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《サンプル版》5.律
学校が始まった。
東京からこの時期に転校してきたというだけで、クラス数三つの小さな高校では、あっという間に有名人になってしまった。
あと一年もない高校生活で、確固たる友人関係が出来上がっている人間たちの中に入っていくのは、正直憂鬱だった。物珍しさだけでなんとかやりきってしまいたい。
前の席の雪村というやつが声を掛けてくれた。
クラスに必ず一人はいる、転校生に率先して声をかける明るいムードメーカー的な奴。
ねほりはほり聞かれるかと思ったが、意外と転校の理由は聞かれなかった。田舎だから、もしかすると先に話が回っているのかもしれない。
「咲枝ん家ってさ、あの朝顔の家の隣じゃろ?」
「朝顔…」
櫻田さんのことか。地元では朝顔の家って呼ばれてるんだ。
俺がうなづくと雪村は耳元で、こそこそ言った。
「あの家さ…連れ込み宿なんじゃ」
「連れ込みっ?!」
「シッ!」
口の前に人差し指を立てて、雪村はあたりを見回した。
「うちの兄ちゃんがさ、あそこの2階からアンアン言っとるの聞いたっ言よって…夏休み中、聞こえなんだ?」
「別に何も聞こえなかったけど…」
聞こえてはない。見た。櫻田さんのキスシーン。
男同士だったけど、連れ込み宿ではないだろう。普通の家、普通の人だ。
なんだかよく分からないけど、少し苛ついた。
そんなんじゃない、と言おうとしたのは、授業開始のチャイムに遮られた。
隣町にある高校には、自転車で通った。
まだまだ暑いが、風を切ることが出来るだけマシだった。
家につく頃には、半袖のワイシャツがべたべたになる。すぐにシャワーを浴びて、クーラーの前に陣取る。
母は、スーパーのパートを始めて、だいたい留守。
部活にも入っていない俺は、帰るとだいたい夕方までゴロゴロしていた。
田舎の暮らしは刺激もないし退屈だった。が、面白いこともあった。
隣の櫻田さんは、俺の知らないことをいろいろ教えてくれる。
俺が帰宅する頃はほとんど庭にいて、草を刈っているか、リクライニングチェアで昼寝している。
雨の日は、庭に面した部屋で、煙草を吸いながら本を読んでいる。
俺が自分の部屋の窓から手を振ると、手を振り返してくれる。
たまに降りておいでと手招きされることもある。
そういうときは、トマト買いすぎたよとか、知り合いにもらった海老を持って行きなよとか言って、だいたい食べ物をくれる。
美味しいコーヒーの淹れ方。古いカメラを見せてくれたり、DIYを手伝ってくれと言われて、庭に置くウッドチェアを一緒に作ったり。
とにかくなんでも出来る人だった。
優しくて、面白くて。
確かに最初の印象はアレだったけど、今はそんなことも忘れてる。
だから、雪村の言った「連れ込み宿」に腹が立った。
櫻田さんはいい人だ。
男が好きなのかもしれないけど、俺と居たっていやらしいことは何もしてこない。
あと数ヶ月でインスタントな友達をたくさん作るより、櫻田さんといるほうが楽しい。
「どう、友達、たくさんできた?」
「何その少学1年生みたいな聞き方」
「だって律、友達作るの苦手そうだから」
よく会うようになって、櫻田さんは俺のことを律、と呼ぶようになった。
たまに、りっちゃん、と呼ばれるのが少し困る。
俺は、櫻田さんの下の名前で、欧介さん、と呼んだ。
「欧介さんだって、人のこと言えないじゃん」
「俺は苦手なんじゃなくて、友人を選んでるの」
「へー…じゃあ、俺も選ばれたんだ?」
「そうだよ。じゃないと高校生とこんなに楽しく遊ばないよ」
欧介さんは、俺の自転車のサドルを磨きながら笑った。
パンクしかけていたタイヤに空気を入れてくれて、ついでに綺麗にしてくれた。
「欧介さんはさー、なんで田舎でひとりで暮らしてんの?」
「なんで…ねえ」
仕事は何をしてるのか聞いたら、お金が有り余ってるから、働かないで遊んで暮らしてるって笑って言われた。
半分は信じてない。確かにお金に困ってはいないようだけど。
今日は聞き方を変えてみた。
「都会が苦手なんだよねえ…」
「ふーん…」
煙草を咥えた横顔が、少し悲しそうに見えた。何か過去に辛いことがあったのかな、と思うのはTVの見すぎだろうか。
「なーに、神妙な顔して。ほら出来た。ぴかぴか」
サドルが新品のように綺麗に磨かれた。ほんとに何でもやる人だ。
俺はさっそく自転車に跨がった。
「ありがと、欧介さん。今度お礼にビールくすねてくる」
「くすねるって…そろそろバレるよ。バレたら俺が怒られる」
「あはは、そうだね」
俺は走りやすくなった自転車で、欧介さんの家の前を往復した。
その時道の向こう側に、母親がパートから戻ってくるのが見えた。
遠くから元気に手を振られたが、俺は無視した。なのに、欧介さんは律儀に頭を下げた。
「じゃあ、またね、欧介さん」
「んー」
欧介さんは煙草を持った手をひらひらと振って、家の中に戻った。
俺も自転車を家の戸口に停めた。
家の中からばあちゃんの作る味噌汁の匂いが漂ってきていた。
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