いつか死ぬキミと見た、あの海を。

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 午後五時。  春はすぐそこまで来ているっていうのに、日が暮れるのはまだだいぶ早い。坂ノ下海岸に続く階段に腰かけながら、僕はそんなことを考えて、燃えるように赤々と煌めく相模湾をぼんやりと眺めていた。  鎌倉に来て二日。この二日間で、色々な海の顔を目にすることが出来た。  空の青色がそのまま水面に反射したような、生命力のある鮮やかな朝の海。  闇夜に浮かぶ白い月が、光の粉となって静かに舞い落ち煌めく夜の海。  そして、沈みゆく夕日の燃えるようなオレンジ色に染まる黄昏の海。  どの海の姿も僕の目には力強く穏やかで、何より息を呑むほど美しく映った。  世界には、心から綺麗だと感動できるものがあといくつ存在しているのだろう。それはきっと、人によって数が変わってくるものだと思うけれど、今の僕にとってこの景色は、その中でも一番価値のあるものとして映った。  今までの僕の人生において、これよりも心揺さぶられるものに出逢ったことはまだない。もしかすると、この順位は今後何度か変動を繰り返していくのかもしれないけれど、今この瞬間の一番は、目の前に広がる黄昏の海で間違いはなかった。  僕はそんな景色に目を向けながら、引いては押し寄せる波のさざめきにそっと耳を傾け、今日の出来事を一つ一つ思い返していく。  最初に立ち寄った小町通りでは何軒かの土産物屋を見て周り、店先で食品をいくつか試食しながら、鎌倉の有名参拝スポットでもある鶴岡八幡宮へと足を運んだ。きっと夏や冬の時期に訪れれば、国内外から来た多くの観光客で賑わっていたんだろうけど、今が観光のオフシーズンということもあって、観光客らしき参拝者は僕を含めても数名程度だった。その後に訪れた佐助稲荷神社や妙本寺なんかも様子は同じで、人の多さに辟易することなくスムーズに観光を進めることが出来た。昼時には、最初に訪れた小町通りに戻って『しらす丼』なるものを食した。なんでも鎌倉を含む湘南では、このしらすが名物となっているらしい。その証拠に、どの飲食店のメニューを見ても必ずと言っていいほど『しらす』の文字が書いてあった。  午後からは江ノ電を使って北鎌倉方面に足を延ばし、いくつかの神社仏閣を見て周った後、ホテルの最寄り駅でもある長谷駅までやってきて鎌倉の大仏で有名な高徳院を見学した。出来れば江ノ島方面にも足を運んでみたかったけど、時間的な問題と体力的な問題に阻まれて今日は断念せざるを得なかった。  そんなわけで高徳院からまっすぐホテルへ向かって歩いていたところ、夕日に照らされる相模湾を目にし、気がつけば三十分以上もこうして海を眺め続けていた。  海風にさらされ続けた耳はとっくに感覚を失い、スマホを操作する指は悴んで錆びついた機械のような動きをただ繰り返すだけになっている。  本当なら陽が沈むまでここでじっと海を眺めていたい。だけど、疲労とこの寒さで僕の身体の方が先に限界を迎えてしまいそうだ。あいにく、海なら部屋からでも見ることはできるし、明日だって残っている。そんなに名残惜しむこともないだろう。  僕は自分自身にそう言い聞かせて腰かけていた階段から静かに立ち上がると、コートに付いた砂を軽く払いのけてからホテルに続く歩道へと戻る。  ——彼女の存在に気が付いたのは、まさにその時だった。  海岸と歩道を隔てる塀の上に、一人の少女が佇んでいる。  黒のキャップ帽を深く被り、肩まであるセミロングの黒髪が水中を漂う海月のようにゆらゆらと風に靡いている。また、サブカルチャーショップで売っていそうな意味不明な柄のパーカーと防寒対策がそれほど成されていないように見える黒のストッキングとホットパンツが妙に目を引いた。そして、何より強く引き付けられたのが、その横顔だ。  帽子の影からかすかに見える、水平線のさらに向こう側をじっと見つめているような、そんな遠い瞳。……多分、海を見て感動しているというわけじゃない。それよりもっと強い想いを胸にして、僕には見えない何かを逃がさないようにと、じっと見つめているようなそんな瞳だ。  一体いつからそこに立っていたのか。  そんなところで何をしているのか。  その瞳には、一体何が映っているのか。  これまで他人に対して無関心を貫いてきたこの僕が、名前も知らないその少女に対して関心を抱いている。気がつけば、僕は彼女の横顔から目をそらすことが出来なくなっていた。  穏やかな波のような、緩慢とした時間が僕たちの間を流れていく。  ——瞬間。一際激しい海風が水平線の向こうからやってきて、僕たちの感覚ごとどこか遠くの方へと消え去っていった。それによって、微動だにしなかった少女の小さな体が大きく揺れ動く。  危ない! そう口にするよりも先に、硬直していた手足が彼女の方へと向いた。けれど、どうやらその心配は杞憂だったようで、彼女は器用にバランスを取り戻すと再び塀の上に立ち直した。  僕はほっと小さく安堵の息を吐きながら、彼女に向けていた手足をそっと引っ込める。  すると、今まで海の向こう側にのみ向けられていた少女の瞳が、初めて僕の方へ向いた。  「……なに?」  「えっ? いや、そんなところにいると危ないなと思って。……ほら、そこ、すぐ下は海になってるし」  突然の問いかけに驚きながらも何とかその問いに対する言葉を返すと、彼女は「うん、そうだよね」と納得したように小さく呟き、さらに言葉を続けた。  「あたしも危ないと思う。打ち所が悪かったら、この高さからでも死ねるかもしれないよね」  羽のように軽く、けれど一切ぶれることなくまっすぐ僕の元まで伝わるその声からは、まるで悪戯がバレた子供のような無邪気さを感じた。  「危ないところが好きなの?」  「んー、まぁ、そんな感じ」  そう言って彼女は、軽い身のこなしで塀から歩道側に飛び降りてくると、再び質問を投げかけてくる。  「ねぇ、あんたって、ここに住んでる人?」  彼女の言う『ここ』が鎌倉市全域を指すのか、それともこの坂ノ下海岸を指すのか分からなかったけど、どちらにせよ答えはNOだったので僕は首を横に振って答える。  「いや、観光しに来てるだけだよ」  「あっそ。じゃあ、あたしと一緒だね」  「キミも観光? こんな時期に一人で?」  「まぁね。ところであんた名前は?」  「……悪いけど、知らない人に自分の個人情報を教えるのは好きじゃないんだ」  パーソナルスペースを無視して次々と質問を投げかけてくる彼女に嫌気が差した僕は、少しばかり意地悪な返しをしてみる。すると彼女は、吊り上がった大きな目をさらに大きく見開いて悪戯な笑みを浮かべた。  「奈加」  「えっ?」  「あたしの名前。桐野奈加。これで知らない人じゃなくなったでしょ」  それは一体なんて言う頓智なんだい? そう声に出して言いそうになったのをぐっと堪え、代わりに大きなため息を一つ吐く。  「……ナナミ、佐久間七海。漢数字の七に海と書いて七海。僕の名前」  「へぇ、ナナミか。変わった名前だね。女の子みたい」  「キミには言われたくないな」  きりのなか。キリノナカ。霧の中。  一体どういう字を書くのか僕は知らないけど、音だけならそっちの方がだいぶ変わってる。これだから人に名前を教えるのは嫌なんだ。  「あははっ。でも、いい名前。『海』が入ってる」  彼女……桐野さんは自分の名前については一切触れず、瞳とは対照的に小さな口を目いっぱい開いてひとしきり笑ったあと、体を海の方に向けながら、まるで自分の宝物を自慢するみたいに両手を大きく広げてみせた。  その先にあるのは、黄昏色に染まる相模湾。  何度見てもその美しさは変わらない。だけど、桐野さんの言葉を受けた後の景色は、なんだか少し色合いが鮮明になったような気がした。  「……そうかな」  「うん。そうだよ」  桐野さんは間を開けずにそう返すと、再び僕の方へ体を向けて口を開く。  「話は変わるけどさ。あたし、ついさっき鎌倉に着いたばっかで、今晩宿泊するホテルまだ探してないんだよね」  「へぇ、そうなんだ。それじゃあ早いところ見つけないとね。ここら辺は車通りも多いし、夜になってからだと危ないよ」  まぁ、この時期ならどこのホテルもそれなりに空きはあるはずだし、部屋なんてすぐに見つかると思うけど。そう付け加えようとして正面に立つ桐野さんに目を向けると、一瞬、彼女の口元が嫌な歪み方をしたように見えた。  ……まるで、これからイタズラを仕掛けようと企んでいる無邪気な子供のように——。  桐野さんは僕の顔を下から覗き込むように見上げると、あざとく媚びるような視線を向けて口を開く。  「うん、それで物は相談なんだけどさ」  「……相談?」  「今晩、七海の部屋に泊めてくれない?」  「…………なんだって?」
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