《サンプル版》1.律

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《サンプル版》1.律

高校3年の夏、母親の実家に引っ越した。 もの凄く夏が熱い地方で、帰るのは小学生の時以来だった。 俺の部屋は二階のつきあたり。 階下では祖母と祖父、母がにぎやかに西瓜を切り分けていた。 西瓜切れたよー、と母が呼ぶ声が聞こえる。 空気の入れ替えに窓を開け放して、部屋を出ようとしたその瞬間に見た光景。それを俺は一生忘れないだろう。 二階の窓から見下ろした、隣の家の庭に、彼はいた。 表通りからは見えない庭先で、使い込んだリクライニングチェアに座る若い男。細い煙草を口の端に咥えて、気持ちよさそうに体を伸ばしていた。 そこに家の中から出てきたもう一人の男。男はふらふらと歩み寄り、椅子に寝そべる彼に、ごく自然にキスをした。 それもやたら長い。 え? どっちも男だよな? 初めて見たよ。ホンモノ。 つか、長くね?ディープってやつ? 「りーつーっ!西瓜食べんのー?」 母親の大きな声で飛び上がった。今行く、と返事して窓を閉めようとして、もう一度身体がびくついた。 椅子に寝そべっていた男と目があった。 また煙草を咥えて、驚いたように目を大きく開けていた。 彼にキスした男は、もういなかった。 彼はのそりと椅子から立ち上がり、俺をしっかりと見上げた。 何か言いたげに彼は薄く口を開いたが、俺はあわてて窓を閉めた。 そのまま振り返らず、俺は階段を駆け下りた。 なんで俺、逃げたんだろう。 「どうしよ、切りすぎてしもうたわ」 「切る前に考えろよ…」 「ねえ、りっちゃん、お隣にこれ持って行ってよ。ご挨拶代わりにさ」 「…となりっ?」 俺と母は、酔うと暴力をふるう父から逃げた。俺が学校から帰ると、だいたいキッチンに割れた食器が散らかってた。母親は、しょうがないのよ、といつも笑っていたが、ある日俺は怒りにまかせて父を殴った。 それを機に離婚が決まり、俺と母は祖父と祖母が住む田舎の家に身を寄せた。 あともう少しで卒業のタイミングで転校することが寂しくなかったわけじゃない。 でも、母親が俺に隠れて泣きながら、殺される、と言ったのを見てしまったから。あの父親ならやりかねない。 田舎に越してきてから、母はみるみる元気になった。いまやすっかり地元の言葉に戻ってる。 俺は帰宅部だったし、進学の予定もなかったから母に着いてきた。 考えることがあるとしたら、就職だ。 「お隣の櫻田さん、おひとりなんだって」 「櫻田さん……」 隣というのは、たった今キスシーンを見てしまった庭のある家だ。 何でこのタイミングで。 「ほらこれ。りっちゃん愛想ねえけぇ、にっこり笑うて渡すのよ」 「…うっさいな。あと、りっちゃんやめろ」 母は、俺をずっと「りっちゃん」と呼ぶ。高校3年男子にはきつい。 知らない人が聞いたら、「りか」とか「りえ」とかいう名前の娘がいるみたいだっつーの。 半分に切った西瓜を持って、しぶしぶ隣の櫻田家に向かった。 こういうのを和モダンと言うのだろうか。木製の引き戸は、京都の和菓子屋さんの入り口みたいだ。 おひとりって言ってたけど。 ふたりいたけど。 つか、俺、襲われないかな。と、男なのにそんなこと、初めて考えた。 インターホンを押すと、音質の良くない呼び出し音が鳴る。 『はーい?』 「えっと、となりの咲枝です」 『はいはーい、今行きます』 咲枝は、母親の旧姓。やっと最近慣れてきた。 ところでさっきの「キスされた」人が出てくるんだろうか。 それとも「キスした」ほう? どっちにしても男だよな…気まず。 家の中からどたどた足音が聞こえたかと思うと、ガラガラと格子戸が勢いよく開いた。 姿を現したのは、「キスされた」ほうの人だった。 近くでみると背が高い。俺が175だから、多分180以上ある。 無精髭と、ぼさぼさで長めの茶髪。オーバーサイズのTシャツと、膝の出たスウェット。さすがに煙草は咥えてなかった。年齢は25~26といったところか。 チャラい。 それが第一印象だった。 「あー…、すんません、たくさん切ったんでこれよかったら…」 俺の差し出した巨大な西瓜の半玉をじっと見つめると、彼はにっこり笑って手を出した。 「ありがとう。いいの?こんなでかいの」 「いっぱい貰って、まだあるんで…」 「いただきます。おばあちゃんによろしく伝えて?」 標準語だ。地元の人じゃないのか。 祖母がたまに煮物とかお裾分けするんじゃ、と言ってたのを思い出す。 「あ、はい。どーも」 軽く会釈して、俺が帰ろうとすると、あの、と声をかけられた。 さっきのことだろうか。やっぱバレてるよな。ばっちり目合ったし。 「咲枝さんのお孫さん?」 「はい、先週こっち越してきて…」 「そうなんだ。高校生?」 「高3っす」 「じゃあ18歳?大人っぽいね」 彼は穏やかに微笑った。そして名乗った。 「櫻田 欧介(さくらだおうすけ)です。隣のよしみで、よろしくです」 「…咲枝 律(さきえだりつ)です」 見た目のチャラさと反する爽やかさ。俺はもう一度会釈して、そいじゃ、と櫻田家を後にした。
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