綺麗になりたい

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 私は資料をバッグに入れ、引き出しから手鏡を取り出した。それもバッグに入れると、ハンドクリームを手に塗り込む。  大丈夫! 頑張れ私!  自分に言い聞かせていざ出陣。  しかし、途中で怖じ気づいた私は、営業部近くのトイレに駆け込んだ。  大丈夫、大丈夫!  便座に座りながら念仏のように心の中で唱えていると、洗面所の方から声が聞こえた。 「今日も三輪課長素敵だわー」 「あの爽やかな笑顔がたまらん。……でも雲の上の存在だよ」  メイクでもしているのか、カチャカチャという音と共に切れ切れに聞こえる会話。ただ、三輪課長のことを話しているのだけは確かだ。  しっかり聞き取ろうと耳を傾けると「無理無理。課長は綺麗な人がタイプなんだから」と聞こえた。  その瞬間、胸の奥がずんっと重くなる。綺麗な人かぁ……。  営業部の綺麗な女性社員の面々が浮かぶ。あんなに綺麗な人がたくさんいる中で、浮いた話がないということはよっぽどの面食いなんじゃないか。  そんなことを考え始めたら、自信をなくしそうだった。個室に籠ったまま手鏡を取り出す。自分なりに綺麗に着飾ったつもりだ。綺麗になりたいと思いながらたった二日間でも努力した。  鏡に写った私は今にも泣き出しそうな顔をしていた。 「なんて顔してんのさ」  鏡の中の私はそう言った。思わず声をあげそうになるのを必死に堪えた。 「勉強しながら睡眠とりながらケアまでできたんでしょ。あんた、この前よりもずっと綺麗になったよ。まずは綺麗になりたいって気持ちが大事」  そう言って鏡の中の私は、満面の笑みを浮かべた。  私、こんなふうに笑えるんだ……。  鏡の中の私に励まされて、心が暖かくなった。 「行ってくる」  一言そう呟いて、私は営業部へと向かった。中の社員に彼を呼んでもらい、私はドアの外で待っていた。仕事が始まり誰もいなくなった廊下に課長が現れる。 「あれ……向井さん?」 「おはようございます、三輪課長。山本主任から成分表を預かってきました。それとですね……」  私はなるべく笑顔を絶やさないように気をつけながら、成分について、対象の方について、アレルギーがあった場合に代わりになる商品について説明した。 「この資料は君が?」  ざっと作成した資料に目を通しながら課長は言った。 「はい。私はまだ開発部に来て日が浅いのであまりお役に立てませんが、自分なりに少し勉強してまとめてみました。ほんの少しでも今からの資料作りのお力になれればと思いまして……」 「今からの資料作りなんてとんでもない。この資料をそのまま使わせてもらえないかな?」 「え!? こ、これをですか?」 「だめかな?」 「いえ……そんなものでよければ……」 「いやいや、助かるよ。正直、ここまでしてくれるなんて思ってなかったから……」  未だに資料を見つめたまま、優しい笑みを浮かべる彼。頑張ってよかった。私は小さく拳を握りしめた。 「……今日もその香り」 「え?」 「ちょっと気になってたんだ、その香り」 「わ、私も気に入ってるんです……」 「そっか……。向井さん、今日仕事終わってから用事ある?」 「え?」 「資料のお礼に食事でもご馳走させてもらえないかな?」 「えぇ!?」 「あ……もし迷惑とかなら……」 「ぜ、全然! で、でもよろしいんですか……?」 「俺が誘ってるんだけど」  彼はそう言って笑った。 「で、では……お願いします」 「うん。仕事終わったら連絡して」  そう言ってメモ用紙に書かれた電話番号。これって……。 “自分で一線引いて努力を怠ってるだけのくせに”  鏡の中の私に言われた言葉が胸を刺す。 「……課長は綺麗な女性がお好きだと聞きました」  勇気を振り絞ってやっと言えたのはそれ。彼は目をぱちくりとさせ、その瞬間ははっと歯を見せて笑った。 「ああ、言ったかも。……笑顔が綺麗な人が好きって」 「え、笑顔……?」 「うん。向井さんの場合、肌も凄く綺麗だけど」 「へ!?」  体中が熱くなる。これは……急展開、アリですか。 「今日、楽しみにしてる。それじゃ、また」  彼は爽やかな笑顔を残して仕事に戻っていった。暫し呆然としたまま、課長とのやり取りを思い出す。  熱に浮かされながら、開発部へと戻る。その途中の廊下で「千穂?」と名前を呼ばれた。振り返るとそこにいたのは美季菜だった。 「あれ? なんか……綺麗になった?」 「へ? ほ、本当?」 「うん! この前会ったばっかりなのに……」  美季菜は私の顔をまじまじと見る。きっかけはカモミールの香りだったのかもしれない。けれど、私自身に叱咤されて努力できた私。  綺麗になりたい気持ちが、より一層肌を綺麗にさせてくれる気がした。私は美季菜に気付かれないようこっそり電話番号を見ながら、サボっていたスキンケアを毎日続けようと心に誓った。 ーーーー  あれからニキビは数日で姿を消した。あの手鏡も、私に話しかけることはなくなった。  あとから美季菜に聞いた話だけれど、カモミールには〔逆境で生まれる力〕という花言葉があり、あの手鏡は〔恋を応援する魔法の鏡〕というコンセプトで売り出されていたという。  それが関係しているのかどうかはわからないが、逆境に打ち勝ったのは事実のようだ。 〔完〕
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