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昂った鼓動を抑えるために深く息を吐き、彼女の背中をまっすぐ見つめて声をかける。
「雨は止まないよ」
「……止むよ」
「止んでほしくない」
姿勢を変えないままの彼女が、これ以上亀裂を広げる言葉を吐かないように祈りながら、僕は僕の最善の答えを探す。けれど、多分それが正しくできるのであれば、こんな話自体しなくて済むのだろう。
「サボテンは要らないの?」
やけくそ気味に、敢えて事の発端になったサボテンについて触れる。
「それはもうあなたのだから」
あらかじめ思いを巡らせていたからか、彼女の言葉が抱えるほつれを反射的に見つけることができた。
「もう?」
確認の意味を込め、できるだけフラットな気持ちを添えて彼女に問う。彼女の揺れが止まり、部屋の空気が止まる。雨が遠くの窓を叩く音だけが鳴る。
「ごめん」「ごめんなさい」
どれくらいかの沈黙のあと、二人してほとんど同時に口を開いた。言葉の意味合いは違えども、ほんの少しだけ張り詰めた何かがほどけた気がした。
「このサボテン、持ってきたのわたしだよね」
彼女は窓を見つめたままで、その表情は分からないが、声色には少しだけ明るさが加わっている。
「覚えてないんだけど」そう前置きして彼女は続ける。
「これ、あの日一緒に飲んでた先輩からもらったみたい。あなたの事を話したら、あんまりにも枯れすぎてるって心配されて、帰りに先輩の家に寄って渡されたらしくて」
「まずは植物から育てさせなさいって」
「まずは」という単語に胸が一拍跳ねる。僕はじれったさを覚えつつも、ただ彼女の言葉を待つ。
「しばらくあとになって、サボテンは元気かって先輩に訊かれて、でもそれは、あなたに『らしくないね』って言ったあとだったから、ひどいことを言っちゃったなと思ったけど、どうにも切り出せなくて」
「言い出せないまま、今日リッチーのとげが手に刺さって」
彼女は首をすぼめ、少し声を震わせる。
「わたしが持ってきたもので、わたしが痛い思いをして、ひとりで勝手に怒ってるのを見せちゃって、あなたからすればひどい貰い事故というか、ガマンの利かないところをこれ以上見せたくなくて」
だんだん脈絡が繋がらなくなりつつも真剣な彼女に対して「リッチー」という響きの間抜けさが際立ち、僕はこみ上げる笑いを抑えられなかった。
「ちょっと落ち着こう」
彼女の防御姿勢を解こうとなるべく優しく声をかけるも、頑なに三角座りを崩さない。仕方がないので、そのまま話すことにする。
「まず僕は怒ってないし、貰い事故だとも思ってない。君が勝手に怒って、悲しんでるのを見て、正直なんて声をかければいいか分からなかっただけで」
「あの夜サボテンの鉢に名前を書いたのは、真夜中に床一面を掃除しなきゃならなかった腹いせの意味も少しはあったけど」
僕の本音に、彼女はバッと首を上げた。けれど振り向いてはくれない。
「わたし、そんなことさせたの」
「させた」「けどもうそれは別によくて」
なるべく重荷を背負わせないように、軽く流して続ける。
「そんな風に僕だって怒ることもあれば、僕の気付かないところで君を怒らせてることもあるだろうし」
「あるね」
遠慮のない一言に、本当の彼女を感じた。
「……まあ、そうやって、怒る怒らない、許す許さないの限界は、これからちょっとずつ大きくしていければいいなと僕は思う。それよりも、君がいないと困ることがいっぱいある」
「例えば?」
僕は先ほど思いついた彼女の魅力を列挙してやろうと思っていたが、いざそれを尋ねられると急に喉がぺたりと張り付き、顔が熱くなるのを感じた。
「ねえ、例えば?」
多分、甲斐性のある男だとスラリと言えるのだろうけど、今日の僕にはこれ以上は無理だと思った。
「……また部屋にキノコが生える」
彼女はぶふっと噴き出して、やっとこちらへ向き直り、いつも通りに屈託なく笑った。
「それは困るだろうね」
「どうせなら食べられるやつがいい」
「部屋に生えるのはちょっと嫌だから、雨止んだらスーパーに行こう。キノコ鍋したい」
二人で窓際に座り、少しだけ明るくなった空を眺める。まだしばらくは降り続きそうだ。
そろそろ止んでも、ずっと止まなくてもいいなと僕は思った。
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