この人たちは。
私が「不合格」なんて絶対に有り得ないのに。
呆然と立ち尽くすクロエを見て、別の試験官がため息をつく。
「あなたは先ほどの説明を聞き流していたようですが、今のが最終試験だったのですよ」
最終試験? どれが?
「これは公にされていないことですが、魔法を学ぶには適性が必要です。その適性を確かめるのが、あなたが今、身につけている制服なのです」
適性のある者が身につけると、制服は色を変える。
青空・薔薇・草原・月──そのいずれかの色に必ず布地が染まるのだという。
「しかし適性のないものは、何度身につけても色が変化しません。よって、あなたは不合格なのです」
信じられない。
そんな話は認められない。
「さあ、早く脱ぎなさい。次の受験生が待っています」
嫌だ。これは私のだ。
この制服は私のためのものだ。
「14番、さあ、早く」
嫌だ、絶対に嫌だ!
クロエは一番近い窓辺に駆け寄った。
そして、ためらうことなくその枠を飛び越えた。
長い裾をなびかせて、クロエは校内を走り抜けた。
絶対に嫌だ。
絶対に手放してたまるか。
青空・薔薇・草原・月──どの色に染まらなくてもいい。
真っ白なままでも、この制服はすでに私のものだ。
中庭を抜け、池を飛び越え、ただ地面を蹴り上げる。
目指すは正門──いや、裏門でもいい。
この制服を着たままでいられるなら。
この制服を自分のものにできるなら。
走れ、走れ、走れ。
怯むな、ためらうな、失うな。
絶対、誰にも譲れない。
この制服は、間違いなく私のもの──
「きゃあああっ」
突然、世界が反転した。
強い力に右足を掴まれ、気づけば逆さ吊りの状態で身体が宙に浮いていた。
「やだ、離して!」
誰が捕まえた?
誰がこんなことをした?
必死に訴えているのに、聞こえてくるのはかすかな笑い声だけだ。
振り向いて確かめたいのに、身体の自由がまるできかない。
やわらかな銀の髪の毛も、おそらく今はぐちゃぐちゃだ。
暴れる彼女の背後から「先生、こっちこっちー」と声がした。
男だ。
しかも笑っているようだ。
冗談じゃない。
私は逃げなきゃいけないのに。
「離して!」
「まあまあ、暴れるなって」
「知るか、離せ! 離して!」
嫌だ、譲らない。
絶対に手放さない!
(この制服は、私のもの──)
次の瞬間、クロエの身体はすさまじい熱に包まれた。
「い……っ」
痛い。苦しい。
燃えるように身体が熱い。
「おい、お前……っ」
誰かの焦るような声が聞こえてくる。
でも、知らない。
そんなの構っていられない。
「ルネ、どうしたのですか、これは!」
「わかんないよ、俺にも! せっかくうまいこと捕まえたのに、なんか急に苦しみだして……」
「ひとまず魔法を解きなさい」
「わかった!」
ルネと呼ばれた少年が、なにやら謎の言葉を口にする。
とたんに右足は自由を取り戻し、クロエの身体は真っ逆さまに落下した。
「きゃあっ」
地面に叩きつけられる──そう覚悟したのに、受けとめたのは誰かの腕のなかだった。
クロエは、恐る恐る目をあけてみた。
「悪い、大丈夫か?」
どうやら彼がルネらしい。
深い森を思わせる緑の瞳──そこに自分の顔が映っていた。
けれども、それも数瞬のことだった。
ルネはふっと顔を動かすと「なんだよ、これ」と興奮したような声をあげた。
「すげぇ……炎の色じゃん!」
──炎の色?
怪訝に思ったクロエは、ルネの目線を追って息を呑んだ。
先ほどまで初雪のようだった制服が、なぜか赤く染まっている。
例えるなら炎──あるいはクロエの瞳と同じ「夕焼けの色」だろうか。
「ねえ、これって合格だよね」
「は?」
「この色だと、私、合格ってことになるはずだよね?」
「そんなの、俺に聞かれても……」
「どうして!? 大切なことなんだよ?」
制服の色は変わった。
ならば「適性はある」ということではないのか?
だったら、この制服は「私のもの」のはずなのに。
「立ちなさい、14番」
ふいに届いた静かな声。
いつのまにか、試験会場にいた黒衣の女性がすぐそばに立っていた。
「どうしたのです? 歩けないのですか? だったら術を行使して、あなたを試験会場まで運びますが……」
「嫌です! 拒否します!」
それから、とクロエは制服の胸元を強く押さえた。
「この制服を脱ぐのもお断りです」
そのために試験会場から逃げたのだ。
すべては、この制服のため。
「だからまずは認めてください。私は合格だって」
私から制服を取り上げるつもりはないと、この場で誓って。
クロエの訴えに、黒衣の女性はため息をついた。
「合否はひとまず保留です」
「……えっ」
「このあと行われる審議によってすべてが決まると思われます」
「そんなの知りません」
クロエは、黒衣の女性を睨みつけた。
「合格以外、受け入れませんから。絶対に」
数時間後──クロエ=デュボアの合格が正式に決まった。
この夕焼け色の制服を着つづける権利を、クロエは今度こそ手に入れたのだ。
茜色に染まる校内を、クロエは軽やかな足取りで歩いていた。
まずは家族に、それから友人たちに、合格したことを伝えないと──
「よう」
見覚えのある人物が、正門に寄りかかっていた。
クロエを捕まえ、解放した「ルネ」と呼ばれていた少年だ。
「その様子だと合格か。おめでとう」
「……どうして?」
「うん?」
「合格するのは当然だよ。おめでとうでもなんでもない」
事もなげに答えるクロエに、ルネは皮肉げな笑みを向けてきた。
「ずいぶん自信家だな」
「そんなことないよ。単に決まっていたことが形になっただけだから」
「『決まっていた』って、誰が決めたんだよ」
「もちろん私」
「……だからさぁ」
そういうところだって、とルネは肩をすくめる。
ふたりの姿は、そのまま夕闇のなかへと消えていった。
その様子を、黒衣の女性が眺めていた。
「本当に良かったのですか? あの少女を我が校に招き入れて」
「当然だろう」
そう答えたのは、幾分年かさの試験官だ。
「あの制服の色を見て、君は何を感じた?」
「それは……」
炎、あるいは夕焼け、あるいは──
「不吉な色だ、と」
「そのとおり。文献にもあっただろう」
焼ける太陽の色をもつ者は、いずれ災いをもたらすだろう、と。
「そのような者を放置しておくわけにいくまい」
「ですが……」
「とにかく今は監視せねば」
試験官の言葉に、女性は目を伏せた。
まぶたの裏には焼ける太陽の色が浮かび、やがて静かに消えていった。
最初のコメントを投稿しよう!