窓から雨を眺める

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 厚い雲が街を覆って細かい雨が真直ぐに降っていた。  昼前だというのに街全体が薄めた墨を流したように単色に沈んで、遠目にひどく静かだった。だけど広げた傘の面には雨粒が途切れなく降り注いで、僕の周りは放送終了後のテレビのような音に包まれていた。遠くにある信号機の青い灯だけが、昔の映画のように安っぽく滲んで見えた。  彼女の部屋は四階建てアパートの三階にあった。エレベーターを降りて手前から三つ目のドアを目指して廊下を歩くと、目の高さまで迫った曇り空の下に佇む家並が見下ろせた。足を止めて手摺に近づいて見下ろすと、所々空き地が目立つ住宅街は、雨が上がるのをじっと待ち侘びるように蹲っていた。振返って、たった今歩いてきた駅からの通りを見下ろすと、道路に面した店は半分がシャッターを降ろし、もう半分は入口のガラス戸をしっかり閉じて客を寄せ付けない覚悟を決めていた。目の前を横切る電線の下を申し訳程度に車が走り去っていった。昔からこんなに寂れた街だったかとふと思ったが、気を取り直して本来の目的に向かって歩き出した。  ドアノブを手前に引いてみるとドアは当たり前のように開いた。鍵がかかっていないことには驚かなかった。彼女ならそんなの当たり前だろうと思った。  実のところ彼女の部屋を訪ねるのは初めてのことで、部屋の間取りも知らなかった。短い廊下が目の前に延びていて、左手には木製のドアがある。おそらくトイレか物置なのだろう。廊下の突き当たりは引き戸が開いていて、明るい色をしたフローリングの床が見えた。きっと手前にキッチンがあり、その奥が食堂を兼ねた居間、その右隣が六畳程度の和室というところだろう。もしかしたら和室のこちら側にも、小さな部屋があるかもしれない。  呼び鈴を押さなかったせいもあるが、奥から彼女が顔を出す気配はなかった。この場で声をかけてもいいのだが、なんとなくそのまま靴を脱いで勝手に上がり込んだ。スリッパを履かない足の裏に微かにべたついた床の湿気が伝わった。六月終わりの生暖かい空気が重たく沈殿する廊下を抜けると、思いのほか明るい空間が広がっていた。想像通り左手には二人も入ると一杯になりそうなキッチンがあり、造作壁の向こうの居間に向かって調理台が据えられている。流しの中には皿やお椀やグラスが放り込まれたままになっている。居間の壁が白いだけでなく、部屋の真ん中にこじんまり置かれた座卓の他には大した家具もないため、実際以上に部屋が広く見えるらしい。正面は狭いテラスに出るためのガラス戸で、雨模様のくせにやけに明るい光が差し込んでいる。居間の右隣には想像通りの和室があり、そこから掃除機の音が聞こえていた。  掃除をしていたから、僕が来たことに気づかなかったんだと思い、居間を回り込んでその姿を視界に捉えると、そこにいたのは彼女ではなく、僕の妻だった。  思わず漏れそうになった声を押し止めるため左手で口を覆い、息を飲み込んでその場に立ち尽くす僕に気づいて、妻は後ろを振返った。妻は僕を見つけると「あら、来たの」と当たり前のように言って、すぐに向き直って掃除を続けた。   僕は、何故ここに妻がいるのかわけが分からず、身体が跳ね上がりそうなくらい大きく心臓を波打たせながら、それでもまだ忙しく目を泳がせて、彼女の姿を部屋の中に探していた。耳障りな掃除機の音が纏わりついて、今のこの状況がどういうものなのか考えようとしても一向に答えが纏まらない。答えどころか、自分が放り出されている状態すら正確には理解できなかった。一体彼女は何処に行ってしまったのか、何故妻はここにいるのか、何故妻は僕と彼女の関係を知っているのか、何より僕と彼女の関係とは一体何なのか。  そこまで思い巡らせたところで、僕の疑問は一旦中断し、短い沈黙に入った。それから徐に頭を擡げて、今度は大きく方向を変えて次第に大きく膨らみ始めた。そもそも僕と彼女はどういう関係なのか。浮気相手と言えばそういえるのだろう。妻以外の女性に気持が向かったのだからそれは否定しない。彼女もそれを歓迎していたと思う。僕たちは何度か一緒に食事をし、酒を飲み、暗がりに寄り添ってキスをした。そんなことを何度か繰り返し、彼女をこのアパートの前まで送り届けたが、彼女はそこから先に僕を誘うことをしなかった。僕が半ば強引にエレベーターに向かおうとすると怒りを露わにして僕を詰り、独りでもう一度街の方に走り出そうとした。僕は仕方なしに彼女を連れ戻し、泣きじゃくる彼女を宥め、そのまま別れを告げて立ち去った。  家に帰りつくと妻はいつも通りに僕を迎えてくれた。僕はうしろめたい気持ちを悟られないように振る舞い、上着を脱ぎ、顔を洗い、用意された夕食をつまみに缶ビールを飲み、仕事の愚痴を言い、テレビを観ながら転寝をし、風呂に入り、布団に潜り込んだ。布団の中で、もしかして彼女から先程の仕打ちを詫びるメールが来ていないだろうかと淡い期待を抱いてこっそり抜け出して携帯のメールを覗き込むと、それらしい知らせは一切なく、僕は落胆してもう一度冷えた布団に戻って、彼女を罵る言葉を思い浮かべながら眠りに落ちた。  妻に対するうしろめたい気持ちを抱きながら、彼女への恋しさが日に日に膨れ上がって、僕は僕たちの関係を独りよがりな妄想の中に進展させようとしている。その中で彼女は僕を優しく受け入れ、誰からも咎められることなく僕たちの悲願は成就し、甘やかな幸福が訪れるはずだった。そして、そこに妻の姿はない。  だのに、いま僕の目の前には妻の後ろ姿があり、彼女は何処にも居ない。掃除機の耳障りな排気音が、殺風景な部屋の中にうつろに響いている。  背後に立ったままの僕を不審に思ったのか、妻は僅かに振返って視界の隅に僕を認めて口を開いた。 「そこで何してるの」 「掃除を見てる」  と、僕は苦し紛れとは思えないくらいすんなりとそう答えた。 「馬鹿みたい」と呟いて、妻は苛立たしげに「気になるからどっかに行ってくれないかな」と言った。  そう言われても、彼女の所在が分からないのに言われるままにここを出て行くわけにもいかないので、僕は逆に妻に尋ねた。 「お前こそ何時まで掃除してるの」 「きれいになるまでに決まってるじゃない」  妻の答えには取り付く島もなかった。相変わらず掃除機の排気音が耳を聾するばかりに鳴り響いている。まるでそれは妻の身体から発せられているように聞こえた。  僕は、いたたまれなくなって顔を背け、窓の外を眺めた。  相変わらず細かい雨が降り続いているが、雨音は掃除機の音に掻き消されて聞こえてこない。むしろ後ろから聞こえるけたたましい排気音が眼前の光景に同調して、それこそが雨音のような気がした。屋根を叩く雨粒の音ひとつひとつが集合し響き合ったそれは、今背後に鳴り響く音に違いない。降りしきる雨に重なる大袈裟な効果音は、何処か悲劇的な色を帯びていた。  僕は、身体の向きを変え窓に近づき、外を眺めた。  雨の勢いは弱まるどころかますます激しくなっていたが、空の色は比べようがないくらい明るくなっている。空が一段高くなったように遠くまで薄い灰色に染まって、奥は微かに水色がかっていた。雲の底は同じく蛍光管のように輝き、街全体を遠近感を無視して浮き上がらせているのに、そこに落ちる雨粒だけが、この世の終わりのように執拗に降り続いている。何処か荘厳な宗教画の一場面のようにも見えた。  窓際に立ってガラス越しに見下ろすと、そこはアパートの駐車場だった。部屋の数だけ切られた駐車スペースの区画線が、黒々と濡れたアスファルトの上に鮮やかな白の縞模様を描いていた。向かい合わせになった櫛形の所々に住人の所有する車が置かれている。車の屋根を真上から見下ろす機会はあまりないので、それが新鮮に映った。  僕は窓を開けて狭いテラスに出て、より劇的に眺めるため首を手摺の外に伸ばした。頭に激しく雨が叩きつけたが、何故かやめることができなかった。  僕の真下には、青い小型のステーションワゴンが停まっていた。メタリック塗装の屋根が空の明るさに映えてきらきらと綺麗に輝いている。普段から入念に洗車しているらしく、雨粒が丸い玉になってボディを滑り落ちていた。それを飽きることなく眺めていると、何処から飛び出してきたのか、黒い猫が走り込んできて身軽にボンネットに飛び乗りそのまま屋根まで飛び上がって、真直ぐに僕を見上げてきた。  僕は、急な出来事に驚いてびくりと肩を震わせたが、猫の一連の身のこなしに魅せられて目を逸らすことができずに、猫を見下ろしていた。三階の高さから眺めると、猫の身体はゴルフボールくらいにしか見えないのに、なぜかその目は大きく迫ってきた。昼間の目は刃物で切り開いたように細く深淵のような隙間を開け、そこから邪な念を送るようにじっと僕の顔を捉えて放さない。僕はその視線に縛られてどうしても目を逸らすことができない。車の上の猫にも、テラスの上の僕にも同様に雨は降り募り、互いを冷たく濡らし続ける。前髪から滴り落ちる雫が額から頬を伝い顎からシャツに流れ込んで、僕の上半身はいつか水浸しになっていた。猫は言うに及ばない。全身の毛が毛羽立ちその先からぼたぼたと雫を落としながら、まるで僕を哀れむように見上げてじっと動かない。  ふと、僕はそれが彼女なのではないかと思った。思い当たった瞬間、全ての謎が解けたように、その小さな濡れた塊が堪らなく愛おしく思えた。何故そんな姿で僕の前に現れたのかは分からないが、それは彼女以外の何者でもあり得ない。僕は、思わずテラスから身を乗り出して、彼女に向かって声をかけようと口を開いた。 「あなた」  背中から不意に声をかけられ、僕は彼女の名前の代わりに小さな悲鳴を上げて振返った。  妻は、何時の間にか掃除を終えて掃除機のノズルを握ったまま僕のすぐ後ろに立っていた。その顔には、侮蔑とも憐憫ともつかない冷ややかな表情が貼りついていた。 「何してるの」  その声に鳩尾の辺りが冷たく引き締まり、全身に鳥肌が立った。 「お前こそどうしてここに居るんだ」  思わず口を突いて出た言葉は痰が絡んでやけにしゃがれて聞こえた。言ってしまってから後悔が溢れた。妻は、僕の口走った言葉の意味が分からないという風に小首をかしげて見せ、そして言った。 「何言ってるの。ここはあたしの家じゃない」  思わぬ言葉に、僕は呆然となった。  言葉の意味を測りかねて、妻の顔を見詰めたままその場に立ち尽くした。濡れた髪から滴り落ちる雫が足元に溜りを作っていくのがわかった。  僕は、妻の言葉を頭の中で反芻しながら、辺りに目を走らせた。言われてみれば、どうして僕は初めて訪れるはずのこの部屋の間取りが分かったのか。何処にでもあるアパートの間取りと言ってしまえばそれまでだが、僕は玄関を開ける前からこの間取りと醸し出す雰囲気を知っていたような気がする。白い壁の色も、少しべたつく床の感触も、窓から眺める低い街並みもすべて、以前から慣れ親しんだものではなかったか。走らせる視線の先に、居間の向こうのキッチンが見える。そこに立つ妻の姿を幾度となく眺め親しんだ気もしてくる。  しかし、微かな疑問が頭を擡げる。  洗い桶に投げ込まれたままの皿やグラスが脳裏に浮かぶ。妻は、使った食器を何時までも流しに放置するようなことはなかったはずだ。気にし始めると、居間の食卓の上に置かれた調味料の容器のわざとらしさも、壁にかかる時計の趣味も違和感を持って迫ってくる。何もかもが舞台装置のように安っぽく見える。ここが妻の部屋だったという記憶が、捕らえどころのない立体映像のように縦横に揺れ始める。  そう、妻は実家住まいだったはずだ。彼女の部屋は白い壁の二階家の南角にある八畳間だったはずだ。シンプルだが趣味のいい飾り棚が据えられ、ごたごたした装飾は一切なく、ベッドのシーツはその几帳面さを物語るように皺一つなく、そしてそこに佇む結婚前の妻は、若く美しかった。  きっとこの部屋は、妻が仕掛けた復讐のための舞台なのだ。この部屋の嘘っぽさがかつての妻の部屋と、かつての妻の姿を思い出させ僕を苛んだ。  僕はいつのまにか道順を誤り、彼女のアパートのつもりでこの部屋を目指してきたのだ。妻が待ち構えるこの部屋に。妻は周到に網を張り巡らし僕を誘導し、きっと僕はもうここから出ることはできない。  では、いったい彼女の部屋は何処に行ったというのだろう。あの夜見上げた建物の影は間違いなくこのアパートだったはずだ。部屋の場所も間違えていない。この外の通路を歩き、この部屋のドアを開けて入って行く彼女の後ろ姿を、僕は道の上から見上げていたのだ。ここで間違いはない。  僕は慌てて振返り、テラスから身を乗り出して眼下の猫の姿を探した。  激しく降り注ぐ雨の先には、相変わらず青いステーションワゴンが屋根に落ちる雨粒を躍らせてぽつんと停まっている。差し込む日の光が車体を銀色に縁取り輝かせる。しかしそこに居た猫の姿はない。駐車場の端から端まで目を走らせても、敷地を囲うブロック塀の上を捜しても、黒い影は見つけることができなかった。  僕はテラスを離れ、部屋の中に足を踏み入れた。身体から滴る雨水が、みるみるうちに床に溜りを作っていく。そんなことにはお構いなく足を運んで、僕は妻の前に立った。 「何処にやった」  そう僕は訊ねた。  妻は、再び侮蔑とも憐憫ともつかない冷ややかな表情を浮かべて僕を真直ぐに見詰め返した。その視線に耐え切れず先に逸らした僕の視線は、ふらふらと部屋の中を彷徨い、そして、さっきまで妻が掃除をしていた和室の押入れの前で止まった。押入れの襖がほんの少し開いていた。白い壁と、白い襖の隙間に、黒い闇が顔を覗かせていた。ああ彼女はそこに居るのだなと納得して、僕は視線を妻に戻した。 「どうして」  そう訊ねる僕の声はもはや声にはならなかった。かすれた息が喉を切なげに鳴らしただけだった。  妻は、僕の顔を見上げている。その目がふと緩んで優しく笑いかけた。 「愛してるわ」  そう呟く妻の声は、すぐに彼女がスイッチを入れた掃除機の音に掻き消された。  部屋の中は激しい雨音に包み込まれた。  終
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