後輩

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「先輩、私になんか言うことないですか」  見上げてくる後輩の、その自信に満ちたキラキラな笑顔が鼻についたので「ない」と即答しかけたが、はて、何かあっただろうか。  謝ること? はないし、俺から頼んだ仕事も特にない。今こうして会社まで二人で歩いているのも、何か約束があったからというわけではなく、ただ牛丼屋を出たところでいきなり物陰から現れたこいつに飛びかかられたからだ。  いきなり物陰から現れて飛びかかってくる後輩にこちらから言うことなど、「やめろ」以外に何もないのではなかろうか。 「ヒントをくれ」 「私ですね。私がヒントです」  よーく見てください、と仁王立ちする後輩。さてはあれか、前髪を切ったから気づけとか、可愛い服を着ているから気づけとかそういう類いのあれだな。  しかしこいつの前髪はというと、いつも通り頭の上で一つに結われている。着ているものもいつものオフィスカジュアルで、これといった変化は見受けられない……となると、……となると、なんだ?  全力スマイル及び全開おでこから放たれる、太陽光のごときエネルギーに気圧されながら再度後輩の顔を見やるも、思い当たることは何もなかった。  ――ただ、一点を除いては。  口にすべきか? という迷いが鼓動を早め、首元にじわりと汗を垂らす。こうしてわざわざ訊いてきているのだ、答えてやらないのは――いや、答えないのは、俺の気持ちに反するんじゃないか?  恐る恐る口を開く。周囲を行き交う人の声が聞こえなくなった気がした。 「……最近、キレイになった?」 「えへへ、やっぱそう見えます?」  一瞬、驚いたかのように目をぱちくりさせた後輩は、次の瞬間には目を細め、人の悪そうな笑みを浮かべてそう言った。  なんだか想定していた反応と違う気もするが、こいつに想定通りを求めるのもお門違いというものだろう。  配属早々、まだろくに言葉を交わしたことのない俺の席を突如巨大なテディベアで占拠させたり、会議で席を離れていた隙にデスクトップを自分の画像にしてきたり、社食のおばちゃんに根回しをして俺の時にだけご飯を五倍寄越してくるような後輩に、想定通りなど、 「実は好きな人が出来て……」  ……これはある意味想定通りだったが。  両手で自分の頬を包みながら、後輩は続ける。 「柄にもなく、最近スキンケアとか頑張っちゃってるんですよね! おかげでお年頃のお肌もつるつるのぴかぴかですよ、いやーこれは世界がほっとかない。自信もつくってもんですね!」 「お前は最初から自信の塊みたいなもんだろうがよ……」 「そんなことないですよ! ……今だって結構、勇気出してるんですよ……?」  不意に吹き抜けた風が、後輩の髪を揺らした。  気がつけば会社の前まで来ている。誰もいないエントランスを背にして立ち止まった後輩の、大きな黒目を真っ直ぐに見られない。思わず逸らした視線が捉えた、つるつるのぴかぴかな額が脳に強烈に焼きつくようだった。  ……何やってるんだ、俺は。 「私の好きな人、知りたいですか」 「お、おう……」  喉から絞り出された随分と情けない声を、こいつはどう聞いただろうか。  大きく息でも吸うかのような一瞬の間の後、 「隣の部署の、コセくんです」  後輩は、少し照れたような声音でそう言った。 「……」  間違いなくそう言った。  再び吹きつけた風にジャケットの裾を揺らしながら、この後輩に想定通りを求めるのはお門違いだと、俺は心からそう思った。
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