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#1 待ちかねていた夏のはじまり
「明日、不動産屋さんに行ってみようか」
洗い物をしているわたしを背後からぎゅっと抱きしめて、侑一さんが言った。
「紗友里、仕事にもだいぶ慣れてきたみたいだし。いい物件があったら、すぐにでも決めたいなって思ってるんだけど」
弾んだ声でそう続けて、わたしの髪にキスを落とす。
もう、侑一さんってば──こんなに暑いのに、すぐくっつきたがるんだから。「暑いです」って言ったら、「えっ、もしかして嫌なの?洗い物させちゃったこと、怒ってる?」と不安そうな声が降ってくる。
「怒ってないです。ただ、暑いのになあって思って」
「去年の夏は、会うたびにくっついてくれてたのに……もしかして、倦怠期?」
侑一さんはわたしからパッと離れると、がっかりしたようにソファーのほうに戻っていく。俺たち、婚約してるのに。拗ねたようにスマホをいじるその姿を見て、思わずプッと吹き出してしまった。
「あ、笑った。俺、本気でショック受けてるのに」
「ごめんなさい。洗い物が終わったら、すぐそっちに行きますから」
お皿をすすぐ手を止めて振り向くと、侑一さんが顔を上げて、「ほんと?」と口を尖らせる。ほんとです、と返して、シンクに残るお皿やお茶碗を片す手を早めた。
*
わたしが社会人になってから、早くも3ヶ月が経った。
隣町の市役所に就職したため、普段は実家から車──お母さんと共用の軽自動車だ──で通っている。
金曜日の夜はこうして侑一さんの家で過ごすことがほとんどなので、行きは電車を使って、帰りは彼が職場まで迎えに来てくれる。
22歳の誕生日にプロポーズされて、お互いの実家へ挨拶に行って──そのときからふたりの間で決めていたのが、「夏から同棲しよう」ということだった。
先週から7月に入り、待ちかねていた夏がやってきた。社会人生活にも慣れてきたし、ようやく、「侑一さんとのこれから」をきちんと考えられる段階まで来たのかな。最近のわたしは、そんなふうに思っていたのだった。
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