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本日は開発部と製造部が社員旅行へと行っている。総務課として行けなかった私は、こちらに行ってはどうかと主任から声をかけられた。しかし、三輪課長のいない社員旅行など、意味がないのだ。
美季菜もおらず、男性社員ばかりの開発部では私はぼっち確定。そんな寂しい社員旅行なんて誰が行くもんか。
そんなことを思っていたら、全員が社員旅行に行く中、一人だけ出勤になった私。
とりあえず言い渡されたのは大掃除。調合してそのままの粉末や液体はあちこちで乾いていて取れないし、冷蔵庫の中はいつのものかわからない飲みかけのペットボトルでいっぱい。
何でこんな汚い場所を私一人で片付けなくてはならないのか。明日から土日連休に入るのが救いだが、逆を言えばこれを今日一日で終わらせなければならないということだ。
憂鬱な思いで何とか一段落つき、インスタントコーヒーを淹れたところだった。
だだっ広い一室に成分を調合するスペースと、個々の机。そこでは新しいサプリメントの立案を行う。
私にも一応個人の机は用意されており、その机だけは綺麗に片付けられている。移動してきたばかりで、物がないのも理由の一つだ。
一番上の引き出しから鏡を取り出した。社員旅行で行った本社から、女性社員全員に配られたものだそうだ。
手鏡であり、裏には造花とラインストーンでデコレーションされている。表を向けて自らの顔を写した。
総務課の時にはなかった隈。そして、額と顎にできた大きなニキビ。完全に残業と勉強による睡眠不足のせいだ。
額のニキビは前髪で隠せるが、顎のニキビが気になってマスクを外せずにいた。出退勤時だって着用したままだ。
男性が多い職場とはいえ、既婚者ばかりで恋愛要素はないに等しい。
こんな環境では女子力を磨く気にもなれない。どうせマスクをつけて出勤するしとメイクすることもやめた。
日に日に女性としての魅力が落ちていくのは自分が一番よくわかっている。けれど、三輪課長を見ることのできる唯一の機会を逃がしたのだ。
今の私に今更女子力なんて必要な……。
え……?
私は鏡を見ながら、それを落としそうになる指に慌てて力を込めた。
鏡の中の私が鬼の形相で私を睨み付けていたからだ。
こんな顔、私してるの……?
自覚はないが、こんなに眉間に皺を作っているつもりもない。私はそっと右手で自分の眉間を触る。そこに皺はよっていないし、おかしなところはない。
では、鏡の中の私の表情はなんなのか……。
わけもわからず右手をどけて再度鏡を見る。すると、鏡の中の私は尚も怖い顔をしながら「ぶーす」と言った。
「ひゃあ!?」
私は驚いて手鏡を机の上に放り投げ、椅子から飛び退いた。勢いよく後ろを振り返り、また前に向き直り辺りを見渡す。しかし、当然この部屋には私一人。
冷蔵庫の音とパソコンが起動する音。残暑が残る室内を少しでも快適にさせるエアコンのファンの音。そんな日常生活音しかない。
ここには私一人。おかしなことではない。それが今の普通だ。私はそぉっと椅子に腰をかけ、再び鏡を覗き込んだ。
「何今の顔。もっとぶす」
「ぎゃー!!」
明らかに私に対して喋った私。叫び声を上げながら、私は鏡を裏にして伏せた。
「な、な、な、な、何事!?」
嫌な汗が滲み、鼓動がドクドクと速く、激しくなる。まるでマラソンをした後のように息苦しくなり、胸は痛い程だった。
何がどうなって……。
私はとりあえず何が起こっているのか確かめようと、二度深呼吸をしてからもう一度鏡を表に向けた。
「なんて声出してんの。豚の鳴き声だってもっと可愛いわよ」
私の顔で私に悪口を言うのは止めていただきたい。
「あ、あの……あなたは誰ですか?」
恐る恐る鏡に向かって話しかける。こんな場面誰かに見られようものなら、明日から社内の奇人扱いだ。
「は? 何言ってんの? 私はあんた。向井千穂」
「……待って。私、喋ってない……」
「私が喋ってるじゃない」
「……そ、そうじゃなくて……これは夢なのかな……」
「夢なわけないでしょ。夢と現実の区別もつかない程落ちぶれたの?」
鏡の中の私は中々の毒舌である。いくら私でも、些か頭にくるものがある。しかし、怒りよりもまだこの不思議な出来事への恐怖が勝って強くは出られない。
「だっ、だって……夢でもなきゃこんな不思議なことが起こるはずな……」
「あんたの普通って何?」
言葉を遮って鏡の中の私は言った。
「え?」
「むさ苦しい、頭でっかちな男ばかりがいる職場に異動させられてさ。総務課にいた時には毎日メイクして、そこそこ綺麗な服着て出勤してたじゃない。それが今じゃどーでもいいようなよれよれのTシャツ着て、毎日同じジーパン履いてさ。悲しくないわけ?」
「そ、それは今関係ないじゃない」
「関係大ありでしょ! それを何とも思わないなんて、あんたこそ普通じゃないわよ! そんなでっかいニキビ作って、マスクで隠してコソコソ出勤して! 恥ずかしいと思わないなんてどうかしてる」
鏡の中の私は頗る不機嫌である。
そうは言ったってしょうがないじゃない。毎日寝不足で、朝だってギリギリまで寝てたいんだから。早起きしてメイクして綺麗な格好で出勤しろなんて鬼ですか。
「そんなの言い訳でしょ」
「!?」
私なだけあって、私の考えていることなど全てあちら側には筒抜けのようだ。言葉にする間もなく白い目を向けられる。
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